颶風
あん
第1話 『テンペスト』
昨夜はひどい時化だった。
港に停泊する船には幾重にもロープが張り巡らされ、荒天準備が施されていた。
島の沿岸に住まう住人にしてみれば、時化の日は家々に留まって
嵐が過ぎるのをじっと待つのが定番である。
漁師のユリアンは倉庫の屋根に覆いを被せてロープをかけ、
板が飛ばないように補強を施していた。
ふと岬の方を見やると、一人の女性が黒いマントをたなびかせて
ユリアンの家の方に歩いてくる。
最初は母親かと思ったが、徐々に近づくにつれそれが若い女だとわかり
ユリアンは訝しがった。
村では見かけないよそ者がなぜ自分のうちに歩いてきているのだろうか。
ひとまず補修を終えて家の方に戻ると、家の前に先ほどの女性が立っていた。
「うちに何か用かい」ユリアンが問うと、
女は「ここがマールテンさんの家ですか」と答えた。
「うちの親父に何か用か」
「マールテンさんに預かってもらって居たものがあるから、今日それを返してもらいに来ました」
それは妙な話だ。
この島は本土よりだいぶ離れていて、なかなかよそ者と接する事も少ないのである。
それなのに父親がこの女性に何かを貸していたというのはどうも変だ。
「良ければ中で待たせてもらえないでしょうか」女は丁寧に言ったが、
ユリアンはどう返事したものか逡巡した。
「あんた、親父に何を預けたんだ」
「それは私の家に伝わる大事な宝です。あれはどうしても返して頂かないと困るのです」
「宝なんてものはうちのような貧乏漁師の家にはない」
ユリアンは吐き捨てるように言った。
そもそもそんな宝物など生まれてこの方見たことなどないのだ。
辺りはいよいよ風が強くなって来ていて、
風に飛ばされた小枝が突然女性に当たって、彼女は倒れる。
「おい、しっかりしろ。生きてるか」
突然のことに動揺したユリアンは仕方なく、倒れた女性を抱きかかえて家に入った。
中で帰りを待っていた母親は、息子がいきなり若い女性を抱きかかえて
帰宅したことに驚いた。
「何をしているんだいユリアン。誰だこの女は」
「知らん。家の前にいて、うちの親父に何かを預けたから返して欲しいと
言ってたら目の前で小枝に当たって倒れたんだ」
ユリアンはひとまず、狼狽する母親をなだめながら
女性をベッドに寝かせ、 気がつくまで様子を見ることにした。
いよいよ風は強くなり、屋根に当たる大粒の雨がけたたましい音を鳴らし、
乏しい灯りで夜を迎えたが、ユリアンは父親がまだ帰宅しない事が
気になっていた。
母親が白湯を注いでくれたので二人で飲んでいると、
突然いえのドアを叩く音がする。
音の主はやはり父親であった。
安堵したユリアンは父親にハグし、
家に入れると、ベッドに寝ている女の話を切り出した。
「親父。若い女が、親父に預けたものを返して欲しいと尋ねて来ているんだが
いったい何を借りたんだ」
「何言ってるんだ。俺は誰にも何ももらっちゃいないぞ」
「じゃあやっぱり人違いだったか。うちにはお宝なんてないもんな」
そういうユリアンだったが、「お宝」と聞いた父親は
明らかに狼狽た様子になった。
「宝だと・・・。そいつそう言ったのか」
「親父、何か覚えがあるのか」
「実はな。納屋に隠しているものがあるんだ」
「何だよ隠してるものって・・・」
父親に連れられて、雨の中納屋に向かったユリアンが見せられたものは
古びた不思議な形の壺であった。
「この壺は何?」みるからに宝と呼ぶにはあまりにみすぼらしい壺を
いぶかしがるユリアンに、父親は壺の蓋をとって見せた。
「え・・・。これ何」
壺の中には暗闇に白い渦のようなものが漂っており、
徐々にその渦が大きくなっていくのが見えた。
良く見ると、それは渦を巻いた雲のようで
それがやがて小さな島にぶつかって
家々を粉砕していく様子が伺えた。
「これはな、おそらく嵐の壺だ」顔面蒼白の父親が言う。
「じゃあ・・・今この島に近づいてる嵐って」
「恐らくは・・・」二人は壺を見つめて確信する。
家に戻った二人は、気を失った娘を揺すり起こす。
「おい、早く起きてくれ。アンタが探してたものはこれか」
何とか娘を起こしたユリアンは壺を差し出す。
「ああ。これです。これが私たちの宝」
「これはわしが漁をしている時に網にかかったものなんだ」
父親が申し訳なさそうに謝る。
すると娘は突然険しい表情になり、
「・・・・これは孤島にある神殿にあったもの。
網にかかったなんて話は嘘ですね。もう少しこれを早く返してくれてれば
ここまで大きく育つことはなかっただろうに。この期に及んで嘘までつくとは」
そう言うなり壺の蓋を開けて壺を逆さまにした。
数日後、総督府から嵐の被害状況を見聞にきた書記官は
島の被害の中でも、高台にあった一軒家の周辺が特に
激しく、家が根こそぎもぎ取られて風に攫われていると報告した。
さらに後日、海で漁をしていた若者が、
海底に古い家屋らしきものを見たとされているが、
詳細は不明のままである。
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