東京と月光帝と大嫌いなU市
寅田大愛
第1話
東京。彷徨うように。放浪して。この街のなかを。ずっと一人で。夜が来ても。朝が来ても。あたしたちはこの街で寝起きして、生きていく。ずっと。そう。ずっとずっと、断ち切れるまで。――
あたしたちは、街人。街と人は、同時に生き物だ。息をしている街を感じる。街が夕焼け空に包まれたとき、あたしは寝ぼけて、だれかが赤い絵の具を零しすぎたんだな、みたいな血が滲んだ色に似た空を見上げたとき、どうしようもないくらい、ベランダから空に向かってなにかを叫びたくなる。言葉なんか覚えるんじゃなかった、と言った詩人がかつていたが、あたしもそんな人の気持ちがわかる気がする。あたしはまだ言葉にならない思いを纏って、どの言葉を選べばいいのかわからない状態で、途方に暮れている赤子同然だ。しかもその気持ちでいるのがとても心地いい。言葉を選ぶ前の、言葉未然の気持ちや思いたちと戯れている方がいい。赤子同然で、言葉を手放した状態で、揺蕩っているのが、心地よくて好きなんだ。それがあたしの頭のなかの普通の状態だから。母国語が日本語なら、日本語を叫べばいい。でもあたしは日本語を叫べない。身体のなかに眠る多重言語のなかから一番ぴったりくる言語に、あたしはまだ巡り合えていない。
あたしは外国語を話すことを強いられた民の末裔だ。失われた王国の最後の王族の生き残りだと思っているから。あたしの国はすでに滅んだ。亡命した先の外国語を死ぬ気で勉強して覚えたのはいいが、母国語と呼べるほどしっくりこない。結果あたしは、何語を駆使してもどれもしっくりこない。言葉に頼らないコミュニケーションがあれば、そういうものを選びたいが、現在はまだ見つかっていないのだろう。
空が赤いんだよ。
これを言葉を纏わないで人に伝えるためには、どうしたらいい?
赤い色を見せればいいの? 赤い夕陽の写真を見せればいいの?
だからあたしはもう喋りたくないんだよ。
どうせ喋っても上手くあたしの伝えたいことを本当には伝えられないんだから。
あたしは、ベランダに出たまま、泣いてしまった。ベランダからしばらく帰ってこないあたしに異変を感じた彼氏が、優しい顔で、なに泣いてんだよ、どうしたんだよ? とか聞いてくるから、あたしは涙が止まらなくなった。
「夕日が、綺麗で。真っ赤で、美しくて。水彩画の絵の具を零したような空やわって、ヒエログリフでどうやって表現すればいいん? だれかあたしに教えて? 遥か古代中国語ではなんていう綴りなん? 行ったこともないような遠い国の今は存在しない古代ラテン語に似た言語とかではなんて言うん? その言語を使って言えば、あたしの血や身体は納得するの? もう滅んでしまった国の滅んでしまった言語で、あたしはこの感動を伝えたいのに、なんて言っていいのかわからないんよ。どうしたらいいん? あたしは出力障害よ。コミュ障よ。なんでかわかる? 日本語をこの身に纏うのが苦痛だからよ。でもあたしは日本語以外の言語を知らないんだよ。どうしたらいい? ねえ、泣きたくなるあたしのこの気持ち、あなたにわかる?」
「優莉。泣かないで。泣いても解決しない問題なんでしょ。ぼくはどうしたらいいんだよ? ゆっくり落ち着いて考えたらわかるかもよ。とりあえず冷えてきたから、お部屋のなかにお入り。話はそれからだよ」
あたしたちは真っ赤からすでに青みを帯びて紫色の空に変化してしまった風景をろくに見もせずに部屋の中に入った。
「あたし何語でなんて話せばいいのかわからないから、長いこと出力障害だったのよ。だけどあたしは日本語しか知らないから限界まで日本語で自ら進んで話してみるね。勝手に泣き喚いて勝手に納得して本当にごめんね」
「それがいいよ」
「なんかマニアックな話でごめんね。霊能力で先祖の霊をどんどん辿っていくと、あたしの血のなかには、知らない国の人がたくさんいるの。多国籍なの。本当に、本当なの。あたしは何人なのっていうくらい、たくさん混血してる。十五ヶ国よ。みんな滅んだ王朝の王族ばっかりなの。あなたは、このとんでもない話、信じてくれる?」
「もちろん信じるよ。でもきみは本当は日本人だと思うよ。日本で生まれて日本で育って日本の教育を受けてきたんだから。日本人ってことで、いいんじゃないかな。たとえ日本語がしっくりこなくて、日本語を纏うのが苦手でもね」
「日本語を喋ろうとするとき、難解な英文を作ろうとしてアルファベットのキーボードの上で、両手をかざして難しすぎて思わずどうしたらいいんだろうかってつい悩んでるみたいな気分になるの。日本語がしっくりこないの。でもこんなことに気づくのって、可笑しいと思わない? もう三十歳を超えたっていうのにね。あたしって本当に馬鹿だわ。きっともっとぴったりする言語が確固としてあって、その言語がうわんうわんと言って唸るようにあたしの頭のなかを潜在的にめぐるのよ。しかも複数ね。だからあたしはどれを選べばいいのかわからないの。だから途方に暮れてるの。わかってくれた?」
「しょうがないよ」正樹は笑ってあたしを抱き寄せてぎゅっと抱きしめてくれた。「ほら見て。もう日が暮れて夜になったよ。満月が綺麗だね。見てごらん」
こんなあたしにはもったいないくらい、出来のいい彼氏だ。本当に。なんて優秀なんだろう。あたしには贅沢すぎるくらいだ。正樹は背が高くてあたしの好みの狐顔の美男だ。黒いシャツにジーンズをはいている。
今日は満月だった。
ベランダ越しに窓の外をちらと見やると、あの近所の公園のそばの大きな森のなかに、月光帝のほの白いお城がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
〈ねえ。東京には山とか森とかはないんだけど〉
正樹の本当の声が体中を巡らせてあるセンサーを通して鼓膜を振動させながら聞こえてきた。
〈え! ないの! 全然?〉
あたしは知らなかったので、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。そう。あたしは本当は一度も東京に行ったことがない。脳内で、あたしと正樹はやりとりをする。脳みそのずっと奥の奥の方で、あたしの声が響いてきて届くのだ、と正樹が前に言っていたっけ。
〈全然ないよ。知らなかったんだね、お馬鹿さん〉
本当のあたしの部屋は、東京ではなく、とんでもない田舎の地方の県のとんでもない田舎であるU市のさらに田舎の方の平凡なアパートの、うす暗い六畳半のフローリングのごちゃごちゃした部屋だ。薔薇柄の布団のなかでもそもそしながら妄想をやめる。昼寝兼恋人との甘い妄想トーク。あたしの、大切な大切な、東京に住んでいます妄想。あたしは東京の、どこかのマンションで、正樹と同棲している、という妄想を大事に脳内に飼っている。こればっかりは、絶対に手放したくない毎日の生活必需品だ。部屋のなかは間接照明のほの明るい灯りにぼんやりと照らされていて、枕元の時計を見やると午後六時だった。こんな時間に家にいて、なおかつそのあたしとの妄想世界を共有してくれて夢を見ることを許可してくれるうちの彼氏は本当にいい人。ちなみに先ほどのベランダは、正樹の住んでいるマンションで見たベランダだ。正樹はベランダで洗濯ものを取り込んでいる途中だったから、妄想に手伝ってもらって、あたしの妄想を東京のマンションのベランダに放つことを赦してもらった。正樹は東京在住なんだ。それは妄想じゃない。
あたしの両親はまだ働いているから家にはまだ帰って来ていない。あたしは夕ご飯の準備のお手伝いとして、お米を炊いたり、自分の食べた昼ご飯のお皿を洗ったりするくらい。あとは洗濯物をとり込んで畳んでなおしたりするだけでいい。ああ、未婚女性万歳! あたし今、家事手伝いの身分です! と言っておけば、家族が赦してくれると思い込んでいるので、なんだかお得というか、免罪符を得ているような気がして、本当に自分に甘い自分としては、それでいいと思っている。とりあえず、今のところは。結婚するまでは引きこもりニートでも大丈夫だと信じているし、家の家族も追い出そうなんてしてこないから安心だ。
世間は赦してくれないかもしれないが、あたしにはどうでもいいことだ。U市の霊は、地元の代表的なボスのような存在である。喋る霊体は、ごちゃごちゃといつもうるさいことを言ってくる。
《ねえ。優莉。早く東京に行ってくれ。お願いだからさ》
ほらきた。出しゃばりめ。
《東京に行かなかったら、いじめ殺すよマジで》
うるさい。あっちへ行け。地元の霊が、あたしを仲間外れにする。あたしの顔が比較的美しいから。地元が集結して、あたしを嬲り殺そうとしてくる。
《おまえのすっぴんは地元人のフルメイクよりも美しい》
どうでもいいから! 死んじゃえよもう! 顔が美しいくらいで地元人が全員嫉妬してくるから小うるさい。
正樹がため息をついた。
〈……また聴こえるのかい? ベランダに出てごらん〉そう正樹が言うものだから、あたしは少々面倒だけど、思い切って布団から出てベランダの窓のカーテンを開けた。
〈月が綺麗だね。きみも一緒に遠く離れたU市から、ぼくといっしょの月を眺めていることになるね。それってなんだかロマンチックだよね。まるでデートしてるみたいな気にならない? 妄想もいいけど、本当はきみと一緒に見たいよ。それでいつかはきみと一緒に東京でこの景色をずっと二人で見ていたいんだ〉
〈わかる。あたしもそうだよ〉
あたしたちはつきあって半年だ。一年経ったら結婚するのだと信じている。
〈きみの住むU市からも、月光帝のお城は見えるんでしょ?〉
〈見えるよ。本当に不思議ね〉
〈満月の日は特によく見えるね。ああ、白くて月の光のように清らかで美しい〉
月光帝。
日本の遠い昔話に出てきた、かぐや姫の末裔だとされる王族の謎多き王子。その月光帝の住まい大雅城はお月様と一緒で、月の光が届くところなら、どこにでもあるように見える。日本だったら、たいていどこに住んでいても見える。どこからでもあるように見えるけど、本当はどこにあるかはわからないんだけどね。というわけで、U市でも東京でも、月光帝の大雅城はあるように見える。どういう仕組みなのかは知らない。だってほら、月から来た王様たちだから、われわれの想像をはるかに上回る技術力を持っていたとしても、だれも驚かないだろうし? ねえ?
〈でもね、正樹聞いて! あたし高校生のとき、家に月光帝の宴の招待状が届いたことがあるんだよ!〉
〈へえそうなんだ。ぼくの家には来なかったけどな。優莉が羨ましいよ。おれ男だけど。はは。これは冗談。やっぱ優莉が美人で目立つからじゃない?〉
〈そうかなぁ。自分ではちょっと自分の美貌にあんまり自信持てないんだよね〉
〈鏡見たら?〉
〈そうやって散々いろんな人に言われたけど、あたし小さいころからブスだブスだってまわりの人から言われて育ってきたから、ちょっとね……〉
《ブース! ブスブス! 大ブスだよ優莉なんて! 調子乗んな!》U市が無理やり乱入してくる。絞め殺すぞクソゴミが。あたしは内心で毒づく。
〈優莉は可愛いよ〉
〈ありがとうね〉
〈元気出してね〉
〈本当にありがとう。優しいね。涙出そう。なんてね〉
〈うんうん〉
〈正樹。大好き〉
〈ぼくもきみが好きさ〉
とかついうっかりいちゃいちゃしてしまう。しょうがないか。
〈ごめんね優莉。ぼくは夕飯の準備があるからいったん妄想世界から離脱するね。お話はできるけどね。優莉のお話も、聞いてあげるからね〉
〈うん、わかった〉
そう答えながらも、あたしは不安だった。U市からの猛攻撃をもろに受けてしまうことを一瞬、畏れたのだ。でも、仕方がない。正樹だって、四六時中あたしにぴったりはりついておくわけにはいかないし。〈すぐ帰って来てね〉
〈甘えん坊さん!〉
〈もう。なによぉ〉
そう言いながらも。内心では戦闘態勢に入る。
やだなあ。一人ぼっちになると、またU市が総攻撃しに来るんだよね。はあ。
あたしを顔がいいくらいのくだらない理由で僻んで嫉妬してきて、孤立させて、精神的にダメージを与えて仲間外れにして、あたしに、東京へ行くか自殺するかの二択を選ばせようとする。切羽詰まっているのだ。これはあたしが高校生のときからそうだった。いい加減きつい。
《おまえは絶対に一秒でも早く東京へ行くべき》
地元人の霊が嫉妬に狂っていつも全員がいじめてくるから辛い。彼らは、あたしがU市に留まることを赦さない。あたしは地元にはもはや自分の部屋のなかか正樹との東京にいます妄想のなかでしか居場所がない。とてもじゃないけど、生きていけない。居場所がない。そのおかげで、あたしは外出ができない。家の外に一歩出ると、悪口が四方八方からびゅんびゅん飛んできて心無い言葉たちを執拗にぶつけられるからだ。
〈優莉? 大丈夫? ぼくの今日のご飯中華丼だよ〉
〈大丈夫。美味しい?〉
〈うん!〉
ああ、正樹は可愛い。性格がいいのだ。癒される。
あたしはベランダに出て洗濯物をとりこんだ。U市の声が聞こえる。
《まだ家におるよあの馬鹿。頭悪い》
《知的障〇者やけしかたがないやろ》
《やね! ははははは》
U市の連中みんな死ね。
こんなにひどい目に遭っても生きている方が奇跡みたいなものだ。もういい加減非行に走れよ優莉とか人の一人くらい殺したどうなん優莉とかいろいろ酷いことを言われたこともある。
あたしは犯罪者になるのは、嫌なんだ。
街の霊や街人があたしを犯罪者にしてしまうことを願って、あたしの栄光に泥を塗って台無しにしてしまいたいくらい嫉妬に狂ってるのはどうでもいいけど、あたしは悪いことをしたくないんだ。絶対に。あいつらと同じレヴェルの低い次元の人間になんて、絶対になりたくはない。優越したい。どこまでも。あたしは圧倒的勝者でいたい。
《いつまでおるつもりなん? 優莉の負け犬》
黙れったら!
《嫌なら首吊って死ね》
おまえが死ねば?
《U市は生命体じゃないから霊体だから死とか生とかいう概念に縛られませーん!》
クソが。
あたしはお金がないから、上京したくてもできないの! 身体が弱くてフルタイムとかバイト掛け持ちとかして働けないからお金を稼げないの! 親がいち凡人として生きろっていうしおまえはきっと適応できないだろうから東京に行くなって泣いて止めるから、東京には行けないの! わかった?
《なんで?》
わかってないのか!
もう知らない!
〈優莉大丈夫?〉正樹だ。
〈U市がまた悪口言ってきていじめてくる……〉
〈かわいそうに。もう寝たら?〉
眠っている間は、U市から離れられる。それがとても幸せなことだと思える。
〈じゃあ、先に眠るね。体調悪くてごめんね。おやすみ。一人ぼっちにして、ごめんね?〉
〈大丈夫。おやすみ優莉。また明日〉
あたしには、正樹がいてくれるから、幸せに生きていられるんだ。ありがたいことだ。
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