第23話 異世界こみゅにけーしょん(4)――ただいま、おかえり――
その日は朝からバイェーズィートの自宅で赴き、バイェーズィートやその他の仲間たちと談笑しながら、半月後に出立する予定の行商の打ち合わせをしていた。そろそろ昼食の時間となったので打ち合わせは一旦中断され、各々、家族が待つ自宅へと帰っていった。
「ただいま……?」
腹を空かせたスーリヤが自宅へと戻ると――寧々子とカルナの姿がない。寧々子が台所で料理をしている物音や匂い、カルナがはしゃぐ声もない。あるのは、静寂だけだ。
二人の姿がないということは、出かけているのか。そういえばスーリヤが家を出る際に寧々子が、買い物に行こうかと思っていると声をかけていたことを思い出す。買い物が長引いているのかもしれない、何せ寧々子は買い物が長い――値切り交渉に奮闘したり、店員と雑談してしまうので時間がかかる。それにカルナが一緒にいるのであれば、余計に時間がかかるだろう。好奇心旺盛なカルナにあれやこれやと懇願されて困り果てている寧々子の姿が思い浮かんだ。
或いは、畑仕事に向かったのかもしれない。畑で誰かと出会って、仲良く話し込んでいそうだ。
「
一服して待っているうちに、二人がひょっこりと帰ってくるだろう。そう結論付けたスーリヤは台所へと移動し、慣れた手つきで湯を沸かしてチャイを淹れた。
(……今日は昼飯がいるって言い忘れたか?)
朝、バイェーズィートの家に赴く前に、スーリヤは寧々子に「昼前には帰ってくるから」と伝えたはずだ。寧々子は「はぁい」と暢気な声で返事をしていたが、能天気なようで確りと言いつけを守る寧々子がそのことを忘れるはずはない。――稀に、ついうっかり忘れることはあるが。
待てども待てども、寧々子とカルナが帰ってくる気配がしない。これは何かあったのではないだろうかと、流石にスーリヤは心配になってきた。得体の知れない不安に襲われたスーリヤが家の中を彼方此方うろうろとしていると、物置が散らかっているのが目に入ってきた。機織りで作った布地をしまっている櫃の蓋が開けられて、その周辺に多くの布地と、理由は分からないが寧々子の衣装が散らばっている。
「ネネの奴……何してんだ?」
楽天家の妻の考えることが偶に分からない夫は、首を傾げる。そして、この時はそれほど気にならなかったので、スーリヤは別の方へと目を向けた。よく使っている農具も釣竿も物置の壁に立てかけられているので、畑には行っておらず、汽水湖の方にも行っていないことだけは分かった。
(……ということは、あそこか?)
何やら思い至ったスーリヤは、寧々子とカルナを捜しに家から出て行った。
**********
寧々子がカルナを連れて行きそうな場所、ということで、スーリヤは先ず、隣家に住んでいる
「ネネさんとカルナくん?うちにはいらしてないわよ。そうね、今日の朝だったら、洗濯場で会ったけれど」
「……そうですか」
「どうかなさったの?」
「いえ、二人の帰りが遅いので、此方にお邪魔しているのかと思って……伺いました。それでは、失礼します」
一つ目の当ては、外れたようだ。不思議そうな顔をして見上げてくるギュル夫人に礼を言って、スーリヤは次の場所へと向かう。
「ネネとカルナはうちには来ていないよ。ネネの畑の近くも通ったけれど、その時には畑にネネの姿はなかったねえ。スィベル、お前はどうだい?」
「私は、今日はずっと、家で刺繍をしていましたから……」
二つ目の当ては、”おじいちゃん”、”おばあちゃん”と呼んで慕っているタウシャン村の村長ムスタファー、スィベル夫妻の所だったのだが、此処も当てが外れる。
「ネネとカルナが此方に来たら、スーリヤが待っているから早く家にお帰りと伝えておこう」
「……有難う御座います」
村長夫妻の家を後にしたスーリヤは道の端で立ち止まり、次の当てを考える。
寧々子がギュル夫人、村長夫妻の他に懇意にしている人物というと――バイェーズィートの細君デニズだ。だが、スーリヤがバイェーズィートの許にいた時に寧々子がデニズを尋ねて来ることはなかった。若しも尋ねて来ていたのであれば、デニズは必ずスーリヤに一声をかけてくれるのだ――「ネネが来ているわよ」などと。スーリヤと擦れ違いでやって来ていたのだとしても、デニズならば、スーリヤが帰っているから早く戻りなさい、などと寧々子に言ってくれているだろう。
(一度、家に戻ってみるか)
スーリヤは自宅に戻りがてら、念の為に洗濯場や竈場、寧々子がよく買い物に利用している店を覗いて行くことにする。
村の中を流れる小川の傍に設置されている洗濯場にも、村の中央付近に設置されている竈場にも、馴染みの店にも、井戸なども見回ってみたものの、寧々子たちの姿はなく、微かな匂いも残っていなかった。
重い足取りで自宅に戻ってみると――やはり、寧々子たちの姿はない。あるのは二人が其処にいた、という匂いの欠片だけだ。
「……っ」
漠然とした喪失感が、スーリヤの胸を襲う。
暫くの間、居間に突っ立って呆然としていたスーリヤは我に返るなり、当てもなく家の中を彷徨った。表情には出ていないが、内心では酷く混乱しているのだろう。普段の冷静なスーリヤしか知らない人物が見たら、きっと驚くに違いない。
(……そういえば、ネネはどうして服を脱いでいったんだ?)
散らかっている物置にあった違和感を思い出したスーリヤは、其処へ向かう。開け放たれている櫃の中を覗き込むと、底の方に或る物が残っているのを見つけた。それはスーリヤが寧々子を拾った時に、彼女が身に着けていた――異世界の靴だ。その他に身に着けていた物は、散らばっていない。ということは、寧々子はそれらを身に着けていったということなのだろうか?
『今はもう帰りたいとかあまり思わなくなってるけど……若しも帰れるなら、帰りたいかな?あたしは今、大好きな人と一緒にいられて幸せだから……心配しないでって家族に言いたい。いきなりいなくなっちゃったから、きっと心配してるだろうし……。だから、えーっと、里帰り?はしたいかも』
いつだったか寧々子が言った言葉を思い出したスーリヤは、嫌な予感がして体が震えた。まさか、寧々子はカルナと共に元の世界へと帰っていってしまったのか?スーリヤに何も告げずに?
血相を変えたスーリヤは自宅を飛び出していく。偶々擦れ違った村人は、滅多に見かけることのない、全力疾走するスーリヤの姿に面食らっていた。
タウシャン村を出たスーリヤが向かったのは、寧々子を拾った草原だ。然し其処にも、寧々子とカルナの姿はない。あるのは、放牧をされている羊の群れだけだ。風上から漂ってくるのは羊の匂いと、草や土の匂いばかりで、二人の匂いは欠片もない。
「……寧々子!カルナ!いるなら出て来い!!」
腹に力を入れて、スーリヤが叫ぶ。その凄まじい音量に驚いて、羊の群れは何処かへと駆けていってしまった。返事は、ない。寧々子たちは、この場所にはいない。
(何処だ?何処にいる……!?)
肩で息をしているスーリヤの脳裏に、何時か見た光景が不意に浮かんでくる。あの時、寧々子はいきなり家を飛び出していって、汽水湖の畔まで走っていって――子供のように大声を上げて泣いていた。
『散歩してたら霧が出て来てね、いつの間にかこっちに来てたんだ。だから、霧が出たら帰れるのかなって期待したんだけど……帰れなくて、悲しくて、あの時泣いちゃってたんだよね』
スーリヤは再び全速力で駆け、汽水湖を目指す。其処にも、二人の姿はない。
「……頼むから、出て来てくれよ、寧々子、カルナ……っ!!」
仏頂面の仮面は剥がれ落ちていた。スーリヤの顔が、悲しげに、苦しげに歪む。先程とは打って変わった弱々しい声で懇願したが、それは叶えられなかった。
絶望感に襲われたスーリヤは言葉を失い、人気のない湖の畔に立ち尽くすことしか出来なかった。
**********
寧々子とカルナが行方を晦ませてから、八日ほどが経過した。
スーリヤの憔悴具合や寧々子たちの不在に、ギュル夫人やムスタファー村長、そしてバイェーズィートは何か異変が起こっているのではと勘付いた。そんな彼らに押しかけられたスーリヤは、信じられないとは思うが、と前置きをしてから事情を話した。――実は寧々子は異世界の人間である、と。突拍子のない話に仰天しつつも、何となく理解出来る部分があったのか、彼らは多少なりともスーリヤの話を信じてくれたようだった。
彼らに協力して貰い、捜索範囲を広げて寧々子たちの行方を捜し回ったのだが――有力な情報は未だ得られずにいる。村の中、そして村の周辺や少し離れた町などにいないとなると、元の世界に戻ってしまったのではないかという夢想が現実味を帯びてくる。
寧々子とカルナの姿を見かけないことを心配してくれた村人には、寧々子はカルナを連れて実家に帰っていると言っている。大事にはしたくないというスーリヤに、ムスタファーが誤魔化し方を伝授してくれたのだ――強ち間違ってはいないだろうから、と。
「……スーリヤ。縄が緩んでるぞ。確り縛ってくれや。そうしねえと、荷を積む時に落っことしちまうじゃねえか」
バイェーズィートの自宅に併設された大きな倉庫――スーリヤが立ち上がっても頭をぶつけないほどの高さがある――で、倉庫の持ち主とスーリヤは行商の準備をしていた。積荷の中身が出てしまわないようにと、縄で縛っているスーリヤを横目で見ていたバイェーズィートは、虚ろな目で仕事をしているスーリヤに声を投げかけた。
「ああ、悪い……」
バイェーズィートに注意をされたスーリヤは、緩慢な動きで積荷を縛る縄を解いて、縛り直す。縄が緩んでいないことを確認したバイェーズィートは倉庫の片隅に置いてある仕事机に向かい、再び帳簿をつけ始める。行商の旅で必要となる経費の計算をしているのだ。
(早く帰って来てくれよ、ネネ、カルナ。こんなスーリヤ、見てらんねえよ……)
すっかり憔悴しきっているスーリヤを放っておくと、彼は碌に食事も睡眠をとらずに寧々子とカルナを捜し回るのだ。それでも誰かと接している時は平静を保とうとしているので、バイェーズィートは痛々しく見えて堪らない。
(俺の知ってるスーリヤは俺より五つも年下のくせに落ち着き払ってる、ちょっといけすかない奴だよ。まあ、根は優しい、良い奴なんだけどな。……あいつの憎まれ口とか聞かねえと、何だか調子が狂うよ……)
何かと口実を作っては自宅に招いたり、釣りに出かけたりして気を紛らわせようとしているのだが、あまり効果が見られない。けれども、相棒であるバイェーズィートまでもが不安を露にしていると、スーリヤをより一層気落ちさせてしまいそうだった。それならば出来るだけいつも通りでいてやろうと心に決めたバイェーズィートが小さな溜め息を吐きがてらに背伸びをすると、誰かが倉庫の方に向かって走ってくる音が聞こえてきた。
「おい、スーリヤはいるか!?」
倉庫の入り口から顔を覗かせたのは、バイェーズィートの商売仲間の一人であるフスレウだ。灰色がかった茶髪の若い
「……どうかしたのか、フスレウ?」
梱包作業をしている手を止めたスーリヤがゆっくりとフスレウに近づき、腰を屈める。フスレウは、ムスタファー村長から伝言を預かってきたのだと言ってきた。
「ネネさんとカルナが帰ってきた。今、家にいるから早く帰って来いって村長が……」
「後のことは俺に任せな、スーリヤ。お前は早くネネたちの所に……」
「スーリヤの奴ならもう飛び出していっちまったぜ、バイェーズィート」
「少しくらいは格好つけさせろよ、スーリヤああああっ!!!」
聊か乱暴に自宅の扉を開け、中へと進んでいく。居間にはギュル夫人とムスタファー村長がおり、のほほんとした様子で茶を飲んでいる。そしてその向こうに――スーリヤが求めていた、寧々子とカルナがいた。見慣れない格好をして、嗅ぎ慣れない匂いを纏っている二人を目にしたスーリヤは、寧々子たちは元の世界に戻っていたのだと確信した。
「――”とと”、おかいりなさい!」
寧々子の膝の上に座っていたカルナが立ち上がり、凍りついているスーリヤの許まで駆けていくと彼の脛にタックルをするように抱きついた。
「……カルナ」
スーリヤはゆっくりと膝を折り、カルナをそっと抱き上げる。久し振りに父親に会えたことが嬉しいカルナは満面の笑みを浮かべ、父親の広い胸に頬擦りをした。状況が上手く飲み込めていないスーリヤが恐る恐るカルナの頭を撫でていると、いつの間にやら寧々子が目の前にやって来ていた。
どう声をかけてやれば良いのだろう?と逡巡しているスーリヤよりも先に、神妙な面持ちをした寧々子が口を開く。
「あの、スー。いきなりいなくなって、御免なさい。えっとね……」
「……っ」
空いている方の腕を勢い良く伸ばして寧々子を引き寄せると、スーリヤは片腕だけで彼女を抱きしめた。力の加減がされていないので、寧々子とカルナはあまりの苦しさに白目を向きそうになる。
「どどぐるじぃ」
「スー、もちょっと力を緩めひぇ~っ!モ、
苦しいと訴えれば直ぐに腕の力を加減してくれるはずなのだが、俯いて黙りこくっているスーリヤは一向に腕の力を緩めない。妻子を腕の中に閉じ込めるのに必死のようにも見える。彼らの再会を見守っていたムスタファーたちは気を利かせて、その場から退散することにした。
「ネネや。落ち着いたら、おじいちゃんたちに説明をしておくれ。明日で構わないからね」
「ぐぇ、は、はいぃっ!ちょっ、ムスタファーおじいちゃん、ギュルしゃんっ!たす……っ!?」
寧々子が助けを求めているのを黙殺して、ムスタファーたちはそそくさと退散していった。
ああ、このままでは昇天してしまう、と、生命の危機を感じた寧々子はスーリヤに必死に訴える。
「スー、お願い、ちょっとで良いから、隙間を作ってっ。空気をっ、くださいっ。大丈夫っ、あたしもカルナも、此処にいるよっ。いなくなったりしないよっ。これ以上締め上げられると、お腹の子がぺったんこになりますっ!!」
どの言葉が響いたのかは分からないが、スーリヤの腕の力が弱まる。深呼吸をして乱れた息を整えた寧々子は、未だに黙って俯いているスーリヤの様子を窺い――ぎょっとした。
「えっ!?」
スーリヤの鋭い目から、幾筋もの涙が流れ落ちている。ぎりぎりと締め上げられている間は全く気がつかなかったが、彼の体は震えていた。初めてスーリヤの泣き顔を目にした寧々子が呆然としていると、カルナが一所懸命に手を伸ばして、スーリヤの濡れた頬を撫でた。
「”とと”、いたい?」
父親は体の何処かが痛くて、涙を流しているのではないかとカルナは思ったらしい。痛みが和らぐようにと、スーリヤの頬を小さな手が撫で擦る。スーリヤは目を閉じて唇を噛み締めて、何かをぐっと堪えると、ゆるゆると首を左右に振った。
「……寧々子とカルナが突然いなくなって、心配していた」
「……うん、心配かけて、御免ね」
寧々子も手を伸ばして、止め処なく溢れ出して来るスーリヤの涙を指で拭ってやる。少しの沈黙の後、深く息を吐いたスーリヤはぽつぽつと心情を吐露しだした。
「置いていかれたのかと、思った」
「そんなこと、あたし、絶対にしないよ。だけど、いきなり……あっちの世界に戻っちゃったの。こっちの世界に来た時みたいに……」
「……無事で良かった、寧々子も、カルナも」
「スーは……少しやつれた?ちゃんと御飯食べてた?ちゃんと、寝てた?……スー、こっち見て?」
不安げな表情を浮かべて俯いているスーリヤがゆっくりと顔を上げて、涙で濡れた目で寧々子を見つめる。彼の不安を取り除こうとして、寧々子はふんわりと笑い――スーリヤの唇に、自分の唇を重ねて、彼の首に腕を回して彼を抱きしめた。
「……ただいま、スー。逢いたかった、寂しかったよ……」
「おかえり、寧々子、カルナ……」
お互いの存在を確かめるように寧々子とスーリヤが抱き合っていると、二人の間で何かがプルプルと震えた。顔を見合わせた二人が少し体を離して、視線を落とすと――いつの間にか二人の間に挟まれていたカルナが呼吸困難に陥っていた。
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