月と太陽(2)

 一橋椿は、毎朝一番に教室に到着する。朝のホームルームが始まるまでは授業の予習をしたり、読書をしたりして過ごすことが多い。今日も椿は本を読んでいた。少し前に流行った洋画のノベライズで、とても分厚い文庫本だ。

「……」

 しばらく本を読み続けていた椿だったが、やがて集中できなくなり、本を閉じて深く溜息をついた。

「……断ればよかった……」

 椿は恐ろしく小さな声で呟いた。昨日、後ろの席の藤原柚子とその愉快な仲間たちと週末に遊園地に行く約束をしてしまったことを、彼女は後悔しているのだ。

 柚子は、正直に言うとあまり好きではないタイプの女の子だった。もちろん、悪い子ではないということは分かってはいるが、こういう問題は理屈ではないのだ。他人と関わること自体が得意ではない椿にとっては特に苦手なタイプだった。どこにいても目立つ、自分の魅力をしっかりと理解しているみんなの人気者。きっと、いつも他人に遊びに誘われるばかりだから、自分から人を誘うことに慣れていないのだろう。椿はそう考えた。彼女は、親密ではない人と遊びに出かけることが自分のような人間にとっていかに苦痛であるかを知らないに違いない。

 教室にクラスメイトたちが増えてきた。椿は姿勢を戻すと、本を開き直して続きを読み始めた。



 一時限目の英語の授業では、前回の授業で行われたテストが返却された。定期テストほど大がかりではなく、小テストというほど小規模のものでもない。内容は、主に中学英語の復習だ。

 出席番号順に答案用紙が返却されていく。教室の中はざわついていた。よくなかっただとか、もう忘れたわだとかそんな声が聞こえてくる。椿は自分の名前が呼ばれる少し前からすぐに立ち上がれるように準備をしていた。「一橋さん」と名を呼ばれ、返事をして答案用紙を受け取りに向かう。テストを手渡される瞬間、英語教師は微笑んでいた。点数を確認すると、九十三点。概ね満足だ。椿はホッとして自分の席へと戻った。

 次に呼ばれた柚子が余裕の面持ちで戻ってきた。隠しもしないので、点数が見えてしまった。九十六点。椿は思わず目を見開いていた。

「ん」

 椿の視線に気付いたらしい柚子が、席に着く直前に小さく声を上げた。椿は慌てて視線を逸らそうとしたが、間に合わなかった。

「やーん、一橋さんのエッチ」

 柚子はふざけた口調でそう言うと、ニヤッと笑った。

「なっ……」

 椿が顔を赤くする。柚子は何でもないように口を開いた。

「英語、得意なんだー」

 柚子はそれ以上は何も言わず、自分の間違えた問題を探し始めた。



 体育の授業ではテニスを行った。ペアを組んでラリーを最低でも二十回続けられるように練習しなさいという指示が出される。椿が身長順に二列で並んだ時に隣になった子に声をかけるべきか迷っているうちに、その女の子は別の女の子とペアを組んでしまった。どうしようかとオロオロしていると、誰かに話しかけられた。

「一橋さーん。三人でやろうよ」

 沙也香を連れた柚子だ。柚子は、屈託のない笑顔を浮かべている。

「あ……ええ」

 椿は戸惑ったが、素直に頷いた。三人で空いているテニスコートまで歩いていると、「先に二人でやっていいよー」と沙也香が言った。

「じゃあお言葉に甘えて」

 柚子はそう言って、ネットの向こう側まで小走りで向かった。

「よし! 一橋さん、いつでもいいよ!」

 やる気満々の柚子が元気に声を上げる。

「あ……あの、私……」

 椿は顔を赤らめながら口を開いた。

「サーブができないから……先にやってもらってもいいかしら……!」

 柚子は笑うことなく、「りょうかーい!」と声を上げると、沙也香からテニスボールを受け取った。

「行くよー」

 柚子がそう言って、サーブを打った。見た目に反して結構力が強いのか、彼女のサーブはかなり勢いがよく、凄まじいスピードで近づいてきたボールに椿は思わず叫び声を上げた。

「きゃっ」

「ごめん! ちょっと力入れすぎた! ごめんね!」

 柚子が大慌てで謝りながらネット近くまでやってくる。転がるボールを拾った沙也香が、柚子にボールを軽く投げ渡した。

「いや、今のはやばいでしょ」

「ごめんね! ごめんね! 力加減ミスった!」

 軽く笑いながら言う沙也香に対し、柚子はなぜか大量に汗をかきながらひたすら謝罪してくる。

「すごーい、柚子ちゃん。プロみたーい」

「さすが握力測定器壊しただけあるよね」

 ちょうど隣のコースでラリーが途切れたところだった女の子たちが声を上げた。

「ねー、それ私が壊したんじゃないから。語り継がないでよ!」

 柚子は笑いながら返した。四人は楽しそうに笑っている。椿が輪に入れずにいると、柚子と目が合った。

「あ、ごめんね。もう一回やろっか」

 柚子がそう言って、再びネットから距離を取った。



 帰りのホームルーム前は、清掃の時間だ。もう少しでチャイムが鳴りそうなのに、掃除はまだ終わりそうにない。窓際では、勝元が二人の女子生徒と楽しげに会話している。椿は鼻から大きく息を吐くと、口を開いた。こういう時に嫌われ役を買って出るのも、委員長の役目なのだ。

「みんな、ちゃんと掃除しましょう!」

 椿が大声を上げると、クラスメイトたちは一瞬静かになった。それから、「はーい」と間抜けな返事をしてだらだらと掃除を再開する。しばらくして再び教室の中が騒がしくなり始めたところで、チャイムが鳴り響いた。

「……っ」

 もう少しどうにかならないのかと思った椿が再び声を上げようとしたところで、後ろから歩いてきた女の子とすれ違った。柚子だ。彼女は教室以外のどこかの担当らしく、自分の掃除場所から戻ってきたところのようだった。

 柚子は真っ直ぐ勝元の元へ歩いていく。何をするのかと思えば、彼女はわざとらしい口調で勝元に声をかけた。

「ちょっと男子ーぃ、ちゃんと掃除してよー」

 柚子を見て、勝元が吹き出す。

「柚ちゃん、何キャラ?」

「分かんない」

 柚子はそう言ってニヤッと笑うと、「いいからさっさと終わらせよ」と続けた。そして、椅子を乗せて教室の片方に寄せられた机を一台持ち上げる。

「一橋さんの声、廊下まで聞こえてたよ。迷惑かけないのー。早く終わらせて早く帰ろ! 先生も来ちゃうよ」

 柚子の言葉に、勝元だけではなく、他のクラスメイトたちも納得して「そうだねー」と声を上げて早々と動き始めた。

 机を運んでいる柚子と、目が合ってしまった。柚子は微笑んできた。

 彼女にはきっと、人助けをしている意識なんてないのだ。椿はそう思った。だって、知っている。そういう人を、私はもう一人知っている。

 あんな風になれたらいいなと、そう思う。才能があって、誰からも愛される彼女が羨ましかった。好きになれないのは、性格が合わないからではない。そんなことは分かりきっている。そもそも、彼女の性格なんてほとんど知らない。ただ、一緒にいたら、きっとどんどん自分が嫌いになっていくだろうと分かっているからだ。似たような経験はしたことがある。惨めになるくらいなら、始めから関わらない方がいい。彼女は自分とは違う、自分のような人間の気持ちなど理解することもできないのだと見下す方が楽だ。

 椿は柚子から目を逸らすと、掃除に戻った。



「うーん……」

 暗闇の中で、何かが蠢く。

「二人とも失敗するなんて、どういうことかしら?」

 それは、人の形をしていた。女の子だ。

「一体どうなってるの? 姫君は、やっぱり記憶を失ってしまわれてるのかしら。可哀想に……」

 物憂げにそう呟く少女は、大きな花柄模様が目立つ黒地の可愛らしい着物を着ていた。サイドで高く結んだ髪にも、着物の柄と同じ赤い大きな花の髪飾りをつけている。

「こうなったら、力尽くで連れていくべき? でも、怒られたら嫌ね……」

 少女は顎に手を当てて考えこむような仕草をする。それから、いい案が思い浮かんだのか、少女はパッと顔を輝かせた。

「いいこと思いついた!」

 少女はそう言うと、歯を見せて笑った。

「あの、同じ名前の娘に手伝ってもらいましょ!」

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