明日の私に名はあるか

数学者点P

第1話

自分の見ている世界が偽りのない、真実の世界であるとはっきりと言えるだろうか。私は本当にここに存在しているだろうか。


私は今日疑問を抱いて生活している。


1つは、本当に私の見ている世界は皆の見ている世界と一致しているのか、という疑問である。

たとえ隣に座って同じものを見ていたとしても、全く別のものに見えている可能性はないのだろうか。


例えば、机の上にリンゴをひとつ置こう。誰もが想像するようなあの赤いリンゴである。そこで何人かにこのリンゴを見せ、この物体がなんという名を持っているか、と問う。すると、面白い結果に至る。口を揃えて皆、「リンゴだ。」と答える。別に、打ち合わせをさせた訳でもないのに、何故か皆、「リンゴ」という共通の答えに行き着く。

同様に、色を問うても、「赤」と行き着く。


しかしここで、もう1つ別の質問をしてみよう。このリンゴをどう思うかだ。

ある人は、美味しそうと言い、またある人は、嫌いな物と答える。同じ物を見ているのにも関わらず、意見が割れるのは何故だろうか。そう、きっと今あなたはこう思ったのではないだろうか。

「その人によって好き嫌いはあるから、意見が分かれるのは普通だよ。」と。


そう。私の疑問はそこなのだ。


物体を構成するものは誰がどう見ても変わらない。しかし、人によって味覚、嗅覚等々の五感や心が違うから、全く別物に捉えるのだ。同じリンゴであっても、人によってリンゴに対する見方が違うのだ。


ならば、だ。

今見ているこの世界も、人が変われば見方が変わる。この当たり前が、『世界は嘘偽りのない世界である』という言葉に矛盾の意を持たせるのだ。

リンゴはなぜ、リンゴと呼ばれるのだろうか。赤く甘い果実は他にもたくさんあるのに、あの形をしたものだけを、なぜ、リンゴと呼んでいるのか。リンゴにミカンという名を付けなかった理由は何か。リンゴがリンゴであることを真実とするのはおかしな話だ。リンゴにリンゴと名付けた人物は自分と違う人物で、味覚も嗅覚も思考も異なるのに、リンゴと同じように認識している。もし、私がリンゴを知らず、初めて出会う時、まだリンゴにながなければ、これにミカンと付けたかもしれない。

物体の名など昔の誰かが、その五感と思考で勝手に付けたものなのだ。

それを嘘偽りでないと誰が断定できるだろうか。いや、誰もできない。


ならば、世界も同じである。


世界中が物体で溢れている。その物体の名が偽りと仮定するのならば、世界は偽りだらけである。


そう考えるのなら、私も君も、皆偽りで、本当は世界に誰も存在しないのかもしれない。今見ている全てが、夢のような勝手に作り上げた虚像、虚無なのではないだろうか。

私は今、眠っていて、ここ十数年で積み上げてきて数々の知識と思い出は夢に過ぎず、もう一度仮の眠りに着けば、本当の眠りから覚め、明日には赤ん坊に戻り、また1から歩まねばならないのではないか。ただ人は、それが壊れるのが怖いから、夢であることは悟らず今日を生きているのではないだろうか。


中学生の時、『自分の存在を証明する』という議題で話し合ったことがある。私の答えはこうだ。

『今は証明できず、死という人生の終着点にて自分の存在は、他者によって証明される』

つまり、今は証明するのは不可能であり、時間が経ってから、過去という残された事実によって存在していたことが証明されるのだ、ということである。同級生は皆笑った。「おかしな考えだ。」「病んでいる。」と。しかし、私からすれば、皆の『証明書の使用で存在証明が可能である』という考えの方が理解に苦しむものであった。証明書は、私達と同じ、『今』に存在している。パッと夢から覚めた時、それもなくなってしまう。つまり、『過去』という時間に置かれた時、それが存在しない可能性が含まれていれば、『今』において、それを使って証明することは不可能なのである。逆に言うと、『過去』を見つめる時、存在していれば『過去』に自分が存在していた、と言い切ることが出来るのだ。つまり、『過去』の思い出の中に自分がいて、物事があるのならば、自分はその時存在しているのだ。過去は消えぬものであるから。

だから、自分の存在証明(自分が生きていたという証明)は、死を間近にする、または、死んだ時にしかできないのである。そして自分の存在証明をする時には、自らは肉体を持っていない。つまり、他者にしか証明などできないのである。


だから、歴史を残す人物は言葉を残したり、自分のことを他者に記させたり、肖像画を書かせるのだ。これは全て他者に行わせている。つまり、人は他者を介した時にしか、自分を証明できないし、それも、過去という消えぬ事実をもってしないとできないのである。


ならば、明日、私はどんな名を持つのだろうか。そもそも、名などあるのだろうか。全てが消えて、誰にも認識されなくなって、忘れられて、本当の意味での死が訪れているのではないか。私は怖い。しかし、生きる意義がある。生まれてしまったのだから。まだ心臓が脈を打つのだから。誰かがきっと私を証明してくれるから。

存在証明こそが、人類が目指すべき最終地点。当たり前に向かう道。死は怖い。しかし、存在を証明するためだと思って受け入れてはいけないか。恐れは人を萎縮させる。しかし、全てを当たり前とみなすのは正しくない。


世界は偽りで、証明なんてできない。


今、私が親と暮らし学校へ行き、友と語らい笑い合う。そんな日常も明日になれば消えてしまうのかとしれない。この世界は、全てが偽りであり、なおかつ消えてしまう確証はないが、偽りでなく、消えない証明もできない。そんなあやふやで曖昧で切ない世界に、生きているんだ。生きていたいんだ。


だから、大切にして欲しい。人を、過去を、今を。証明して欲しい。

私がここにいる証明を。

あなたがそこにいる証明を。

友人がそこにいる証明を。

明日、私に名があることを。

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