第30話 紅蓮の起動

 背後に切り立った崖がそびえる海岸に、その男はいた。

 小脇に小春を抱えている。小春は気を失っているようだ。

 はち切れそうな赤い丸顔に、気味悪く歪んだ口元、にやけたように見えるのが腹立たしい。

 例えるなら、蛙のようだと采希さいきは思った。


 海岸とは言っても、切り立った崖から細い急な階段を降りてきた、小さな祠がぽつんとあるだけのほんの二十メートル程の小さな砂浜だ。

 崖は男の屋敷の裏庭の近くにあった。おそらくこの小さな祠は、小島の祠とちょうど向かい合わせの位置に違いないと采希は考える。


 あの時、すぐにこの場所を捜し出しておけばよかったと後悔するが、もう遅い。

 向かい合ったカエル男が荒い呼吸音を立てながら呟く。


「なんでお前がここにいるんだ? 晴海ちゃんはどうしたんだよ? お前、祠を穢したヤツだろう?」

「穢した? 俺は浄化したんだよ」


 カエル男は、くぐもった唸り声を出す。


「僕の……僕の神様を半分消したじゃないか! 神様を消すことは穢す事と同義だ!」

「何言ってんだ、お前?」

「あの神様は僕の先祖からずっと助けてくれてたんだ! それを……許さない! 晴海ちゃんが僕に逢いにくるのまで邪魔しやがって!」

「だから、何言ってるんだ?」

「……お前……邪魔だよ」


 カエル男の顔がどす黒くなっていく。そのまま、自分が抱えている小春に視線を落とす。


「こいつも、邪魔。こいつがいなかったら晴海ちゃんは僕の所に――」


 その言葉を耳にした采希の怒りが爆発しそうになる。


「……何を、ふざけた、事を」


 采希の身体がぎしりと軋んだ。視界が赤く染まっていく。

 全身から炎が吹き出した。


「小春、を、離、せ!」


 耳元で轟々と音がする。采希の中で今度は炎か、と冷静に納得しているのを感じていた。


《なるほど、それだけの力を……》


 誰かの声に、采希は一瞬で我に返る。全身から一気に冷や汗が噴き出した。

 それほどにおぞましい、邪気。

 ここで暴走したら小春を巻き込んでしまう事に今更ながら気付いた。

 身体を覆っていた炎が急速に消滅する。


「……!! 琥珀!」

《ダメです、采希さん。あれはまだ人間です。私の矢では……》

「……ちっ!」


 気を込めると、右手に金剛杵が現れる。


「ヴァイス、小春を!」


 唐突に宙に現れた白虎に、カエル男が驚いて怯み、小春を抱えた腕が緩む。

 大きな口を開けて飛び掛かりながら、白虎が小春の身体をそっと咥えた。


「そのまま下がって小春を護ってろ!」


 カエル男に向かって駆け出す采希の背後に白虎が飛び退るのを確認し、金剛杵を持ったまま九字を切る。

 正に、蛙が潰れるような叫び声を聞いたその瞬間、後方から背筋が凍るような圧迫感が襲い掛かった。


《――その、力》


 くつくつと笑う声に、全身の毛が一気に逆立つ。


《その器ごと、頂こう》


 視界を覆いつくす闇と、身体の動きを拘束する霊気、金属がこすれるような耳鳴りの中、采希は初めて白虎の吠える声を聞いた気がした。



 * * * * * *



(……暗い。俺、どうなったんだ?)


 眼も耳も、何も捉えることが出来ない。まるで、【無】のような空間。

 身体も全く動かず、何の感覚も生じない。


(あの海岸の祠に何か、いたんだ。気になっていたはずなのに、俺はあのカエルにばかり気を取られて……)


 唇を噛みしめたいが、それすら出来ない。自分が呼吸しているのかも分からなかった。


(……俺は、一人じゃ何も出来ないのか?)

《そうだな、お前は無力だ》


 さっき聞こえた濃い邪気を含んだ声が再び響く。


《使いこなせぬ力など不要だろう。全て頂いてやる。力に見合わぬ小さな器だが、この際贅沢は言わぬ。――さあ、身体を明け渡せ》


 おかしなことを言う、と采希は思った。

 すでにこの身体は捕えられていて、身動きすら出来ない。今更明け渡せと言われても違和感しかなかった。


(このまま、乗っ取ればいいじゃん)


 投げ遣りな気分で、采希はほんの一瞬そう考えた。

 采希の感情は伝わったはずだが、声の主が黙り込んだ。


(…………?)

《お前の身体は、封印が施されている》


 ――そういう事か、と采希ははっとした。

 だったら、自分が諦めない限り身体を乗っ取る事はできないと言う事か、と思った。

 問題は采希がいつまでこの状況に耐えられるかなのだろう。

 身動きも出来ない、五感の全てが利かない状態で、精神的にもつかどうかが不安だった。


《そうだな。そんなにはたないだろう》


 新たに聞こえた声に、采希の思考が止まる。


(誰だ……? どこかで……声じゃなく、この気配を俺は知ってる?)

《覚えていたか。久しいな、白虎のあるじ


 視界を奪われているはずの采希の眼の前に、真っ白な狼が見えた。


(お前……ロキ?)


 これまで采希を助けてくれていた巫女の守護、白狼のロキだった。


(どうして……)

《シェンではこの空間に干渉できないのでな。お前の白虎も今は身動きできないようなので、私が来た》

(俺を、助けに?)


 何故、危険な目に合っているのが分かったのか、どうして助けに来てくれたのか不思議だった。


《お前が常に共にある琥珀は、誰の眷属か忘れたか?》

(そうか。琥珀を通して……)

《それと、お前を助けたいと申し出て下さった御方がおられてな》

(俺を?)


 巫女と琥珀が繋がっているのは分かった。だがその他に、自分の危機を知ることの出来る人がいるのかと采希は怪訝に思う。


《恩義があるそうだ。お前が浄化した祠に繋がる、龍――海神わだつみからの御依頼だ》

(…………は?)


 自分は祠を一つ浄化しただけだ。そこまで恩義を感じてもらえるような事はしていない、と考えた所で龍の姫の言葉を思い出す。


(そう言えば、姫があの祠を『いい場所にある』と言っていたな。海神にとって、重要な場だったという事なのか)

《浄化の礼に、お前が海にあって困難に当たった時は助けを呼べ、との言伝ことづてだ。よかったな、空と地と、そして海の龍の加護を得たではないか》

(海? 海上か海中ってことか? いや、海中はないか。でも空の龍? 地の龍は姫の本体のサーガラで――空って、誰だ?)


《さあ、ここから出るぞ》

(いや、待って、俺、身体が動かな――うあぁっ!)


 白狼に襟首の辺りを咥えられ、いきなり宙に放り出される。

 不思議と浮遊感はない。ここが通常の空間ではないからだろうと妙に納得しながら、采希の意識は途切れた。




 采希が気付いた時には、さっきの海岸に仰向けに横たわっていた。白狼はどこにもいない。

 そっと身体を動かしながら、起き上がってみる。

 特に異常は感じられない。


《……せっかく捕えたものを……》


 祠から声が聞こえ、慌てて振り返る。

 立ち上がった采希に、触手のような【気】の束が一斉に向かって来た。

 ゆっくりと右手を左から右に払う。

 采希の手の動きに合わせ、祠から伸ばされた【気】が薙ぎ払われる。その動きの中で、ふと采希は気付く。


 力がうまく使えないような気がした。

 何と言えばいいのか、とにかく身体の動きが重いのに、内部がカラになっているような違和感。

 意識した途端、采希の視界が緩やかに回る。眼をぎゅっと閉じて、軽い眩暈をやり過ごそうとした。

 采希の異変に気付いたかのように、祠から更に触手が繰り出される。


 無数の触手が迫って来る。この数は避けられない、と思った。身体が反応出来ない。

 采希の眼の前まで届いたそれが、突然何かに弾かれる。

 陶器を弾いたようなその音には覚えがあった。

 この音は、なぎの力で組み上げられた防護壁――結界が攻撃を防いだ音だ。




「采希!!」


 唐突に頭上から声が降って来た。

 声に釣られて見上げる采希の眼に飛び込んで来た、逆光で影になったその気配。


(――!)


 崖のかなり高い位置から飛び降りてくる、見慣れたシルエット。

 海岸の砂浜に1メートルを超える掘り跡を残しながら着地する。

 くるりと振り返ったその眼には涙が滲んでいた。


「待たせたな、采希!」

「お前、何でここに?」

「お前を助けに来たに決まっているだろう。身体はどうだ?」

「え?」

榛冴はるひが言っていた。琥珀から緊急エマージェンシー連絡コールがあったとな。また無茶な事を――」


 琉斗りゅうとの話の途中で、更に頭上から声が掛かる。


「采希兄さぁん!」

那岐なぎ!」


 琉斗と同じようにかなりの高さから飛び降りる。

 ふわりと着地した那岐の姿に、思わず感嘆の声を上げそうになった。


「だ~~~っ! なんでお前ら、その位置から飛び降りんだよ! ――采希、今行くから待ってろ!」


 凱斗かいとが、崖に作られた階段を急ぎ足で降りてくるのが見えた。榛冴も一緒だ。


「……みんな」


 采希が驚きながらも、こみ上げてくる気持ちを抑えている間、執拗に祠からの攻撃は繰り返される。


「その壁は破れないよ。凱斗兄さんと僕の力作だからね」


 嬉しそうに告げた那岐の眼は、少しも笑っていなかった。



「兄さん、大丈夫? 顔色が良くないよ」

「正直、かなりキツいな。短時間で片付けるぞ。――琉斗」

「何だ?」

「これを――」


 采希が琉斗に向かって手を差し出す。

 手の平を向けられた琉斗は、何のことだか分からずに怪訝そうに眉を動かした。


「お前の手を出せ」


 言われたとおりに琉斗が手を差し出すと、采希が琉斗の手に何かを乗せるような仕草をした。

 采希の手から右手が痺れるような感覚が伝わり、琉斗の身体全体に広がった。


「これは……」

「俺の、だ。さっき偶然その感覚が分かったから、気を練り上げてみた」


 じっと右手を見つめていた琉斗は、はっとしたように手を握ってみる。

 左腕のバングルが嬉しそうにぶるっと震えた。


「どうだ?」

「采希、お前の力、借りるぞ」


 不安そうに尋ねる采希ににやっと笑ってみせた琉斗の右手に、紅蓮が変化した木刀が握られていた。

 その刀身が紅い光を纏っている。


「――行くぞ、那岐」

「りょーかい」


 それぞれ三節棍と木刀を手に、那岐と琉斗が祠に向かって飛び出した。防護壁の向こうにすばやく回り込む。

 息の合った動きで触手を次々に消し去って行く。


「采希兄さん、危ない!」


 榛冴の声で振り返ると、カエル男が背後から采希に掴みかかろうとしていた。

 ひゅっと音を立てて飛んできたのはお稲荷様から榛冴が頂いたお札だ。

 カエル男の背中にぴたりと張り付き、身体の動きを抑え込む。


「油断しちゃダメだよ、采希兄さん」

「悪い、榛冴。――ヴァイス、榛冴を頼むぞ」

「白虎さん、よろしく……って、え? 赤ちゃん?」


 白虎にもたれて眠る小春に、榛冴が戸惑う。


「――この子が人質になってたの? 采希兄さんがブチ切れる訳だ。采希兄さん、琥珀を使える? その男の中に、祠と通じているらしい塊があるよ」


 凱斗と共に砂浜に降り立った榛冴の、迷いのない言葉に黙って頷いて琥珀を呼ぶ。


「榛冴、位置は?」

「鳩尾。そこが中心。琥珀さん、貫いちゃだめだよ。上手く矢を止めて」

「わかった」

《承知いたしました》


 お札の効果で動けないカエル男から少し離れ、采希は白銀の弓を構える。

 きりきりと引き絞った弓から光の矢が放たれ、カエル男の腹に吸い込まれていった。


「榛冴、こっちは? ――どこを潰せばいい?」


 那岐が三節棍をぶんぶん振り回しながら叫ぶ。


「地中」

「……はい?」

「砂地の中だよ。ここはお兄様の出番だね。ほら、凱斗兄さん」


 榛冴に肩を叩かれ、凱斗がにやりと笑う。


「え~~、しょうがねえなぁ。俺、怪我人なのに? ま、いっか。采希――」


 名前を呼ばれる直前に、采希は金剛杵を出現させて凱斗に向けて放る。


「おぉ、勘のよろしい事で。――じゃ、行きますか」


 器用に金剛杵を右手で受け止め、凱斗はのんびりと祠に向かって歩く。

 触手は、その矛先を歩いて来る凱斗に向けるが、何故か触れることすら出来ない。


《……この者は……》


 イラつくような祠の主の声に、采希はくすりと笑う。


「残念だな、お前はこの人には触れられない。穢れ切ったお前にはな」

《……私は、この海の、神だ》

「違う。お前は人の悪意や恨み辛み、そんなモノの集合体だ。ヒトが創ったモノで、神じゃない。海神はこんな祠で贄を与えられて、のさばっていたりはしない」

《違う! 私は……》


 凱斗が祠の前に立つ。


「さっきからさ~、鬱陶しいんだよね。俺に攻撃をしたいのは分かったから、無駄なことは止めとけ。それに――」


 一瞬、凱斗の纏う空気が変わる。


「お前、誰に喧嘩売ったか、分かってんだろうな?」


 金剛杵を握った右手が高々と掲げられ、一気に振り下ろされる。

 砂に突き立てられた金剛杵の周りから、どす黒い瘴気のような靄が吹き出した。


「那岐兄さん、そいつらを逃がさないで。琉斗兄さん、凱斗兄さんの突き刺した場所から6時の方向に約2メートル、そこに紅蓮を突き立てて。――采希兄さん、とどめを」


 矢継ぎ早の榛冴の指示に従い、那岐が靄の周りを素早く結界で囲う。

 琉斗が紅蓮を突き立てた場所は、唯一の逃げ道だった。

 退路を断たれ、那岐の結界の中で靄が狂ったように動いている。

 その中にごく小さな核があるのが、琥珀の眼を通して采希には見えた。

 ゆっくりと琥珀を頭上に掲げる。


「「「なうまく さまんだ ばざら だん かん!」」」


 采希と那岐、琉斗の三人が同時に唱えた。

 詠唱と同時に采希が矢を放つ。

 光の矢は那岐の結界を難なくすり抜けて核を貫き、靄を霧散させると同時に白い炎で包み込んで消し去った。


 眼を閉じて天を仰ぎ、采希は大きく息を吐く。


「お疲れ、采希。そろそろ身体も限界か?」


 凱斗が金剛杵を采希に渡しながら気遣うように覗き込む。


「正直、かなりしんどい」

「だろうな。じゃ、小太郎さんの家に戻ろっか」


 いつの間にか崖の上に停められていた車にみんなで乗り込む。

 采希の気配を追って来たはいいが、紅蓮には街の名前も道筋も分からない。方角だけは分かったので、凱斗たちは車でここまでやって来た。

 街に着いてからは龍の姫の案内で小太郎さんに逢い、事情を聞いて慌てて追いかけて来たところだった。


「この子を人質に取られたって聞いたからさ、采希兄さん、頭に血が上ってなきゃいいな、って心配してたんだ」


 采希の膝で眠る小春を恐る恐る撫でながら、榛冴が言った。

 その言葉に采希は苦笑いする。


「うん、油断した。あいつの中に取り込まれて、かなり危なかった。巫女殿の所の狼が助けてくれなかったらヤバかったかもな」

「あ~、なるほどね。紅蓮と姫さまが気配を追えなくなったのはそういう事か。那岐兄さんなんて放心してたからね、采希兄さんの気配が消えて」


 采希が少し動揺したように那岐を見ると、那岐は小さく肩を竦めた。

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