第59話 ある男の話④

「ぅう……」


 どれほどの時が経ったのか本人はわからないが、朧気ながらアカツキは意識を取り戻す。


 ゆっくりとまぶたを開いて前方の風景を確認する。そこには大きなマスの目が規則正しく刻まれた濃灰色のうかいしょくの壁が視界を埋めていた。しかし貼り付けられている蛍光灯が視界外れに確認してすぐ天井だと判明する。


 取り敢えず起き上がろうと体を起こすと、手と足の首に異変を感じた。思わず右手首を目の前に持ってくると、手枷が固く装着されているではないか。


「な、何だこりゃ?!」


 慌てて残りの四肢を確認すると、同様の枷が左手首と両足首に嵌められている。それらの大元を辿ると、背面側の部屋中央の壁に大の字で張り付けにできるよう細工されていた。今は鎖が長く伸びて鉄格子までなら行動の自由が効くようになっている。


 前方の全面が鉄格子という状況を把握して、ここが初めて牢屋という事に気づいた。

 薄い布団が乗っている白いベッド、上下一体の薄い白の手術服、白い便器、暗い室内、所々錆びついている鉄格子、常にこちらを向いて椅子に座り監視している看守。


 自分は一体何をして牢屋に閉じ込められたのだろうか。


 すると完全武装している看守が椅子から立ち上がり、近くの小さなテーブルに置かれている固定電話の受話器を取ってダイヤルを回す。


「501号室の見張りです。被検体が目覚めました。多少困惑していますが、問題は見られません……はい、わかりました。ではこれで」


 看守は受話器を下ろすと椅子に座り、AKS-47を構え直してフルフェイスマスク越しに突き刺す目線をアカツキに向けた。

 そんな看守が自分のことを指しているであろう「被検体」という単語に恐怖を覚え、できる限り男から情報を引き出そうと矢継ぎ早に質問する。


「おい、そこのあんた! ここはどこなんだ!? どうして俺はここにいる!? 被検体って一体何なんだ!? おい!? 聞いてるのか!? 答えてくれよ!!」


 黙秘したままの看守に対してアカツキは段々とヒステリックな口調で問い掛け続ける。


「もうやめなさい、看守に何を言っても答えないぞ」


 気づけば看守の横に白衣を着用した研究員と思われる男数人が立っていた。全員こちらに研究者特有の事細かに観察する目線でアカツキの体を舐め回すように見ている。

 その中のリーダー格と思われる中年の太った男が一歩前に出て口を開いた。


「気分はどうだい?」

「クソみてぇに最悪だ。そもそもテメーは誰なんだよ」

「ほんとに君はイギリス人なのか? ジェントルマンらしく、もう少し紳士に振る舞うと思っていたが、まあ育ちが育ちだからか」


 アカツキはその言葉で身辺調査されていたことを知り、梓まで馬鹿にされたように感じて腹が少しばかり立った。

 自分を捨てた親や神の教えなどと称して個人の考えを押し付けてきた尼は最悪だと評されるべきだが、梓はそれには値しない。スラム街で生計を立てていた俺に酔っ払い発言ながらも育てると言い、それに背くことなく大学院まで金を出してくれたあいつには気に食わないが感謝はある。


 だが、ここでその怒りをぶつけてもメリットは生まれない。ここは堪えて情報を引き出すことに専念する。


「で、テメーの名前はなんだ? 肉付きがいい共産主義者コミュニストさんよ」

「失礼、私の名前はユーリ・アンドロポフだ。君の想像通りソ連人民で、新しくここに建てられるカリヤ・新エーテル応用開発研究所の所長を務めることになった」


 顔は覚えられなくとも名前は記憶するアカツキにとって、見たことのある名前だった。国際基地におけるソ連側のトップで、確か父称がユーリエヴィチだった気がする。


「お前の名前はわかった。まだ聞きたいことは山々あるから全部答えてくれるよな?」

「まあ、機密に抵触しないならな」

「なぜ俺は牢屋に牢屋に閉じ込められている? 罪を犯した自覚はないが」

「犯罪をしたかしてないかで君は閉じ込めらている訳ではない」


 正当な理由なく行動の自由が奪われている?

 そう思った時に相手の言葉が続き、一つの信じがたい仮説が思い浮かぶ。


「君はあの日以来、能力が使えるようになっただろう? それが原因だ」

「……まさか、俺を実験動物モルモットに?」


 そうは思いたくなかったが、それを否定する証左としてアンドロポフは少し驚いた表情を浮かべる。


「勘が鋭いな。早い話、そうゆうことだ」


 アカツキは思わず鉄格子を両手で握り締めて怒鳴るように言葉を吐く。


「ふ、ふざけるんじゃねぇ!! 俺はそんな話に同意した覚えはないぞ!! しかもこのことがイギリスにバレたらどうなるか」

「わかってるから、KGB頼もしい友人の手を借りて生存名簿から削除してもらったよ」


 終わった。

 真っ白な思考の空白の末、アカツキはそう思った。


 自分は単なる一実験材料としてこのまま生涯を終えるのだ。脱走したところで、ここはソ連のど真ん中。そこから先はどこまでも続く大地が行き先を塞ぐ。

 仮にMI6イギリス情報局秘密情報部CIAアメリカ中央情報局が嗅ぎつけたとしても、その頃までに果たして自分は生き残っているのだろうか。自分と同様な能力を保持している者を知り得ない以上、貴重なのは間違いない。長生きさせられる羽目になるのだろう。


 アカツキはここで死ぬ未来像しか見えず、力なくその場に立ち崩れる。


「取り敢えず、我々は君の健康状態を確認しに来ただけだ。それでは、明日からよろしくね」


 アンドロポフはそう言い残し、研究員たちを引き連れてその場を去る。

 そこに残されたのは、ただただ跪いて絶望するアカツキと監視を続ける看守だけだった。




 そこから始まった日常は、酷く苦痛と倦怠に満ちた日々だ。


 始めの数日はKGB職員から質問攻めにあった。

 恐らくかき集めた情報の照合が主な目的なのだろうが、不可解だったのは梓について何度も問われたことだ。事細かく聞かれる中で、ソ連に対してスパイ活動の疑いが掛けられているらしい。そもそも彼女はロシア語を少しも解せないのでスパイ活動を行った可能性は極めて低い。


 なのになぜそのような疑いが掛けられたのかはわからずじまいで、中々口を開かないアカツキに痺れを切らした職員は拷問を行おうとした。が、直前で貴重な被験体だからと研究員から注意され断念。その後も粘着質な質問に同様な返答を続ける姿勢を見せられたからか、そこで質疑は終了した。


 次の日から人体実験が始まった。


 小銃を構えた看守が見張っている中、エーテルを通さない特殊な手足の枷を通常の金属製の枷に、研究員から渡された鍵を用いて自分で変える。これは投獄前にアカツキから感知された溢れ出るエーテルが、能力使用における原因ではないかと睨まれたからであった。

 それが終わると、繋がっている鎖が部屋の壁の方に巻き取られて大の字に張り付けにされる。身動きが取れなくなったところで研究員が入室して様々な実験を行うが、主に行ったのは人体へ直接エーテルを流すことだった。


 エーテルを人体に与えたらどのような影響が起こるのかは、それを閃いた研究者自身が身を持ってすでに証明済みだ。結果は多量出血による死亡。しかも出血の原因は不明であり、人体の形状もゲル状な何かに変質していた。その後のマウスなどの小動物を用いた実験により、死亡した実験のエーテル値の変位から単に出力が過剰なまで大きかったことが原因だと発覚する。


 要するに電気を人体に流すのと同じ現象だと推測でき、それの限界値近くを測定するためにアカツキは使われたのだ。


 エーテルを体に流される気分は不快そのものだった。

 イメージとして、脊椎を空洞のゴムホース、それを閉じているピンチコックとするとエーテルは水だ。水が強制的に押し込まれるが、ピンチコックが塞いでいるため流れず、どうしようもないのでゴムホースが膨れ上がる。その膨らみが激痛と謎の不快感に変換されてアカツキへ伝わるのだ。


 実験中に気持ち悪さで何度嘔吐したことか。その中に糸くずのような鮮血が混じったのを見た瞬間、体がどうなっているか不安で仕方なかった。しかし研究員が実験の手を弱めることはない。


 アカツキが投獄されてからどれくらい経ったのか、感覚であやふやになる頃に明確な変化が身体に起こり始める。


 一日二回の食事から味を感じ取れなくなった。

 掃除が一切されていない便器からの悪臭がなくなった。

 靴の種類によって看守か研究員かその両方か、正確な音の聞き分けができるようになった。

 冷えた床や空気の微弱な温暖さや出入りに敏感になった。

 向こう側に存在する空いた牢屋の暗い部分まで明瞭に視認でき、視野が広がった気がした。


 この体がおかしくなってきていることに気づいてから怖くてたまらなかった。

 未来が暗澹でしかない以上、どうすることもできない。が、今まで思い通りに動いた体が急に暴走しそうな気がして、もはや自分のものですらなく感じてしまった。


「俺は一体、どうなっちまうんだ……」


 膝を抱えてうずくまる日々から脱する入り口は、その時だった。

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