第19話 戦争準備③

 常装を着ているアリエチカは広々とした書記長執務室で窓外そうがいを眺めている。眼下にはモスクワの街並みが広がっていた。もうすぐ発表される日本人民共和国の宣戦布告など知らず、沢山の人々が行き交っている。

 執務机の端の方には水が溜まった花瓶が置かれていた。竹本から貰った赤バラの花束を飾っていたが、枯れてしまったので処分して花瓶はそのままにしておいたのだ。部屋の端にある棚に目をやると授与された時と全く変わらぬままの姿でいるオリンピック金メダルとMC-3射撃競技用ピストルが飾られている。書記長に就任する以前はあれを見ると黒歴史を思い出して頭痛に苛まれていたが、今はもう馴れてしまった。


 それを久々に手に取って片腕を伸ばして構えてみた。途端に最近は銃を撃っていないなと思い、休日がないかスケジュール帳を開こうと執務机へ歩み寄る。


 それを妨げるかのように執務室にノックが二回鳴り響く。


「入れ」

「失礼します」


 白髪になりかかっている軍人が入室し、アリエチカの前まで歩み寄って見事な敬礼する。


「ただ今、日本人民共和国が日本皇国に宣戦布告をしました」

「そうか。の情報は何か?」


 アリエチカは深刻な面構えで軍人に問う。


KGBソ連国家保安委員会が懸命に日本皇国内を偵察していますが、未だ情報を掴めていないようです」

「この期に及んでも姿さえ現さないとはな……わかった、引き続き業務に当たれ」

「はっ。我ら祖国の書記長に勝利あれ」


 男はアリエチカに再度敬礼して執務室から退室する。

 一人となったアリエチカは顎に手を添えて、もしがこの戦争に出てきた時の対処法を考える。


「……そう言えば、アンドロポフが言っていた能力者部隊は完成したんだろうな? まさか今頃になって最終調整に入っていないとは言わせんぞ」


 アリエチカはMC-3射撃競技用ピストルを元の位置に戻して執務机にある黒い固定電話でカリヤ・新エーテル応用開発研究所の番号をプッシュする。




 カリヤ・新エネルギー開発応用研究所の地下深くには多目的室が何室か存在している。時には資材が詰め込まれたり、来客の一時的な休憩場所として使われたりと、名の通り多目的に使用されていた。


 そして今日、その部屋に女の美容師であるエカテリーナ・コンスタンチヴィナ・チェルニショワが招かれた。癖毛の長い茶髪で黒い上服に女物のオーバーオールを着ている。メガネは丸メガネだが外すとテュルク系の美人顔が拝める。


 多目的室には全身を映す立て鏡と簡易な椅子が四組ずつのみの質素な部屋だ。

 エカテリーナはリュックを開けて持ってきたものを確認する。十二種類のカラー剤、ケープ、ブロッキング用のヘアピン、新聞紙、ゴム手袋に暇潰し用のファッション雑誌を数冊と絵本を二冊。検査場で何も取られていないと確認して安堵する。


「準備は整いましたか?」


 エカテリーナをここまで案内した丸メガネの研究員が尋ねる。


「ええ。シャワー室は別にあると聞きましたが」

「そうです。では、順に連れてきますね」


 研究員は多目的室から退室する。エカテリーナは多目的室に一人残された。


 エカテリーナは待っている間、何となく自分の人生を振り返ってみる。

 自分は二十六年前にエカテリンブルクの郊外に生まれた。父親は早期に亡くなったために物心ついたときから母子家庭だった。

 母親は美容師で献身的な人柄だ。一人で家庭を切り盛りするその姿に尊敬の念を抱き、母を倣うように自分も美容師になって二人で店を経営し始めたのだ。

 しかし三ヶ月前、母は脳卒中で倒れて帰らぬ人となった。母親を失って沢山泣きじゃくったが、それから二ヶ月も経てばいつものエカテリーナに戻っていた。


 そんなエカテリーナに依頼された仕事とは『何人かの髪染め』である。

『何人か』という言葉に不安を覚えていた。街で暮らせるだけの稼ぎをしていた自分に祖国が直々に依頼してきたのだ。さらに年齢層が『子供から二十歳前半』である。不審と思う他ない。


 しかし、依頼された仕事はやり遂げる。それがエカテリーナの美容師としての信条だった。


 数分が経ち、最初の客が数人の研究員に囲まれてやってきた。

 髪は黒一点ないホワイトロングヘアーで波状の髪質を持った病院服姿の女だ。胸にはソ連人にとって少し大きめなEカップの乳房をぶら下げている。エカテリーナは髪と当時に同時にその胸を凝視し、Aカップの自分を憎んだ。


「で、では、どの色がいいですか?」


 エカテリーナはあらかじめ見やすいように十二色のカラー剤を床に広げていた。


「じゃあ黒で」


 女は不愛想に言いながら迷わず黒のカラー剤を指さす。


「わかりました。では、こちらへどうぞ」


 エカテリーナは一脚の椅子を引いて誘導する。ブラジャーをしていない女は座る衝撃で乳房が少しばかり揺れる。それがまた女の癪を触った。

 不服ながらも髪染めを始める。ブロッキングしながら後頭部と襟足、次にサイドと頭頂部、最後に前髪や生え際を順に黒のカラーリング剤で白い髪に塗り絵をした。


「後は乾くのを待ってシャワーで洗い流すだけですね。これをどうぞ」


 エカテリーナは反撃の念を込めて、乳房に少しぶつかる形でファッション雑誌を一冊差し出す。女は気にせず無言で受け取り、一瞬だけ鏡で自分の髪を確認してから雑誌を読み始めた。


「では、次の者を呼んできますね」


 髪染めを見ていた研究員は次の客を呼びに行った。



 豊満な物を睨むこと数分後。部屋の外から子供のはしゃぎ声が響いてきた。

 四人の研究員に挟まれる形で男女の双子が現れた。年齢は八歳ほど、顔も体型も瓜二つ。服も同じく病院服、どちらもストレートの白で短髪。胸が成長している痕跡はなかった。


「なーなー、おばさんが俺たちに何かするのか?」

「ちょっとユーリ! おばさんは失礼でしょ!」


 男の子のユーリが美容師をおばさん呼ばわりにし、女の子がそれを注意する。


「じゃあおばねぇさんでいいか!」

「まったくもう……」


 エカテリーナはこの会話を聞いて、さっきまで不快だった気持ちが和らいだ。エカテリーナは大の子供好きなのだ。


「よしよし二人共、どの色がいいのかな?」


 エカテリーナは持って来たカラー剤を見せる。


「俺は青!」

「私ピンク!」


 二人は迷いなくそれぞれのカラー剤を指差す。てっきり同じ色を選ぶかと思っていたが、性別の壁は超えられないようだ。


「わかったわ。それじゃ、そこに空いている椅子に座ってね!」

「「はーい!」」


 双子達は従順に椅子に座った。エカテリーナはウキウキとしながら二人を順番に髪染めしていく。

 二人の髪染めが終わって絵本を読み始めた頃になると最初に来た女のカラー剤は乾き切っていた。


「もうシャワー浴びても大丈夫ですよー」


 エカテリーナが声を掛けると女は無言で雑誌を椅子の上に置いて立ち上がる。そのまま感謝の言葉すら述べることなく研究員と一緒にシャワー室へ連れて行かれた。女は最後までエカテリーナの癪を撫でていた。



 さらに数分後、今度も研究員に囲まれた女がやってきた。

 年齢は十七歳前後。乳房はBカップ程度なのを確認して凸がない自分の胸を撫で下ろす。髪は白いセミロングのぱっつんであった。服は相変わらずの病院服。


「どのカラー剤がいいですか?」

「それじゃあ……金色で」

「わかりました。では、お好きな椅子にどうぞ」


 そして先ほどの女や双子と同様に髪染めを行い、ファッション雑誌で時間を潰してもらう。

 その後、カラー剤が乾いた双子を研究員に預けて別れを惜しんだ。



 最後の客はエカテリーナの性癖にどストライクだった。

 筋肉質な体つき、高身長、逆立ちしている白髪、二十代前半、マフィアのように目付きが悪い所。病院服でなければ一国のアイドルやモデルと言っても過言ではない体の持ち主だった。

 見とれているエカテリーナに男はカラー剤の種類も見ずに頼む。


「おい、色は赤にしてくれ。アリエチカのような真っ赤な赤だ」


 男は祖国の指導者の髪色を例に出す。


「は、はい! たっただいま!」


 女は持って来た中で一番赤いカラー剤を選んですぐに髪染めを行った。




「これで仕事は終わりですか?」

「ええ。本日はありがとうございました」


 丸メガネの研究員はエカテリーナに感謝の意を表する。


「では、お、お代金の方を」


 少し申し訳無さそうな素振りで代金を請求する。

 自分は商売をしにここへ来たのだ。そうは言っても、祖国からお金を頂くことに未だ気が引けていた。


「ああ、お金ですね」


 研究員が大きい白衣の右ポケットから艶のある黒革の長財布を取り出す。

 そしてそれを右手に持ったまま掲げた。


「ん?」


 エカテリーナは頭に疑問符を思い浮かべる。


 次の瞬間、彼女の心臓が爆発した。エカテリーナは何が起きたかわからないまま床に倒れ伏す。口と鼻から生暖かい紅血を垂れ流し、生気を失って死亡した。


「これでいいのかよ?」


 赤色を選択した男が不満そうに研究員へ問う。


「ああ。完璧だ」


 研究員は罪悪感など微塵に感じていなかった。


 突然、エカテリーナの死体に自我が宿ったかのように立ち上がった。ゾンビのように頼りない足取りで多目的室の入り口の方に向かう。その先には既にシャワーを浴び終えた黒髪の女が体を両腕で押さえて快感を感じている。


「ああ、素晴らしい……素晴らしいわ……!」


 こうして、ソ連能力者特殊部隊スペツナズシュティキの最終調整第一段階が終了した。

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