Excelは神と妹のためにある
十月、太陽が北半球から少しだけ遠くなり、心なしかエアコンが不要と思える程度には涼しくなってきたころの話。
「お兄ちゃん、寒いです。手を繋ぐことを所望します」
雲雀が手を繋いでくれとせがむので俺は手を取る、別にそんなに寒くはないけれど……その手から伝わる確かなぬくもりがどこか心を静めてくれた。
満たされた心で現実に向き合おうか……
「お兄ちゃん、その……大丈夫ですか?」
そう、ここは立派な部屋の中だ、そして何をしているかと言えば……
「あーっ、わかんねー」
Excelに向き合ってセルを眺めた後天井を仰いでいる。
そう、情報の課題で出た表計算に頭を悩ませている。
大体がおかしいのだ、何故学校の宿題でExcelを印刷して提出なのか? 別にデータ入稿で全く問題ない気がするのだが……
なお、指定された書式で提出されればいいので実のところWordでも問題ない……ズレなければな……
悪夢のような印刷ずれ、書式に容赦なくツッコんでくる空白、おそらくオフィススイートを全て持っているなら全員が全員Wordで苦労するより俺が今やっている方法をとるだろう。
そう、エクセル方眼紙だ。
コレを考えた奴は神だ、間違いなくネ申だ、おそらく邪神だろう。
俺はこの名状しがたきシートを閉じながらジャスミンティーが冷蔵庫にあったことを思い出す、気休め程度の精神安定効果にすがりつきたい気分だった。
「なあ……人間って罪深いよな……」
全くもって人間というのは業が深い生き物だと思う、人は見た目が九割とか言うタイトルの本があったような気がするけれどおそらくコンピュータでもそうなのだろう。
「はい、コーヒーをどうぞ」
雲雀がいつの間にか用意してくれたコーヒーの香りを嗅いで心を落ち着ける。
「ありがと、少し落ち着いた」
この最悪な気分を落ち着けてくれた雲雀には感謝しかない、そして妹ということはしばらく後に俺と同じ課題に追われる可能性があると考えると少し気の毒になる。
「大変ですね……Excelって表計算のソフトだったと思うんですけど……」
「そのはずなんだよなあ……」
Excelは表計算ソフト、決して方眼紙ではないし、データベースとも違う、そう使っている人が割といるのが世界の闇だ。
「しゃーない、蛍に助けてもらうか……」
ピキッと場の凍る音がした気がするが気のせいだろうか?
「お兄ちゃん……いま……なんと?」
雲雀がドスの利いた声で俺に聞いてくる。
「いや、アイツはクラスの委員長やるのにExcel使ってるって聞いてな、何かと管理に便利らしいから使えるだろ」
ビキビキ
なんだか空気の割れるような音がした、気体が割れるというのもおかしいが、そのくらいこの部屋の空気が歪んだ。
「お……お兄ちゃん? 私も手伝いますから安易に経験者に頼るのもどうかと思いますよ? それに蛍さんだって忙しいでしょうし……ここは私に任せてください!」
「あいつ、金曜に帰るとき勉強には付き合うので一緒にしませんか? って言ってたし」
「それは言葉の文というか……きっとお兄ちゃんに気を遣ったんでしょう! 誰かに安易に頼るのはよくないと思いますよ?」
まあ……そうだな……確かに安易に頼るとクセになるというのには一理あるし、課題は生徒の成長のために出されるんだから人に頼るズルはダメだな。
「しょうがない……もう少し頑張るか」
俺が閉じたノートPCを開いてスリープを解除する、この悪夢のようなファイルでもきっと社会には多くあるのだろう、現実と向き合うのは大事なのでやるしかないな……
Excelのファイルをタッチパッドをタップして開く、地味にこのファイルを開くのにキメラなフォーマットのせいで重いのがまた腹が立つ。
「お、お兄ちゃん? 私はちょーっと退屈してますから助けてあげますよ?」
申し出はとても嬉しいのだが……
「いや、お前の言うとおり課題には自分で向き合うよ。人に頼りっぱなしだと自分で何もできるようにならないからな」
「えっ……あっ……」
失言したという風に口を押さえている雲雀だが言っていること自体はごもっともなので俺も面倒ごとと向き合おう……気は進まないけど……
「いえ……お兄ちゃん? 兄が妹を頼るのはいたって普通だと思いますよ? むしろ家族は頼るべきじゃないでしょうかね?」
前言をさらりと翻す雲雀だが、俺のためを思ってのことだろう、だけど俺も妹に頼る兄なんてかっこ悪いと思うのでここは心を強く持とう。
「気持ちはありがたいが、俺は自分でこのExcelと向き合うよ。一度逃げると次も逃げちゃいそうだからな」
逃げるのにもクセになることがあるのだと思う、俺は昔から逃げてばっかりだけれども、『兄』として妹に頼るなんて、あんまりにも格好悪いからな。
「あ……あー、急に暇になりましたねー。コレはお兄ちゃんに付き合ってもらわないと暇でしょうがないですねーこまったなー」
雲雀が突然暇になったらしい、といっても俺はこのファイルの相手で精一杯なわけだが。
「そうか、遊びに行ってきていいぞ?」
俺は雲雀に羽を伸ばしてもらおうと思う、兄の手伝いで暇な時間を使うなんてもったいないからな。
「もう! 私が手伝うって言ってるんです! お兄ちゃんは黙って私に指示を出してください! これでもExcel得意なんですからね?」
何故か突然手伝うというが……
「いや……俺の課題だ……」
「いいですか? お兄ちゃんが不出来な課題を提出すると妹である私にとっても恥ずかしいことなのです! だから私に言われたとおり手伝ってもらってください!」
否応なしに俺は雲雀と共同で作業することになる、この様子だと選択肢はなさそうだ。
「そこはIFERROR入れておかないと、無効な値があったら全部コケますよ?」
「なんでもエラーを握りつぶすのはダメです! どこが原因か分からなくなるでしょう!」
そうして俺は妹にスパルタ教育をされたのだった……
「できた……疲れた……眠い……」
外はもう夕暮れになっている、いくら十月で日が短くなったとはいえそれなりの時間だ。
「はい、よくできてますね。お兄ちゃん、よく頑張りました」
「おう……めっちゃ疲れた……」
雲雀もつきっきりで指導してくれたが、それでもそれなりの時間がかかっている。俺一人だと終わらなかった可能性も十分ある。
「助かったよ……ありがとな」
雲雀にお礼を言うと顔を染めながら答えが返ってきた。
「お兄ちゃんにしては上出来ですよ? 自分の頑張りなんですからもっと誇ってください」
俺への気遣いが感じられて目頭が熱くなる。俺はそっぽを向き目を拭ってから向き合う。
「いや、コレは確かに雲雀の助けだよ、ありがとう!」
雲雀は嬉しそうにしていた。
「さて、今日の晩飯くらいは作るかな? お礼だ、リクエストには応えるぞ?」
なんなら焼き肉だっていいだろう、そのくらいのお礼をもらう権利が雲雀にはあるだろう。
「いいですね! お兄ちゃんの手料理ですか? ベタに肉じゃが……ハンバーグ……やっぱり食べさせあえることのできるものが……」
なんだか非常に不気味な笑みを浮かべる雲雀だった。
俺は結論が出そうにないので卵焼きから作り始める、なんにせよコレはおかずにできそうだしな……
「じゃあ、お兄ちゃんのお勧めをお願いしましょうか?」
「おう、任せとけ」
手早く卵焼きを作ってからちゃちゃっと肉じゃがを作っていく、雲雀が真っ先に思いついたモノでいいだろう。
タンタンと卵焼きに包丁を入れて切り分ける。うん、火は通ってるな。
ジャガイモや玉ねぎ、ニンジンの皮をむき鍋に材料をまとめて放り込んで煮込む、ありがたいことに我が家には圧力鍋という近代技術が存在している。
しばらく待っているとしゅうしゅうと上記が弁から出てきた、いくらか待って火を止め鍋が冷えたら蓋を開ける。
見た目は大丈夫そうだな……
俺は串をジャガイモと人参に刺して火が通っていることを確認する。
ぷすり
串はどちらにもスッと通り、中まで柔らかくなっていることを確認して食器に取り分ける。
ザクザクと切ったキュウリに味を付けた浅漬けと一緒に食卓に料理を並べる、なんだかありがたいものを見るかのように雲雀が眺めていたが、アイツが支払った労力に比べれば全然比べものにもならないだろう。
「じゃあ、食べようか」
雲雀は微笑んでから答える。
「そうですね」
椅子に座って手を合わせて「いただきます」という。
「はい、私もいただきます」
そうしてモグモグ料理を食べていく、なんだか雲雀がもったいなさそうに少しずつ口に肉じゃがを運んでいた。
「ごちそうさま」
「お粗末さま」
食べ終わったら食器を洗っていると雲雀が話しかけてきた。
「今日はありがとうございます。また困ったことがあったら言ってくださいね?」
「できるだけ手間を取らせないように頑張るが……どうにもなんないときは頼むよ」
俺は答えてから、多分世の中には一人ではどうにもならないことが多いのだろうと世間に思いを馳せるのだった。
……
余談だけれど雲雀との合作ともいえる課題は最高評価をもらうことができた。
自分のことのように喜んでくれた雲雀に結構なサイズの借りができたことを考えながら、妹のために兄は何ができるのかをしばらく考えたが答えは一向に出なかった……
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