第8話 漸く決心がつきました

 仕事で長らく家を空けていたスーリヤが、久方振りに自宅へと戻ってきた翌日の昼下がり。

 今回はかなり遠方まで遠征した為か、一晩の睡眠だけでは疲れがなかなかとれていないらしい。眠気覚ましにと珍しく紅茶チャイではなくコーヒーカフヴェスィ を飲んでみたのだけれど、あまり効果はなかったようだ。頭が冴えているような、そうでもないようなというどっちつかずの妙な感覚が心地良いような、気持ち悪いような。


(……俺も年かな……なんて言ったら、バイェーズィートに叱られるな。お前俺より若いだろって……)


 外見ではスーリヤよりも年下に見えるが、実は三十路を迎えているバイェーズィートに確りと体を休めろと言われたので、その言葉に甘えたスーリヤは居間の絨毯の上に巨躯を横たえて微睡んでいることにした。

 因みにスーリヤはというと三十歳は超えていると思われることが多いのだが、実は二十五歳だったりする。実年齢より老けて見えるらしい。

 そうしていると不意にネネの匂いが漂ってきた。どうやら井戸端会議を終えて、家に帰ってきたらしい。足音を立てないようにしているらしい彼女の気配が段々と近づいてきたので、うっすらと目を開けてみると、スーリヤの傍に座ろうとしているところが見え、スーリヤは再び目を閉じた。

 ネネが傍にいてくれると、心地良い。


「今回は長旅だったから、疲れてる?」

「んー……」

「お疲れ様、スー」

「ん……」


 彼女は静かな優しい声音で話しかけながら、スーリヤの髪を撫でたり、耳の後ろを指で摩ってきた。ネネはスーリヤの毛の感触がお気に入りのようで、よく撫でるように触れてくるのだ。

 大きな猫扱いをされている感が否めないが、ネネに触れられるのは嫌ではない。寧ろ心地良いので厄介なことこの上ない。そのことは口に出さないでスーリヤはされるがままになっていたのだが、彼女の手が喉元を撫でてきた。擽ったいので反射的に身動ぎしたのだが、ネネはお構いなしに動作を続ける。

 このままでは声を出して笑いたくなるので、彼女の手を捕らえながら器用に横向きから仰向けになり、腹の上に彼女の体を押し付けて止めさせた。


「……ネネ、擽ったいから止めろ」

「だって、スーの喉元の毛って他のところと違ってふわっとしてるから触り心地が良いんだもん。喉元を撫でられると気持ち良いでしょ?」


 粗方予想はついていたが、案の定猫扱いされていた。猫ではないから喜びはしないと言うと、彼女はスーリヤの胸板に突っ伏して黙りこくってしまう。


(……拗ねたか?)


 自称二十三歳くらい――元いた場所と此処では年の数え方が違うようなので、正確には分からないと言っていた――の割には、子供っぽいのがネネだ。彼女と出会う前であったなら「面倒くさい女だ」と言って一蹴していただが、すっかり彼女に絆されてしまっている今ではそんなところが可愛らしく思えてしまうのだから、これはもう重症だなぁと頭を抱えたくなってしまう。


「スー、好きよ、大好き」

「ん……あっそ……」


 ああ、”いつもの”だ――とスーリヤは素っ気無い返事をする。


「スーは、あたしのこと、好き?」

「……嫌いじゃあねえな」


 嫌いどころか、お前のことを愛してるよ。そう零してしまいそうになり、口を噤んだ。


「じゃあ、あたしのこと食べたいとか思う?」


 久し振りに訊いたな、こんな台詞。おかしいな、虎の特徴は持っているけれど、虎ではないと説明したはずなのだが。ネネの突飛な発言に呆れて、思わず溜息を吐いてしまう。


「前にも言っただろ……”虎の亜人ドゥン”は人間を食ったりしねえって……」

「あたしって美味しそうに見えない?」


 何やら思いつめた表情で此方を見つめてくる彼女の様子がおかしいので得体の知れない焦燥感に駆られる。


「……ネネ、どこか調子が悪い……」


 上体を起こして彼女の様子を窺おうとすると、いつの間にやら彼女の顔が目の前にあって口付けられていた。彼女の柔らかな唇の感触に驚いて、体が強張った。


「スー、大好き……」


 熱に浮かされたような、それでいて不安を抱えているような表情をしているネネは、スーリヤの太い首に腕を回して、ちゅっちゅっと啄ばむような口付けを施してくる。


「あたし、スーが欲しい……だからね……あたしを食べてよ……」

「……」


 ――「食べて欲しい」は「抱いて欲しい」の言い換えか。それを理解したスーリヤは、今一度唇を塞ごうとしているネネを掌で制止した。

 酔っ払いではない、素面のネネが誘ってきた。どうする?一応、”あれ”を言っておくか?


「忘れたのか?人間は人間と番えって言っただろ……」


 そう言って、スーリヤは彼女を試す。本当に自分で良いのかと。


「……あたしはスーが良いの」


 口元を覆っていた手を外すと、ネネは微笑みながら掌に頬を擦り寄せてきた。


「……物好き」


 口ではそう言っても、内心では喜んでいる。ネネは気付いているだろうか?――スーリヤが天邪鬼だということに。


「物好きはスーの方でしょ……?言葉も通じない、何処の誰かも分からない人間を拾って面倒を見て、ずっと住まわせて……」


 不思議と放っておけなかったんだから、仕方がないだろが。言葉や習慣の違いで自分も苦労したから、手伝ってやれるなら手伝ってやろうと思っちゃったんだよ。


「あたしが鬱陶しいなら、はっきり言って。そうしてくれないと分からない」


 鬱陶しいなんて思ったことがないなぁ。逞しいとか色気がないとかなら、何度でも思ったことがあるけど。


「……あたしはもうこっちの言葉は話せるし、仕事も出来るようになったから、追い出しても大丈夫だよ?気紛れに部屋の隅に転がしておくようなことはしないで、勘違いするから……」


 ネネは若しかしたら、自分の思いに決着をつけようとしているのだろうか?だからこそ、こんなことを言い出したのだろうか。ここでいつものようにはぐらかしたら、彼女はスーリヤの許から去っていくのだろう。

 そうなったら、スーリヤはどうする?以前のようなどこか色褪せた生活を再び送れるのか?――きっと、無理だ。

 もう限界だな。そう確信したスーリヤは、折れた。


「……嫌じゃねえから困ってんだっつーの」

「え……っ?」


 覚悟を決めたスーリヤは、瞠目しているネネの唇を奪う。驚いているのか固まってしまっている彼女を押し潰してしまわないように気を付けながら体を反転させて覆い被さり、口付けをより一層深くする。

 井戸端会議でもしている際に何か食べたのだろうか、彼女の口の中は甘い香りと味がした。感じ取れるものから察するに、ミルクプディングムハッレビではないかと大体の見当をつける。明日の食事のデザートにでも作ってもらおうか。何だか、食べたくなった。


 暫くそうしているとネネの体の強張りが解けてきたので、そこで漸く口付けから解放して、ネネの頬を撫でる。


「……ったく、誰とも番う気がなかったのになぁ……」


 故郷の或る風習の御蔭で、そう心に誓っていた筈だった。それなのに、ネネが愛しくてたまらなくて、そんなことはどうでも良いとまで思うようになってしまって。

ぽつりと零すと、ネネは目を瞠って唖然としている。今の状況が分からなくて混乱しているのかもしれない。

 そんなに驚かなくても。苦笑しながら、抱き潰してしまわないように出来る限り力を入れないで彼女を抱きしめる。初めのうちは固まっていたネネだが、暫くすると背中に手を這わせてきて、彼女の肩口に顔を埋めているスーリヤに頬擦りをしてきた。


「……ネネ。お前から誘ったからには、”この前”みたいに俺にお預けを食わせたりしないよなぁ?」

「……この前?え?お預け!?何のこと!?」


 何となく”あの夜”のことを仄めかしてみると、彼女は心当たりがないとばかりに慌てる。少しは思い出してくれたかと期待したけれど、やっぱり思い出してくれていないらしい。

 お預けを食わされたのは結構堪えたんだぞ、という思いを込めて、ぼそりと呟く。


「教えてやらない。自力で思い出せ」

「うわっ、スーのい……っ」


 そうだな、意地悪だな。お前には意地悪したくなるんだよ、好きだから。

 ネネの言葉を遮るように、また口付ける。逃がしたくないので首の後ろに手を添えて固定して、積極的な割には口付けに慣れていないらしい彼女の味を堪能していると、虚を突かれた。自由に動かしていた舌を捕らえられて、ネネに甘噛みされたのだ。

 ネネなりの抵抗が愛らしく思えて、喉の奥で笑ってしまう。


「……負けず嫌いだな、お前」

「う……っ」


 スーリヤは身を起こすと、図星を指されて言葉を失っている寧々子を軽々と抱き上げ、寝室へと連れて行く。

 もう後戻りは出来ない。いや、する気もないのだけれど。

 ネネと離れたくないし、離したくないのだから仕方がないだろう?と、自分に言い訳をする。

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