まじかる☆レシピ 〜Seeking a taste of the unknown〜

まるちな

Episode.01 二人の出会いと異世界への旅

 真っ青な空には暖かな日差しを送ってくれる眩しい太陽が顔を出していた。時刻は八時四十分を過ぎた頃。町は既に目覚め、道路には通勤や登校する人々で波が出来ている。

 いつもの朝。それは何ら変わりなく訪れる風景の一角から騒がしい音と声が響いてきた。


「やっばぁぁ、遅刻しちゃうぅーーッ!!」


 家の戸を蹴り倒して飛び出したのは、調理師専門学校に通う十九歳の神崎 舞。大きなポニーテールを靡かせながら全力で走る姿は陸上選手にも引けを取らないだろう。

 両親が共に経営している和食店の跡を引き継ぐ為と、趣味の料理が相成ってこの道を選んだ。家から学校までは近い距離で、本来ならば遅刻は皆無に等しいはず。だが彼女は近いという事で少々甘んじた結果がここで露呈されてしまっている。

 先日までは自転車という機動力があったが、車庫を覗けば見るも無残な姿に変わり果てている。今朝同様に遅刻間近で突っ走ってしまった所為で車と接触してしまった事がこのような結果を導いてしまったのだが、当の本人が元気なのは当たる直前に緊急離脱した事が大きな成果と言えよう。

 直角に曲がる交差点を華麗に曲がり、更に加速しようと視野を全域に広げて障害物となりうる物の全てを確認する。僅かな減速も許されないのは確実に遅刻の二文字へと導いてしまうからだ。

 ふと目に留まった上空から落下してくる何か。だがどうやら鳥ではなさそうだ。鳥ならば翼を広げているので離れていても何となく姿は分かるが、あの影は空では見慣れない異型である。

 次第に大きくなり、何処と無く見覚えのある容姿に疑問が浮かんでくる。あの形はどうみても何かに跨っている人間だが、此処は現実の世界であり、お伽話でない限り空からそんなものが降りてくる事は考えられない。

 一瞬だけ躊躇するも木々の隙間から遥か先に見えた学校に意識を呼び戻され、視線を再び前方に戻して更に速度を上げる。だがやはり気になる上空の影に視線を向けると、落ちてきた物体はいつの間にか目の前まで接近していた。


「ちょっと! 一体なに…………げふぉっ!?」


 考える間も無く突撃された舞の目が勢いのあまりに飛び出し、本日の最高速を出していた飛脚の足は強制的に制動させられた。その空間だけがまるでスローモーションのようにゆっくりと時が流れ、彼女の思考までもが全て急停止する。

 一体何がどうなってこのような事態が発生したのか。脳内で振り返るも、いつもの朝を過ごし、遅れ気味で家を出るという普通の生活を送っていたはずだ。これは天が下した罰なのか、はたまた偶然の産物が生み出したささやかな贈り物なのかは神のみぞ知る所。

 だがこれが彼女にとって今までにない運命の路線に乗った瞬間でもあった。


「ゲ……ホッ、ゲホッ。あい……ったたた」


 突然の出来事に現状の整理がつかないままゆっくりと上半身を起こす。腹部に滞る鈍痛に顔を歪ませながらも目を開けると、見慣れない姿が彼女の瞳に飛び込んできた。

 確かに人が倒れているのだが、見た事もない異形な姿。黒を基調とした薄手の生地はワンピースと言えば良いのだろうか。だがこんな服はどの雑誌でも見た事がない。

 それよりも気絶している彼女の尖った耳、上唇から覗かせている八重歯よりも明らかに長い歯。更には意味不明な竹の箒。

 顎に手を添えて考えてみる。この姿は何処かで見た事があるような気もするが思い出せず、答えが見出せないまま唸る小さな声に意識が呼び戻された。


「ギ……ギモヂワルイ……す」

「……なんですと?」


 呟いた後に再び気を失った彼女の目はくるくると円を描いている。言われてみれば色んな回転をしながら落ちてきたはず。所謂、乗り物酔いと同意であろう。

 遠くの方から予鈴が聞こえ、確実に間に合わないと悟る。深い溜息を吐きながら立ち上がるも、どうしようものかと考えた。

 このまま進めば少々のお小言だけで済むと思われるが、それ以前に目の前の人物をこのまま置いて行けるはずもない。だが家に連れて帰れば色々と面倒な事が発生するだろう。

 低く唸りながら大きく頷くと、気絶している彼女の肩を持ち上げて、走ってきた道を仕方なく戻っていった。


「学校には遅刻しちゃうし、妙なモノは拾うし……何て朝なのかしら。まぁーーったく!!」


 舞の咆哮が虚しく空に響くも、返って来たのは背負った人物の豪快なお腹の音であった。



「ただいま……あっ!!」


 家に帰ると開けたのは家の戸ではなくお店の入り口。いつも帰宅後はそのままお店の手伝いをする為に習慣のまま入ってしまったのだ。無論、現時刻の両親は開店の準備で大忙しである。黙って部屋に連れて行こうと思っていたのだが、あっさりとばれてしまった。


「舞、誰を担いでいるんだ?」

「え、いや……ハハハ、あの……鳥人間?」


 こうなっては言い訳も皆無。開き直った彼女は家を出てから全ての事を告白した。

 腕を組んで考える父親。そして何でも受け入れる心の広い母親。料理上手だが猪突猛進な舞。そして隣でお腹から先程より一際大きな合唱を奏でている謎の女の子。何とも言えない雰囲気に終止符を打ったのは母親である美咲さんで、調理場に行き大きな鍋に火を着けて料理をし始めた。

 十分後、母が持ってきたのは当店の人気メニュー『鳥の唐揚げ&野菜炒めエビフライ大盛り定食』。このボリュームで九百八十円は安いと近所では評判の定食だ。


「お……お母さん!?」

「此処に来たのはお腹が空いているからでしょ? だったら食べて貰わなきゃねー」


 母の包容力に感謝の一言。父は鼻を鳴らしているが同意であると解釈出来る。出来立ての定食をテーブルに乗せ、気を失っている彼女を大きく揺さぶると、低い唸り声を上げながらようやく目を醒ました。

 食欲をそそる匂いに照準を合わせ、目を輝かせて定食と母親を交互に見ている。優しく微笑んだのを見て食べてもいいと解釈したのだろう。唐揚げを一つ指で摘んで食べ始めた。


「お……美味しいですぅ!!」

「慌てなくていいからゆっくり食べなさいね」

「これは、ガーゴイルと似た味ですねぇ。でもこちらの方が美味しいですよぅ♪」

「……なんですと?」


 ガーゴイルとは聞いた事がある言葉だ。彼女から発された言葉から察するに、似た味という事は何かの食材なのだろうか。

 自身が知っているガーゴイルとは御伽話に出てくる翼を持った魔獣だ。とあるゲームでも登場しているので知らない事はないのだが、現在ある食材でそのような名前は聞いた事がない。

 それ以前に着目したのは彼女だ。黒い髪は良いとして、緑色の瞳と尖った耳はあまりにも異端な風格。その疑問は母の美咲さんを残して父親も同意見である。


「んんっ、このソースがとっても美味しいですよぅ!」

「普通のとんかつソースだけど……」

「とん……かつそーす?」

「イントネーションが違うけどね。まぁ、カツソースと言えばそのままで……ってか知らないの!?」


 何処のスーパーでも売っている代表的なソースを知らないとはどういう事だろうか。食べ物を口一杯に頬張り、ハムスターのように膨らませながら首を傾げている。

 どうやら本気で知らないようだ。それに先程から小声で食材名らしきものを言っているが、どれも知った名前ではない。一般常識の枠から外れたとんでもない『モノ』を拾ってきてしまったと、今更に後悔の念が心底押し寄せてきた。


「ぷふぅー! 食べた事無いモノばかりでしたがとっても美味しかったですよーぅ♪」


 満足気な彼女を見て美咲さんも満面の笑みを浮かべる。だが口元から覗く犬のように尖った牙のような歯を見て舞と父親は硬直してしまった。次に食べられるのは自分達なのだろうかと、心配の念が過ぎる二人。


「あの……、一つ聞いて……いいかな」


 彼女の表情を恐る恐る伺いながら問おうとする姿は警戒心が全開である。父は美咲さんを守りながら舞の背中を足で押し、不可解な人物の最前線へと押しやった。確かにこの三人家族の中で一番行動力があるのは彼女である事に間違いは無いのだが。


「あんた……一体何者?」


 その問いに答えないまま突然彼女が勢いよく椅子を弾いて立ち上がると、舞は猫のように身体を跳ね上がらせた。見様見真似の少林寺拳法が技を光らせるのか、不器用に構えながらお鍋の蓋も盾代わりに装備する。無いよりもあった方が良いが、心持ち不安である。


「申し遅れました! 私は魔界に住む、ルミア・アレイユ=ペンダント。一応ですが魔界城のシェフです。今回、新たな食材を求めて人間界を訪れたのですよぅ」


 突然の告白に静まる店内。言葉を聞き取れなかったか、はたまた聞き違いなのか、扱い慣れぬ単語が出てきた。

 彼女の姿を見て、どうにも離せない『魔界』という言葉には当然というべきか、素っ頓狂な発言に現実逃避も否めない。


「あ……あぁ、新しい食材を求めて外国から来たのよ……ね? それで貴女のお店の名前が魔界城って言うんだ。中々ハイセンスな名前よねぇ……あ、はは……はは」

「いいえ? 私は魔界に住み、貴女達で言うマレフィキウムと呼ばれた加害魔法を扱う魔女です。……あ、このように♪」


 翳した右手から突如炎が現れるが、予想以上の勢いだったのだろう。激しく捲くし上がった火炎に熱さを感じて、小さな悲鳴を上げながら振り払うように手放してしまった。お店の壁に燃え移った炎は見る間に範囲を広げていく。所謂『火事』である。


「……あらら?」

「あらら、じゃないでしょ!? 早く消さなきゃ!!」


 瞬間移動の如くキッチンへと向かい、素早く水を掛けて消火活動にあたる。美咲さんは頬に手を添えて困った表情をしているだけだ。


「私も手伝いますよぅ♪」


 ルミアが持ち出したのは加熱真っ最中の薄黄色の液体。通称『サラダ油』であるが、それを鍋ごと掴むと炎に向かって豪快に散布した。


「ちょっと待ったぁー!! それって天ぷら油ぁーーーーッ!!!」

「■&※▼★◎↓☆⇒⊆∋∇」Å♪∝ーーーーーーーッ!?」


 聞いた事の無い……否、聞きたくは無い轟音と共に炎が急激に広大し、店内が黒い煙と真っ赤な炎に包まれた。因みに、奇声を発した舞の父はこの時既に気絶している。


「余計に燃えちゃいましたねぇ。これは魔界の揚げ物油と同じような物でしたか!」

「あのね、なに余裕ブッこいちゃってる訳!? この放火魔ぁーーーッ!!」

「放火魔じゃありません。魔女です。そんな輩と一緒にしないでください」

「どっちでもいいわよ! 魔女ならさっさと火を消しなさいよぉーー!!」


 何をそんなに怒っているのかといった表情で頬を膨らませながら炎に向かって左手を翳す。緩やかに開いた手からはドライアイスのような冷気が零れ出してきた。


「まさか……その冷気で!?」

「いいえ? さっきの炎で右手が熱かったので冷やそうかと……」

「あほーーーーーーーーッ!!!!」


 必死の形相で彼女の胸元を掴んで激しく揺さぶると、ようやく早急な手立てが必要な事に気が付いたらしい。轟々と燃え上がる炎に向かって冷気を浴びせると、あっという間に鎮火した……はいいが、今度は南極にある家のように店全体が凍り付いてしまった。まさにペンギンが隣で寝ていそうなエスキモーの家さながらだ。


「な……なな、なんですとぉーーーッ!?」

「あらら、人間界は魔法の変換率がとても高いようですねぇ。力加減が難しいですよぅ」

「あ……あんたねぇ、手伝いをしたい訳? それとも店を潰しに来た訳ぇ!?」


 ルミアは純粋無垢な笑みを向けるが、大変な事になってしまったお店。こうなっては当分の間、開店なぞ出来るはずもない。彼女が魔法で直すと提言するも断固拒否した。修復が行き過ぎてジャングルと化してしまうのではないかと、舞は想像したようだ。

 取り敢えず落ち着かなければ今後の妙案も浮かばないだろう。母より差し出されたお茶を飲むも、これまた彼女には新発見のようだ。興味津々のように茶柱を指で突きながら何度も味を確かめている。

 そんな自由奔放な魔女のルミアを見て思う。どうやら本当に魔女なのだろう。お店は燃えた後に凍ってしまったが、炎や冷気を出したのは紛れも無い事実。それは己の目で実際に確認しているのだから。

 と言う事は、魔界から新たな食材探しに人間界に来たというのも事実であろう。魔女自体の存在はよく分からないが、良いとは思えない印象を持つのは至極当然かもしれない。

 となると自然に働くのは身を守る為の自己防衛反応。呑気に談笑している母の腕を掴み、ルミアとの距離を確保する。魔法を扱う彼女からすれば人間はとても非力なのだろうが、警戒しないよりはましだ。


「あんた……新たな食材探しって、もしかしてあたし達の魂って事!? 冗談じゃないわ、絶対にあげるもんですか!!」


 捲し上げた舞の警戒色を見て何の事を言っているのか分からない様子。だが彼女からは悪意に満ちた意思は全く伝わってこない。もしかして単なる勘違いだったのか。

 一応は警戒しながらも、彼女の存在と人間界に来た理由を深く掘り下げる事にしてみた。するとどうだろうか。意外にもあっさりと内情を教えてくれ、彼女の思う真意であろう言葉には共感出来るものがあった。

 魔女でありシェフである彼女達は魔界の最下層に住まう主に満足して貰えるよう、様々な料理を作り続けてきた。だがある日、主は呟いた。『この料理も食べ飽きたな……』と。

 皆は思考錯誤した創作料理を出し続けてきたが、先代のシェフ達が既に似たような物を出していたらしい。生きている限り、食とは切っても切れない関係だが、何千年も生きていればやはり新しい味を求めるのも否めはしない。

 そこで奮起したのがこのルミア・アレイユ=ペンダント。主に美味しい物を食べて貰うには今いる魔界の味ではなく誰もが想像しなかった別の味が必要だと思い、一人で人間界にやってきたとの事だった。

 先程食べた料理、そして今飲んでいるお茶もそうだが、今まで魔界になかった未知なる味に確信を持ち、人間界と魔界の食材を掛け合わせて新しい料理を作ろうと思っていたのだ。


「成る程ねぇ、主の為に新しい料理を作るって事か……。良い心掛けじゃない?」

「賛同して貰えますか?」

「もっちろん! あたしも常に新しい味を求めて日々進化中よ♪ あんたに共感したわ」

「よかったですぅ♪ では今から魔界に行きましょう!」

「……なんですと?」


 手を空間に翳しながら呪文らしき言葉を詠唱すると、黒い渦が突如現れた。不穏な音が響き、身体がその渦に吸い込まれそうになる。


「ちょ……なに? なに!?」

「先ずは魔界の食材を案内しましょう♪ という訳で、れっつごぉーーぅ!」


 手を掲げると黒い渦が中心に向かって弧を描きながら小さくなり、二人の姿が渦に飲み込まれていった。

 店内には風を切るような音だけが残り、残された両親はただ呆然と二人が消えていくのを終始見ている事しか出来なかった。



 ほんの瞬き程度の時間で視界が一変した。先程まで見慣れた店内にいたのに、今は冷たい風が吹き荒ぶ薄暗い荒野に立っている。空を見上げれば慣れた太陽は無く、分厚い雲が空一面に広がっているだけだ。


「あ……れ? 此処は……」

「魔界の第一圏にあるワークライの森の前です。風が木々を吹き抜けて雄叫びのように聞こえるのが特徴ですよぅ♪」

「ワークライって……ま、魔界ぃーー!?」


 ルミアの言葉に目がまぁるい点となり、物凄い脱力感に襲われた。いきなり妙な世界に強引に飛ばされ、隣にいるのはどういう人物かも分からない魔女。夢なのかと頭を振って頬を抓るも、風を感じて聞こえる雄叫びのような音に、実際にこの場所に立っている事実を認めざるを得ない。

 乾いた笑い声を発する舞の隣では、ルミアが『マジカル・ブルーム』を呼び寄せた。


「……こんな時にホウキなんか出して掃除でもする気? あんたって呑気よね」

「これは空を飛ぶ魔法のホウキです♪ 先ずはこの世界を色々と案内しますね」


 彼女が箒に跨ると手招きと満面の笑みで催促し、未だ現実を受け切れていない舞は生気の抜けた表情で箒に跨った。


「あのさ……何で魔界ってとこに来る事になっちゃったの? レシピを作るのならお店ですれば……」

「貴女も新しい味を求めていると言いました。此処に来たのはこの世界の味も知ってもらう為です♪」

「でもね、あのね、心の準備ってもんが普通は必要なんじゃ……ひえっ!?」

「細かい事は気にしないで、れっつごぉーーです!」


 舞の言葉を打ち切ると同時に、地面から足が音も無く離れていく。それはまるで夢を見ているかのように非現実的にだ。ピアノ線か何かで引っ張られている感じではなく、膨らませた風船が空に舞い上がるような軽快さ。初めての体験に、舞の胸中では無意識にも鼓動が高まっていた。

 ある程度の高度を確保すると、今度はエレベーターに乗ったように滑らかに空を駆けていく。だがあまりにも抵抗の無い滑り出しだった為に、舞は箒から放り出されてしまった。


「魔界の風は少々気性が荒いですが、慣れると凄く心地よく……って、あら?」


 後方に振り返るが彼女の姿が無く、更に後ろでは甲高い悲鳴が上がっている。視線を先に伸ばすと、舞は箒の掃く部分にしがみ付いて風に靡いていた。


「たっ……たた、助けてぇぇーー!!」

「あらら、ちゃんと乗らないとダメですよぅ。そんな所では危ないですよー?」

「振り落とされたのよぉ! 何でもいいから止めなさいよぉぉ!!」

「まぁまぁ、それは大変ですぅ」


 マジカル・ブルームを急停止させて振り返ると、口を大きく開けた涙目の舞の顔が大きく映し出され、襲い掛かるように飛び込んで来た。両手を広げて受け止める間も無く、二人は上空から真っ逆さまに落ちてしまった。


「いきなり止まるバカが何処にいるってのよぉぉぉ……ぉぉ……ぉ……」

「早く止まれと言ったのは貴女の方ですぅぅ……ぅぅ……ぅ……」


 空高く舞い上がったのも僅かな間の事であった。そして次第に地上へと近づいてきた二人の着地点には枝を広く這わした大樹が立ち、何十本もの枝を折りながら地面へと落下した。身体には幾つも擦り傷があるが、この程度で済んだのは日頃の行いの良さが要因なのだろうか。


「あいったたたぁぁ……」


 片手で頭を押さえながらゆっくりと上半身を起こし、現状を把握する。どうやら無事に着地出来たようだが、安堵と同時に漏れた吐息は溜め息に近いものがあった。

 痛む箇所を押さえながら立ち上がり、彼女に一喝しようとするも姿が見えない。辺りを見回すが、地面にあるのは二人が乗っていたブルームだけが落ちていた。こんな辺境な場所に一人残された舞は、急に怖くなり身を縮ませる。

 見上げれば厚い雲に覆われた宵闇とも言えない暗さ。何処からか聞こえる低い叫び声。こんな場所に正常な人間が一人でいれば直ぐに発狂してしまうだろう。舞も例外ではない。


「ねぇ、ちょっとー?」


 呼び掛けるも返って来るのは冷ややかな風と森を駆け抜ける風の叫び声。両手で身体を庇っていると、暫くして彼女の声が聞こえた。生きた声に振り返るも、どうもこちらに助けを求めている事に疑問が浮かぶ。


「……助けてくださぁぁい」


 聞こえたのは視線より更に上の方からだ。見上げると、彼女は襟首を木の枝に引っ掛けているではないか。慌てて助けようと大樹に近づくが、人間界ではあり得ない光景に舞の口からは大きな声が弾き出された。


「ふぎゃあああぁぁぁーーーッ!!!」


 大音量の叫び声を上げながらその場に尻餅をつき、恐怖に身体を強張らせながら震えている。彼女が見たものは目の前に聳え立つ大樹の異形の所為。ただの木なら何の問題も無かったが、幹全体に大きな顔があったのだ。それは言葉に例えるなら人面樹と言えば良いか。

 大きな口を開けて下品な笑い声を上げている。初めて見た大樹に、舞の思考力は一旦停止を余儀なくされた。


「あ……あわわわ」

「この木は血液を栄養とする慟哭人面樹ですよぉ! 食べられないように気を付けてくださぁい」

「あのね! 先にそんな事を言ったら余計に近づけないでしょ!?」

「だってぇ、危険は先に知らせたほうがいいと思いまして……」


 こんな状況ながら余裕のある……否、彼女だからこそ成せる所業なのか。生身の人間がこんなものに敵うはずがない。しかもこちらには戦う武器すらなく、あるのはマジカル・ブルームだけだ。


「そうだ、このホウキを使って助けに行けばいいんじゃない!?」


 これで戦えばあっさりと折れてしまうだろうが、飛ぶ事なら出来るはずだ。浮いて助けに行けば良いと名案が閃いた舞は、早速ホウキに跨る。


「ドロボー! 人の物を勝手に使ったら盗人と一緒ですよぉー」

「シャラップ!! あんたを助ける為に使うんだから文句言わないでよ!」


 上からの罵声を浴びながらも、舞は宙に浮くよう懸命に命じた。するとどうだろうか……予想はしていたが、やはり無反応である。扱う者、即ち主人が違うのをこの箒は理解しているのだろうか。だが現状ではその主人が助けを求めている為に飛び立つ事を理解してほしい。


「コラ! 少しは浮き上がろうって根性はないの!? このバカ箒!!」


 ルミア以外の命令は聞かないのかと思っていた矢先の事、箒が僅かに反応を示したのだ。必死さ故の言葉の悪さもあったのだろうが、もしかして意思があるのかとも思える。

 動き出そうとする箒に舞は固唾を呑んで飛び立つ瞬間を待ち構えた。箒の掃く部分が驚いた尻尾のように無造作に逆立ち、怒りを露にしている。足が地を離れた時、彼女は会心のガッツポーズを構えるが……。


「ひえっ!?」


 いきなり急上昇したと思いきや、今度は急加速しながらくるくると旋回し始めた。まるで目の前に人参を吊り下げられたロデオの馬に乗っているような感覚で、現状では当然制御なぞ皆無に等しい。


「ちょちょっ……少しは言う事を聞きなさいよ! ゴミと一緒に燃やすわよぉぉ!?」


 制御も虚しく縦横無尽に飛び回る箒に段々と怒りが込み上げてくる。怒声を発しながら掴んだ部分に思い切り力を込めた瞬間、暴れ狂っていた箒が突然動きを止めた。否、それどころか彼女が思う方向にゆっくりとながら進んでいるではないか。

 ずっとしがみ付いていたのが功を奏して意志が疎通したのか、怒りが伝わったのかは定かではないが、何れにせよブルームが思うように進んでくれるのはとても有難い。


「あの大木へ向かって! 言う事を聞かないと本気で燃やすわよぉぉ!」


 舞の迫力に恐れをなしたのか、警戒するように箒全体が震えると、意思とは関係無しに高速で大樹へと向かう。枝先では引っかかっている彼女が小さく手を叩いていた。


「すごいですぅ! 私がブルームを従えるのに一週間は掛かったのにまさか数分で……」

「そんな事はどうでもいいから手を伸ばしなさいよぉ! ホラ早く!」


 相変わらず余裕があると言うか危機感が足りないと言うかマイペースだと言うか……。うな垂れたい気持ちを押さえながらルミアの手を握り、ゆっくりと地上に降りると、ようやく安堵の吐息を吐けた。


「ほんっと……冗談じゃないわ。魔界に連れてこられたと思いきや、あんたは枝に引っかかってるし、箒は言う事を聞かないし。一生分の災難を一気に味わってるって感じ……」


 口から魂が抜けるような低い溜め息を吐くが、ルミアは微笑んでいる。彼女は危機感というものを感じないのだろうか。元々こういう人物なのだろうが、ここまでくると疑問すら浮かび上がる。

 問い掛けようと彼女に振り返った時、差し伸べられた手に言葉を封じ込まれた。


「丁度いい所に降りたようです! もう少し行けばレミ市場があるんです。そこにはこの世界の色んな食材が集まっているんですよぅ♪」


 告げられた言葉に呆気に取られる。既に彼女の脳内には先程の事は消失してしまったのだろうか。他の者ならば身体が強張って暫くは動けないはずなのだが。大きく肩を上げて長い溜め息を吐く。もはや彼女への理解は一般常識は通用しないのかもしれない。

 だが人間界に来た本意も理解し、共感したのも自分自身。こうなっては発想の転換がものを言う。此処は魔界という世界で、自身がいた人間界とは全く違う未知の世界。きっと元の世界に存在しない物が沢山あるだろう。それらを探し出すのもまた一興である。

 今は彼女を頼るしかないし、共に進んで行けば自ずと疑問も解決するだろう。手を握って立ち上がると、じっと彼女を見据えた。


「そう言えば自己紹介をしてなかったわね。あたしは神崎 舞。舞でいいわ!」

「わぁ、初めて名前を知りました♪ マイ、不束者ですが宜しくですぅ!」

「それと! ちゃんと元の世界に戻れるんでしょうね!?」

「大丈夫ですよぅ。私が責任を持って送り帰しますから♪」


 どうも信用出来ない言葉に首を傾げる。人は良さそうなので戻りたいと言えば戻ってくれるだろうが、問題はちゃんと『人間界に戻れるか』という点だ。 そこは彼女に任せるしかないが、出会ってから先程までの素行を見ていると、どうも心の中の霧が晴れないのは誰もが思うだろう。

 だが憎めないルミアの笑顔に、こちらも笑みを返す。素っ頓狂な出来事が連続し、いつの間にか新たな食材と味を求める旅となった。どんな苦難も彼女となら乗り越えられるはず……否、乗り越えなければ無事に帰れないのだ。

 とりあえずの行き先は直ぐ近くにあると言っているレミ市場。そこにはどんな物があるのかと興味が沸く。


「えーっと……市場はどの方向でしたっけ?」


 一帯を見回しながら小さく唸り、何を思ったのかブルームを地面に立たせてそっと手を離した。すぐにバランスを失って倒れるが、ルミアは柄の向いている方向を見て力強く頷く。舞は終始その行動を無言で見続けているだけだ。


「レミ市場はあっちの方向ですね」

「ちょっと待って! 箒が倒れた方向を信じてどーすんのよ!?」

「大丈夫です。お任せくださいですよーぅ♪」

「それが任せられないって言ってんの!」


 大きくうな垂れるも、既に歩き始めた彼女の言葉に着いて行くしかないようだ。舞はこの世界に初めて来たので、右も左も全く分からない。その点ではルミアの方に軍配が上がるのは事実だが、その行動は潔いと言えるのだろうか。


 勘か確信かは分からないまま歩き続ける事数時間。何となく予想はしていたが、市場らしきものは全く見える気配がない。やはりブルームが倒れた方向に進むという直感的行動は無理があったとしか思えない舞は、再び深い溜め息を吐く。

 真夏よりも高い気温の所為で舞の身体からは水分が汗となって抜けていく。喉も乾いたが、周りには水道はおろかオアシスのような水の溜まり場すらない。水分補給も現状では皆無である。


「もぉ~~ダメ!! 喉が渇いちゃってこれ以上進めないよぉ」

「あらあら、人間は喉が渇くと歩けないんですか? ではこれをどうぞ♪」


 懐から取り出したのは真っ赤に熟れた林檎。見るからに大きい林檎は果汁がいっぱい詰まっていて喉の渇きも潤してくれるだろう。気転の利くルミアに初めて感謝する。

 両手に持った林檎を食べようと大きく口を開けた時、何処からともなく低い呻くような声が聞こえた。


「…………?」


 辺りを見回すも一帯には相応なものはない。頬を撫でる生暖かい風かと気にしないように再びかぶりつこうとするが……。


「うぅ……やめ……ろぉおぉお……」


 今度ははっきりと聞こえた。しかもその声はすぐ近くから発され、気味が悪くなった舞は彼女の服の袖を摘む。


「どうしたんですか?」

「何処からか気持ち悪い声が聞こえるんだけど。だ……大丈夫よね?」

「大丈夫ですよ! その声は林檎からですから、気にしないで食べてください」


 そう言ってルミアが懐からもう一つ林檎を取り出して特定の場所を見せると、途端に周りの空気が一瞬で凍りついた。視線を下方に移し、恐る恐る自分の持っている林檎を反すと、舞は石像のようにしっかりと固まってしまった。

 数十秒が経過し、全てが認識出来た頃……。


「うっきゃああああああぁぁぁぁーーーっ!!!!!!」


 雷が落ちたような咆哮が一帯を支配した。二人が持っている林檎には顔のような……否、確実に人の顔が浮かび上がっている。おどろおどろと苦しんでいる表情に、ぼんやりと開いた口からの呻き声。何とも言い難いこの不気味な林檎を舞は槍投げ選手の如く、力一杯投げ捨てた。


「あらあら? 勿体ないですぅ」

「勿体ないじゃないわよ! あんな気持ち悪い物を食べられる訳ないじゃない!!」

「この果物はドウコクリンゴと言いまして、この世界の特産品になってるんです。さっき落ちたあの大樹に実るとっても甘酸っぱい果実なんですよぅ」


 ルミアは投げられた果実を拾いに行き、砂を払って再び舞の手元に戻した。露骨に嫌な表情を浮かべるも、この喉の渇きを潤すにはこれを食べるしかなさそうだ。

 だが躊躇するのは如何にもである。初めて見る食べ物に対して警戒するのは当然であるが、これはさらに呻き声のおまけ付きだ。険しい表情で見つめるも、聞こえる声に食べる意気が減退してしまう。

 そんな彼女を見てルミアは林檎を取り上げると、何の抵抗もなく噛り付いた。


「うきゃっ!?」

「んん♪ 甘酸っぱくてとっても美味しいですぅ!」

「ぅうぁぁ……い……たいぃぃ……やめ……てく……れぇぇ……」

「うぇぇ……」

「美味しいですよ! マイも一口どうぞ♪」

「はや……く殺して……くれ……ぇぇ……」


 顔を真っ青にした舞が背中を向けて出来る限りの抵抗を示す。魔界に住まう者はやはり人間とは感性が全く違い、当たり前にある食べ物でも世界が違えばかなりの異色を感じさせる。


「マイ、美味しいリンゴですよぅ」

「いらないったらいらない!!」


 ルミアが持っていた果実を奪い取り、力一杯遠くに放り投げる。いくらなんでもこの世界に来て初めての食べ物があれでは心の休息なぞ出来るはずもない。普通の人間ならば舞と同じ心境になるのは至極当然だ。

 不貞腐れてその場に座り込んだ舞の肩を叩くが、大きく腕を払いのける。そんな彼女を見てルミアは小さく肩を竦めた。

 このままでは先に進む事さえままならない。彼女には腰を上げて貰わねばこの旅の意味は全て無意味となる。ルミアは指先で小さく肩を突付くと、耳元で小さく囁いた。


「レミ市場に行きましょう? そこには色んな物が豊富に並んでますよー?」

「……どうせまともな物を置いてないんでしょ!」

「じゃあマイを置いて私だけ行っちゃいますからね?」

「どうぞご自由に!」


 断固拒否と言い放った舞は、どうあってもこれ以上は動かないだろう。困ったルミアは舞の背中に合わすように体重を少しだけ預けて一緒に座った。

 緩い風が流れる大地に座っている二人。頬を膨らませている舞の耳に再び声が聞こえた。それは先程のように低い呻き声ではなく、透き通るような洗練された歌声。あまりの美声に振り返ると、ルミアが語るように歌っている。

 呆気に取られるも、目を閉じてその旋律を静かに聞き入れた。

 天使達が奏でるグラスハープにも似た透明度の高い声は心の闇を消し去ってくれるようだ。その声に耳を傾けていると、先程までの憤りの全てが消えて安らぎさえ覚える。


「綺麗な声。こんな歌声……聞いた事ない……よ」


 舞の素直な気持ちが零れ落ちた頃、二人は何時の間にか眠りへと導かれていった。

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