第4話 『シュレーディンガーのチェシャ猫論』

「ふむ、姉さんも、ということは他にも未来人がいるのか?」


 思わずツッコミを入れる俺に対して、海空姉さんは冷静沈着だった。

 ちょっと反省。人のふり見て我が振りを直せるのが俺のいいところと今決めた。


「俺が知る限りでは――」

「待ちたまえ。話さないでくれ」

「え? なんで?」

「パラドックスが起こるのさ。今日、これからボクのところに来てくれるかい?」

「まぁ、大丈夫だけど」


 悲しいかな、突然呼び出されることには慣れている。

 自宅へ向けていたつま先を松瀬本家に向けて歩き出す。


「海空姉さん、一つ、確認していいかな?」

「いいとも、ひとつと言わず、いくらでも」

「海空姉さん、未来で俺と付き合っていたり、とか?」

「……ふふっ、答えるとは言ってないよ?」


 はぐらかされたんだけど……。

 俺、三股したの?

 してないよね?

 心配になってきたので意味もなく早足になる俺である。

 未来の我が振りを見て、我が振り直せるといいなぁ。


 一度通話を切って、両親に連絡する。

 松瀬本家に呼ばれたというと、慣れた調子で「行ってらっしゃい」と返された。

 昔から海空姉さんとは仲が良く、本家に呼び出されて徹夜でゲームしたりなんてことも日常茶飯事だっただけに、心配されないのは仕方があるまい。

 でもね、息子は死の運命にあるらしいっすよ?


 見慣れた松瀬本家は相変わらずの大きさで、漆喰塀に囲まれた敷地へ木の門をくぐって入る。

 お手伝いさんが一人、出迎えてくれた。


「お嬢様から聞いております。夕食はいかがしますか?」

「海空姉さんは食べましたか?」

「まだ召し上がっておりません」

「でしたら、一緒に食べると思います」

「後ほど、お部屋に運びましょうか?」

「お願いします」

「かしこまりました」


 一礼するお手伝いさんはくるりと音もなく反転すると、足音を一切立てずに海空姉さんの部屋へ歩き出す。

 庭で虫が鳴いている。リーン、リーンと物悲しい音色は明かりの届かない庭園の隅から発せられているのだろう。

 幼い頃は、この無駄に広い庭で花火をしたりもしていたけれど、もう何年も庭に降りてすらいない。そう思うと、虫の音が俺を呼んでいるような気がした。

 海空姉さんの部屋は今朝とおなじく冷気を外に漏らしている。


「お嬢様、白杉巴様をお連れしました」

「入りなさい」


 凛とした、静かでありながら物を言わせぬ声が部屋の中から響く。

 お手伝いさんが静かに扉を開けて、俺に場所を譲った。

 中では海空姉さんがパソコンに向き合っている。背筋がまっすぐと伸び、気品にあふれたその姿は松瀬本家のお嬢様と呼ぶにふさわしい美しさ。

 お手伝いさんが気圧されたように吐息をこぼす。


 俺が部屋の中に入ると、お手伝いさんは名残惜しそうに扉を閉めた。

 遠ざかる足音が聞こえなくなると、海空姉さんが息を吐きだして背もたれに体重を預けた。


「ふへぇあ……。みんなして、ボクに理想のお嬢様像を求めすぎだと思わないかい? 巴、食事は?」

「気を抜きたいんだろうなと思って、ここに運んでもらうよう言っておいたよ」

「さすがは巴。我が幼馴染にして腹心の部下だけあるじゃないか」

「調子いいなぁ。デザートにプリンでもいる?」

「買ってきてくれたのかい? ありがたくいただくとするよ」


 くるりと椅子を回転させて俺に向き直った海空姉さんは足の曲げ伸ばしで反動をつけて立ち上がる。

 そのまま軽い足取りでふわりと回転すると、ベッドの上に身を投げ出してあおむけに寝転がった。

 ぽすんと軽い音がして、甘い香りがふわりと漂う。

 嗅ぎなれている海空姉さんの匂いを意に介さず、俺は定位置になっている座布団に腰を下ろした。


 海空姉さんが「涅槃のポーズ」とか言って俺を見てくる。


「始業式やアルバイトのこと、いろいろと聞いてみたい話題の多い一日になっているはずだけれど、目下の問題は電話で話したパラドックスかな?」

「それだね。未来人のことを話すとだめってどういうこと?」

「そうだね。どこから話したものかな」


 言葉を選ぶように瞑目した海空姉さんは、しばらくしてから話し出した。


「シュレーディンガーの猫、という思考実験は知っているね?」

「まぁ、有名どころだよね」


 猫を入れた箱に毒ガスを注入し、猫が生きているか死んでいるかというお話だ。観測するまで、箱の中の猫は生きているとも死んでいるとも不確かな状態になる。そんな思考実験。


「そう。その箱に猫をもう一匹入れたら、どうなると思う?」

「え? 変わらないんじゃ……あ、猫同士が観測するから生死が確定する?」

「その通り」


 正解だ、と頷いて、海空姉さんは体を起こした。


「未来人がこの世界で一人の場合、誰からも未来人かどうかは確定されない。観測されない。未来人は猫、この世界は箱だと思えばいい。だから、もしも二人の未来人がいた場合、互いを観測し、未来人だと確定してしまう。さてさて、するとどうなるか」

「どうなるんだよ?」

「――未来の記憶や人格が吹き飛ぶ」


 海空姉さんは自分の頭をトントンと人差し指で示して、はっきりそう言った。

 なんでもなさそうに言っているが、すごく怖い話だ。


「……なんでそんな物騒な話に?」

「原因はパラドックスにある。例えば、未来から今の時点に巴が戻ってきて、ボクに対して未来人だと打ち明ければ、ボクの記憶と人格が吹き飛んでしまう。なぜなら、ボクが観測したこの時間での巴は未来人ではなかったから、矛盾が生じてしまうってわけ」


 平たく言ってしまえば、『あれ、こいつ前の世界線で現代人だったのに、なんで未来人になってるの?』という矛盾が発生するってわけだ。

 それでさっき、シュレーディンガーの猫で二匹も箱に入れる話をしたのか。

 互いを観測できる猫は互いを未来人だと確定できてしまう。


「そうなると、なんで俺は海空姉さんが未来人だって知っても無事なんだ?」

「簡単さ。君は現代人。つまりは猫ではなく箱の一部だから、未来人を未来人と観測しても矛盾しない」


 なるほど、筋は通っている。ようは権限の問題だ。

 俺は猫と違って箱、未来人と違って現代人だから、未来人を観測する権限を持っていない。


「それじゃあ、未来人同士が出くわすのは危険なのか」

「危険といえば危険だけど、未来人だと確定されない限りは大丈夫さ。後は、例えば一週間後から巴が戻ってきた場合、ジャンプ前の時間、つまりは今から一週間後を過ぎれば巴も未来人ではなくなるね」


 未来人同士が出会ってすぐに記憶が吹き飛ぶわけではないのか。

 つまり、海空姉さんや笹篠、迅堂が一堂に会しても互いに未来人だと告白しなければセーフってわけだ。


 振り返ってみれば、笹篠も迅堂も、未来人と告げる時には周囲に聞こえないよう、俺に耳を寄せていた。他に未来人がいる可能性を危惧していたのか。

 話を聞く限り、未来人が自分は未来人だと話すのはかなりのリスクだ。下手をすると生殺与奪の権を握らせることになる。

 世の中が未来人で溢れないはずだよな。


 それでも、俺に未来人だと暴露したのは三人とも俺が死ぬ運命を回避したいから、協力を仰ぐためか。

 笹篠と迅堂の告白をなかば茶化す形で受け流したりしたのは反省しないと。明日、謝ろう。

 海空姉さんが笑う。


「まとめると、未来人同士が出会った場合、かつ互いに持つ未来の情報に矛盾があった時、未来人は意識を喪失し、記憶は消滅する。そうすることで、世界に矛盾はなくなるんだ。これだけ覚えておけばいい。口は禍の元ってこと」


 海空姉さんが俺の顔を覗き込んでくる。


「故にボクたち未来人は他の未来人に存在を悟られないよう姿を消し、口だけ出して望む未来に導かなくてはいけない」


 そう結論付けて、海空姉さんは未来人にまつわるその現象に得意そうに名前を付けた。


「これが、『シュレーディンガーのチェシャ猫』さ」


 ――シュレーディンガーのチェシャ猫。

 未来人は世界という箱の中で、不思議の国のアリスにおける口だけを残して透明化する猫、チェシャ猫になると。


 なるほど、と納得する。

 実際にシュレーディンガーのチェシャ猫を見たわけではない。未来人が記憶と人格を吹っ飛ばされるところなんて見たくもない。ましてや、それが知り合いだなんて想像もしたくない。


「口には気を付けるとするよ」

「そうしておくれ。ボクだって、消えたくはないからね」

「……ねぇ、海空姉さんがその理論をくみ上げたのって、実体験から?」

「黙秘するよ」


 痛みをこらえるような顔をされてはそれ以上聞けなかった。

 海空姉さんは俺の額に人差し指を突き付けてくる。


「未来人は過去をやり直したいから戻ってくる。巴から見れば未来の改変だ。未来人にとっても予測できないことが起こるだろう。だから巴、未来人が困っていたら助けてあげるといい」

「……それって、未来人じゃなくても同じだろ。誰だって未来は分からないはずだ。それで困っている人なら未来人だろうと宇宙人だろうと助けるでしょ」


 当り前の指摘をすると、海空姉さんは野良猫が甘えてきた時のような、驚きと嬉しさがないまぜになった表情で笑った。


「ふふっ、そうだね。巴はそう言う奴だったね」

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