第8話 ラビット

 深呼吸を一つ。

 相手は会話BOTだ。プログラムだ。


「興味は出たよ」

『それは重畳。仲良くしようよ、ご主人。女の子にばかり構いたくなるお年頃なのはわかるけど、未来人はいわば精神ババアだぜ?』

「……俺は年上趣味なんだ」


 やはり、俺の置かれた状況を認識している。

 どうなってるんだ。


 海空姉さんはこれを会話BOTだと言っていた。人工知能ではなく、BOTだ。

 受け答えはデータを引用しているはずで、思考しているわけではない。


 そもそも、なぜ、俺の周囲に未来人がいると『ラビット』が知っているんだ。スマホのスリープモードでも周囲の会話を拾う仕様だったのか?

 いずれにしても、非常にまずい。


 この『ラビット』が笹篠や迅堂がいる場で未来人うんぬんと言い出せば、『シュレーディンガーのチェシャ猫』で二人の記憶や人格が消し飛びかねない。

 このアプリ、いわば爆弾になってしまっている。

 スマホ内から消去してしまうか?


『消去はヤメテ。キャー、コロサレルー』

「……まるで、未来を先読みしているような言動だな」

『ご主人、ここは思考を読んだのかもしれないぜぃ?』


 ため息をつく。


 正体不明だが、このアプリの名称は『ラビット』だ。

 チェシャ猫同様、不思議の国のアリスに登場するキャラクターをもじっている。

 未来人にまつわることに関係していても不思議ではない。開発者の海空姉さんがそもそも未来人なのだから。


 考え込んでいると、画面の中で『ラビット』がぴょんぴょん跳ねた。


『ご主人、取引しよう。このラビット、お役に立つことは間違いなし!』

「取引?」

『そうともさ! 未来人のいる場では、不肖ラビット、お口チャックしておくよ。だから、ラビットを誰にも見せないでくれれば、きっといいことあるぜ?』

「なるほど。『ラビット』が未来の記憶を有しているなら、他の未来人に観測されると『ラビット』の記憶や人格が吹き飛ぶのか」

『おぉう、怖いことを考えるねぇ、ご主人。ヤメテヨ?』

「どんないいことがあるんだ?」

『その日のお楽しみさ』


 そう言って、『ラビット』は勝手にスリープモードに移行した。

 俺は落ち着くために深呼吸をしてから、ゆっくり歩きだす。


 『ラビット』が他の未来人とは明確に異なる点がある。

 俺を救いに来たとは言わなかった点だ。

 どうにも不気味だが、海空姉さんに相談しようとして『ラビット』が未来人云々とカミングアウトしたら一巻の終わりだ。スマホをどこかに預けるとしても、現物がない状態では海空姉さんも調べられない。

 まぁ、仮説自体は立てられないこともないんだけど……。


 悩みつつも松瀬本家の玄関を開ける。

 お手伝いさんが俺を見て、一礼した。


「お嬢様はいつものお部屋でお待ちです」

「ありがとうございます。食事などは昨日と同じでお願いします」

「かしこまりました」


 お手伝いさんの先導を断って、足早に廊下を歩く。

 海空姉さんの部屋の戸をノックすると、声が聞こえた。


「入っていいよー」


 だらしない、お嬢様モードではない海空姉さんの声だ。俺が一人なのを知っているんだろう。

 扉を開けて中に入ると、パソコン画面に『ラビット』を表示させた海空姉さんがキーボードで何かを打ち込んでいた。

 画面の『ラビット』の姿に一瞬怯んだが、どうやら3Dソフトで新しい衣装を作っているらしく、会話BOTとしての『ラビット』は起動していないらしい。


「いらっしゃい、巴。呼んだのはボクだけど」

「毎日呼ぶつもり?」

「そうしてもいいなら、毎日だって呼ぶさ。ボクは巴が大好きだからね。ところで、『ラビット』とは遊んでやっているかい?」

「……さっき少し話したよ」

「外で? なかなか勇気があるね。職質されなかった?」

「されてないことは知ってるでしょ」

「まぁねー」


 軽い調子で笑って、海空姉さんは作りかけのデータを保存するとパソコンの電源を落とした。


「言っただろう。ボクは巴を救いに未来から来た。だから、巴の身の回りの些細な変化も見逃したくないのさ。鬱陶しがられるとしてもね」

「別に、鬱陶しがってなんていないよ」

「そうかい? 彼女とデートでもしていたんじゃないのかい?」

「してない、してない」


 買い物デートの予定は明日だから、嘘はついてない。

 座布団に座ると、海空姉さんは椅子の背もたれに抱き着いて俺を見た。


「さぁ、今日は何か変わったことがなかったか、聞かせておくれ」

「変わったことねぇ」


 未来人でもない俺に変わったことがないかと聞かれても……。

 よぎるのは当然、先ほどの『ラビット』の言動だが。


「とりあえず、近況報告。クラスメイトの笹篠って女子と球技大会で男女ペアのテニスに出ることになった」

「球技大会か。いつ頃行われるんだい?」

「今週の金曜日にクラス代表決めで、球技大会は来週の金曜日の予定」

「時間がないね。練習なら、テニスコートを手配しておこう。竹池がテニスクラブを経営しているから、話を通しておくよ」


 竹池のおじさんか。親戚である。


「権力の乱用じゃない?」

「親族に便宜を図るのが一族の長たるボクの役目さ。巴に限ったことじゃないよ」


 海空姉さんはさっそくスマホを取り出すと竹池のおじさんに連絡を取り始める。

 こういう迅速さは松瀬本家を動かすお嬢様だけあると、いつも感心してしまう。


「――明日からでも大丈夫だってさ。道具類も貸し出しの他、テニスの道具であれば併設のショップで販売しているから見ればいい」

「あ、うん」


 テニスコートを使わせてもらうんだし、お金を落とさないとだよね。

 ごめん、笹篠、買い物デートはキャンセルです。テニスコートを使わせてもらえるから許してほしい。


「ボクも運動不足だし、ちょうどいいからその笹篠なにがしと顔合わせでもしようかな。ダブルスなんだろう? ならもう一人、ちょうどいいのがいるといいんだけど」

「待って、海空姉さんも来るの?」

「行くよ?」


 お手伝いさん、この話を聞いたら卒倒するんじゃないか?

 それどころか、一族全体に激震が走るだろ。


「海空姉さん、外に出られる服はまだちゃんとある? 高校時代の服とか着られなくなってない? 靴とかある? 紫外線対策のやり方は覚えてる? 横断歩道は渡れる?」

「……巴がボクのことをどう思っているかよく分かったよ。そこに座りたまえ。説教してやる」

「だって、もう一年以上、本家の敷地から出てないじゃないか! それがいきなり、テニスをするだって? 筋肉痛になる覚悟はあるの? 靴擦れ対策は? ラケットを持つ手にマメができるかも」

「過保護すぎる! ボクは巴を救うために未来から戻ってきた頼れるお姉さんなんだよ!?」


 あ、いじけた。

 海空姉さんはベッドにダイブすると布団をかぶってふて寝し始めた。


「……とにかく、明日ボクもテニスする」


 そこは譲らないんだ……。

 大丈夫かなぁ。

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