桜の木の下で
おじいさんは、桜が好き。だから私も、桜が好きなの。
桜が咲く季節には、おじいさんと一緒に丘へ登るのよ。
丘の天辺にはとても大きな桜の木があってね、その根元で腰を降ろして、ひらりひらりと舞う花びらを眺めるの。
初めて連れていってくれたとき、私は花びらを追い掛けて駆け回ったわね。……素敵だった。
それから何年も何年も一緒に花びらを眺めたけれど、そうね。いつの間にか私たちふたりとも、とても歳をとったわね。
ああ、ほら、おじいさん。気を付けて、お茶、熱いですよ。
今日はどうしましょうか、お散歩に行きますか? それとも、また日向ぼっこをしましょうか。
小さな庭を見渡せる縁側で日向ぼっこをすると、お日様の匂いがいっぱいでとても気持ちいいもの。
そうね、最近は私たちふたりとも足腰が弱くなったから、前みたいに丘の上の大きな桜は中々見に行けませんね。
またいつか、一緒に行きましょう。
……ある朝、いつものようにおじいさんを起こしに行ったの。でも、でもね。おじいさんたらとても幸せそうに眠ったままなのよ。
いつものように頬をぷにりと押してみたけれど、それでも眠っていたの。
わかっていたのよ、こんな日が来ること。
昨日の夜、いつものように私の頭を撫でながらおじいさんはありがとな、ありがとなって言っていたわね。
おじいさん、私もね、もうたくさん生きたわ。
おばあさんが亡くなったとき、まだ小さかった私が残された。あのときから長い時間が経ったのよ。
あのとき、私のことをどう扱っていいかわからずに一生懸命調べてくれたわね。
私おばあさんと約束していたの。おじいさんをよろしくねって、頼まれていたのよ。
ありがとう、おじいさん。桜の木の下で、また会いましょう。
◇◇◇
タマは桜が好きだ。俺も、桜が好きだ。
春になると、タマと一緒に丘を登った。
タマは花びらを追い掛けてころころと転げていたけれど、楽しかったか。
何年も何年も、一緒に見に行ったなあ。
けどなあ、最近は駄目だな。いつの間にか俺もお前もよぼよぼの爺と婆だ。
そんな心配そうな顔で見るんじゃないよ、お茶は熱いほうが美味いんだぞ。
散歩にも行ってやりたいけど、今日も日向ぼっこにしような。
そうだ、足腰がめっきり弱くなっちまったからなぁ、俺もお前も。丘の上の桜は、今年もお預けかもしれんなぁ。
けど、またいつか行こうなぁ。
最初、死んだばあさんが残した毛玉のような生き物に、どうしていいかわからなかったんだ。
懸命に調べたんだぞ、潰しっちまわねぇかとヒヤヒヤしたもんだ。
なあ、タマ。ありがとな、ありがとな。
ばあさんが死んじまってどうしようもなくなった俺を、お前が助けてくれたんだぞ。
俺がばあさんのところに行ってもな、お前のことはちゃあんと娘に頼んであるからな。
◇◇◇
桜の木の下、ばあさんが微笑んでいる。
ああ、懐かしいなあ。俺だけ、こんなに老けちまってなあ。
柄にもなく手を出すと、ばあさんはにこにこしながら握り返してくれた。
『いいんですよおじいさん。それでも、とても素敵ですから』
ああそうか。こんな俺でもいいってぇのか。
幸せな気持ちに、満たされていく。
同時に、ひとり残してきたタマを思い出した。
『……なあ、ばあさん。タマは立派に育ったぞ』
『ええ、ええ。見ていましたよ、ここで。タマは立派になりました……ほら、おじいさん』
ばあさんが指差す先を眼で追い掛ける。
とこ、とこ、と。
ゆるりとした足取りで、茶色っこい毛玉が丘を登ってくる。見間違えるはずはない、あれはタマだった。
『おい、タマや。どうしてお前』
思わず膝を着き、手を伸ばす。
『にゃあ』
とこ、とこ、と。
もう足腰がめっきり弱くなっちまったタマは、ゆっくりとゆっくりと、俺の腕の中までやって来た。
『タマ……そうか、そうか。ごめんな、俺が先にばあさんのとこに来ちまったから……お別れに来てくれたのか』
『……おじいさん違いますよ。タマはね、追い掛けてきたんですよ』
『にゃあーぉ』
そっと頭をすりよせるタマ。
追い掛けてきたってぇのか? 俺を。
ばあさんを見上げると、優しい顔で微笑んでいる。
『タマは、おじいさんがいる間、必死で耐えてきたんです。私の代わりに生きてくれてたんですよ。……タマや。ありがとうねえ、頑張ってくれたねえ』
『にゃあ』
心なしか誇らしげに鳴くタマ。
目頭が熱くなって、俺は指でぎゅっと摘まんだ。
『そうか……そうか。一緒に行くのか、俺たちと』
『にゃあ』
◇◇◇
その日、桜の木の下で、一匹の猫が眠りにつきました。
その表情はとても幸せそうで、まるで陽だまりに微睡んでいるかのよう。
桜の花びらがひらりひらりと舞い……そっと降り積もっていくのでした。
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