柚子の狐

めざめ(1)

 水面に映る自分の姿を見ただけで、これは夢だと分かった。だって、髪を染めたことなんて一度もないのに、混じり気のない美しい金髪が揺れていたから。

 理由は他にもある。森の奥深くにいるのか、辺りは背の高い木々に囲まれておりとても暗い。いるだけで気が滅入りそうなこの場所に馴染みはなかった。更に奇妙なことに、彼女の耳は不自然に大きくなり、臀部からは九本の尻尾が生えている。だがきっと、夢なんてそんなものだろう。

 彼女は泣いていた。打ちひしがれたように体に力が入らず、四つん這いになって池の水に映る自分の顔を見つめていた。歯を食いしばって何かを喚いていたが、何と言っているのかは自分でも分からなかった。何も聞こえなかったのだ。だがやはり、夢なんてそんなものだろう。

 水際に生えた雑草ごと拳を握りしめてから、彼女はようやく顔を上げた。そして、着物の懐から小さな巾着袋を取り出し、中に入っていたものを出す。夢だから、それがトリカブトだということもすぐに分かった。いつかこれが必要になるということが分かっていたので、肌身離さず持ち歩いていたのだ。そして今、その時が来た。

 彼女は、トリカブトを迷いなく口元へと運んでいき、勢いよく噛みついた。苦い。吐きそうだ。涙が出てくる。だが、彼女は絶対に吐き出さまいと必死にトリカブトを噛み砕いて飲みこんだ。一株では足りないかもしれないから、もう一株。念には念を入れて更にもう一株。既に息ができなくなってきた。喉の奥から声にならない声を出して、苦痛に耐えながらも、彼女はなんと、笑っていた。

 もう少し、もう少しで終わる。あともう一度だけ。この苦しみは次で終わる。そうすればすべてが終わる。これからあともう一度死ねばすべてが終わる。さあ、命の炎よ、早く燃え尽きてくれ。ああ、随分と死にづらくなってしまったものだ。もう一株摘んでおいた方がよかっただろうか?

 一人汗だくになって息苦しさに身を捩りながらも、彼女はそんなことを考えていた。だが、これ以上のトリカブトは不要だったようだ。やがて、彼女は震え出し、口から泡を吹いて湿った地面の上に倒れ、そして――藤原ゆずは目を覚ました。

「……」

 勢いよく起き上がった柚子は、荒い息を吐きながら愕然としていた。唾を飲みこんでカラカラに渇いた喉をどうにか潤し、喉の辺りをゆっくりとさする。夢の中でトリカブトを無理矢理飲みこんだ時の苦しさがまだ残っているような感覚がして、思わず呻き声を上げた。

 恐ろしい夢だった。まさか、自殺する夢を見るなんて。それも、あんなにリアルな痛みを帯びた夢を……。

 汗をかいたせいで、髪やパジャマが肌に貼りついて気持ち悪かった。胸の辺りまで伸びた髪を掻き上げて、枕元に置いていたスマートフォンの画面をつける。液晶画面に表示された時刻を見るなり、柚子はベッドから飛び起きた。

「やば!」

 部屋を出て大慌てで洗面所へ向かう。廊下ですれ違った母親に「おはよう」と挨拶をすると、「おはよう。何度も起こしたのに」と返されてしまった。

「うそ、全然気付かなかった!」

 柚子は泣きそうな声でそう言った。縁起が悪い気がして、自殺する夢を見たとは言えなかった。

 顔を洗い終えると、リビングにある父親の仏壇に線香を上げてから、チラッと時計を確認した。キッチンに向かい、冷蔵庫の中にあるパンを一つ取り出して立ったまま口の中に放りこむ。

「やだ、行儀悪い」

「今日だけ許して」

 母親に非難がましい目で見られ、申し訳ない気持ちになりながらも、柚子はコップ一杯分の牛乳を飲み干してからそう返した。

 歯磨きや着替えなどの身支度を済ませると、柚子は部屋の鏡に映る自分を見て溜息をついた。少し垂れた眉にも大きな吊り目にも元気がない。ヘアアレンジをする余裕もなさそうだ。ヘアブラシで暗い茶色の髪を梳かしてから、通学鞄を手に取る。

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

 慌ただしく玄関を出ていく柚子に、母親は少し心配そうに挨拶を返した。

 柚子はスマートフォンを取り出して時間を確かめた。待ち合わせの時間まで、五分しかない。

 柚子は毎朝通学時に駅前で親友と待ち合わせている。普通に歩いていけば、到着には十分近くかかるだろう。

 待ち合わせ時間に遅刻したら先に行っていてほしいと以前から伝えてはいるものの、親友は絶対に自分を待ち続けるということは分かっていた。待たせるのは悪い。柚子は小さく息を吐くと、全速力で駆け出した。

 走るのは嫌いじゃない。むしろ、結構好きな方だ。風を切る音が気持ちいい。なんだか、いつもより体が軽く感じた。柚子は人にぶつからないように気をつけつつ、脇目も振らずに走り続けた。時折すれ違う人が、走っている自分を驚愕の目で見ているということにも気付かずに。

 やがて、待ち合わせ場所である最寄り駅の入口に辿りついた。いつも目印にしている、繁華街の劇場でやっているミュージカルの広告の近くに親友の姿はない。やはり、間に合わなかった。けれど、先に向かってくれていてよかったと柚子は思った。高校に進級してまだ間もないうちに自分のせいで親友も遅刻させてしまうのは申し訳ない。

 柚子は現在時刻を確かめようとスマートフォンを取り出した。画面をつけようとしたその瞬間、「おはよう」という声が聞こえ、柚子は驚いて勢いよく振り向いた。

「あれ? 沙也香?」

「沙也香だよ。どうしたの」

 中学生の頃からの親友である天野沙也香が、キョトンとした顔でこちらを見つめている。柚子は思わず目を瞬いた。

 沙也香は中学生の時は長く伸ばしていた髪をばっさりと切って、茶色く染めている。柚子が何も言わないので、沙也香はクスッと笑った。

「寝ぼけてる? 本当にどうしたの?」

「あ……ごめん、マジで寝ぼけてるかも。寝坊して全速力で走ってきたから」

 柚子はそう言って、スマートフォンの画面に目をやり、無言で固まった。待ち合わせ一分前。

「全速力?」

 沙也香はわざとらしく繰り返した。

「嘘だ、全然疲れてないじゃん。ほら、行こ」

 沙也香はけらけらと笑って、さっさと駅の構内へと入っていく。柚子は沙也香に言われた通り、あれほど全力で駆け抜けたにも関わらず自分が息切れしていないことに気がついた。

「あれ……?」

 柚子は首を捻った。確かについ先程まで走っていたはずなのに、疲れをまったく感じない。一体どうして? なんだか気味が悪かったが、先に歩いていく親友の後ろ姿を見た柚子は、それ以上考えるのをやめて後を追った。

 二人の通う猷秋高校はここ新葉しんようにある都立の進学校で、最寄りの新葉駅は地元の駅から二十分ほどで辿りつく。電車に乗っている間や学校まで歩いている間に他愛もない会話をしているうちに、柚子は今朝見た悪夢や全速力で走ったことをすっかり忘れていた。

 校門の中に入り、昇降口で靴から上履きへと履き替える。下の方にある自分の下駄箱にピンクのハイカットスニーカーを入れて頭を上げた瞬間、柚子は一瞬頭が真っ白になった。

「痛っ!」

 後頭部を押さえて涙目で見上げる。ちょうど頭の辺りにある段の下駄箱の扉が閉まりきっていない。そこに思いきり頭を強打してしまったらしい。

「大丈夫?」

 沙也香が慌てて声をかけてきた。

「だいじょばない」

 柚子はそう言うと、開きっぱなしになっていた下駄箱を恨みがましく睨みつけながら勢いよく閉じた。

「最悪……たんこぶできちゃった……」

 後頭部をさすりながら、柚子は一年生の教室がある四階へと階段を上っていった。おかげであの悪夢や全力疾走を思い出してしまった。今日は本当についていない。

 一年二組の教室までやってくると、柚子と沙也香はそれぞれ自分の席に荷物を置くために一旦離れた。まだ学校が始まったばかりで一度も席替えをしたことがないので、苗字が「あ」から始まる沙也香とは席が遠い。それでも、親友と同じクラスになることができたのはかなりラッキーだった。

 柚子の席は窓際の列の前から二番目にある。一つ前はクラスの委員長の席で、彼女は姿勢正しく席について本を読んでいた。柚子はドサッと椅子に座ると鞄を机の脇のホックにかけ、深い息を吐きながら頬杖をつき、窓の外を眺めた。すると、沙也香が柚子の席までやってきた。

「柚子、保健室行く?」

 沙也香の言葉に、柚子は「あー、行こうかな」と返しながら再び後頭部に手を当てた。そして、違和感を覚えて声を上げる。

「ん? あれ? たんこぶなくなってる……」

「え、どういうこと?」

 沙也香も驚きの声を上げた。

「痛みは? 消えてる?」

「うん、もう痛くない」

「それはよかったけど……もしかして、たんこぶ自体気のせいだったんじゃないの?」

「ええっ、そんなことないよ! さっき本当にあったもん」

 疑わしげな沙也香の声に、柚子はそう言い返した。もう一度触ってみたが、やはりたんこぶは消えていた。でも、さっき触った時はかすかにこの辺りが膨らんでいたはずなのだ。

「ほんとー? でもまあ、痛みおさまったならよかったじゃん」

「うん……そうかな……」

 柚子は、まだ後頭部を撫でながらどこか上の空で答えた。



 四時限目は体育の授業だ。体操着に着替えて髪をポニーテールにまとめた柚子は、列に並んで自分の番を待っているところだった。

 今日の授業は新学期恒例の体力テストだ。中学生の時にも同じものをやった。今から五十メートル走のタイムを測定するために、生徒たちは男女別に分かれて出席番号順にコース付近に並んでいる。五十メートル走のタイムを計り終えた生徒から、別の項目のテストを受けることになっている。柚子は体を解しながら考えごとをしていた。

 走るのは好きだ。それに、タイムはできることなら自己ベストを出したい。是が非でも本気で走りたいところだったが、あることが頭に引っかかっていた。それは、朝の全力疾走だ。

 あの時は確かに沙也香を待たせないようにと全速力で走った。だが、現実的に考えれば間に合うはずなどなかったのだ。それに、まったく疲れなかったというのもおかしい。少なくとも三分以上は走り続けていたのだから。そう思ったところで柚子はまたおかしな点に気がついた。走っている間、減速した覚えがない。

「……」

 なんだか妙な胸騒ぎがしていた。今本気で走ることは危険な気がしたのだ。刻一刻と自分の番が迫っている。どうやって走るか、ちゃんと決めないと。

「位置について」

 体育教師の声が響く。出番だ。柚子はクラウチングスタートの姿勢を取った。

「よーい」

 鋭く短いホイッスル音を聞いてから、柚子は飛び出した。

 いつもよりずっとゆっくりと、軽い動きで。

 ゴールした後、不完全燃焼でスッキリしないまま教師にタイムを聞きに行くと、なんと七秒台のタイムを告げられて柚子は唖然とした。あれほど手を抜いたにも関わらず、自己ベストを叩き出してしまったのだ。

「藤原、速いな。陸上部入るか?」

 嬉しそうに言う体育教師に曖昧な笑みだけ返し、柚子は次の種目である立ち幅跳びの測定をしている列へと向かった。

 それからはもうおかしなことばかりだった。立ち幅跳びでもだいぶ力を抜いたのに二メートル以上飛んでいたし、ハンドボール投げでも一球目はコースを外れてどこかへと飛んでいって見えなくなり(消えたボールは放課後に運動場の隅で見つかったらしい)、挙句の果てに、なんと握力測定器を一つ壊してしまった。

「はあ……」

 深い溜息をついて机に突っ伏す。授業を終えて昼休みを迎えた柚子は精神的な意味ですっかり疲れ果てていたが、なぜか体力は有り余っていた。一体どうなっているのだろう。まるで人間じゃないみたいだ。

「藤原さん、握力測定器握り潰したってマジ?」

 ふと声をかけられ、柚子は言い返しながら顔を上げた。

「そんなわけないでしょ! あれはやる前から壊れかけてたんだよ」

 そういうことにしておく。

「あはは。まあそうだよねー」

 話しかけてきたのは、クラスメイトの男子生徒だった。確か名前はそう勝元かつもと。吊り眉に垂れ目。髪を明るく染めて、左耳にピアスを一つつけている。女の子と仲良くなるのが上手いタイプの男の子だ。

「藤原さん、強くて可愛くて最強じゃん」

 勝元が言う。柚子は一瞬考えてから、ニヤッと笑った。

「まあね。柚子様にできないことはないから」

 肩にかかった髪を払いながら澄まし顔でふざけてそう言うと、勝元も楽しそうに笑った。

「うん、間違ってないと思うよ」

 勝元はそう言うと、着崩した制服のポケットからスマートフォンを取り出した。

「藤原さん、FINE教えてくれる?」

 FINEとは、気軽に伝言を送り合えるメッセージアプリのことだ。何でもないことのように連絡先を訪ねてきた勝元に、柚子は内心舌を巻いた。

「いいよ。……宗くん、クラスの女子みんなに聞いてない?」

「ばれた? ほんとは藤原さんに一番に聞きたかったんだけどね」

 ちょっと意地悪なことを言ってみたが、勝元は笑顔を崩すことなくそう返してきた。

「一番じゃなくて残念でした」

 柚子はからかうような口調でそう言うと、鞄の中にしまっているスマートフォンを取り出そうとした。

「柚子ー、早く行かないと食堂埋まっちゃうよ」

 親友の声が聞こえ、「あっ」と声を上げる。スマートフォンをポケットの中に入れながら、勝元に向かってばつが悪そうに笑う。

「ごめん、後ででいい?」

「いいよ。行ってらっしゃい」

そう言ってにこやかに手を振る勝元にもう一度「ごめんね」と告げてから、柚子は財布を持って席を立ち、沙也香の元へ小走りで向かっていった。



「あ! 忘れてた」

 帰り道、学校を出てしばらく歩いたところで柚子は大きな声を上げた。沙也香が驚いて肩を震わせる。

「何を?」

「宗くんにFINE教えるの忘れてた」

「あー……、まあ別にいいんじゃない」

 沙也香は興味なさそうにそれだけ返した。しかし、そのまま黙りこんで立ち止まってしまったので、何事かと柚子は沙也香の顔を覗きこんだ。

「どうしたの?」

「……机の中にスマホ置いてきた。最悪!」

「ええっ」

 顔をしかめて言う沙也香に、柚子も悲痛な声を出した。

「取りに行ってくる。先帰ってて」

「えー、待ってるよ」

 柚子はそう言ったが、沙也香は申し訳なさそうに首を横に振った。

「ここから学校に戻るのもちょっとかかるし、悪いからいいよ」

「んー……じゃあゆっくり歩いてるから会ったら一緒に帰ろ」

 柚子の言葉に、沙也香は笑った。

「分かった。ありがと」

「ちゃんとあるといいね」

「うん、机の中に入れた記憶あるから多分大丈夫。じゃあね」

「ゆっくり歩いてるから!」

 踵を返して学校へと戻っていく沙也香に笑いながら手を振って、柚子は自分のスマートフォンを取り出した。それから、沙也香にFINEでシマリスのキャラクターが喜んでいるスタンプを送り、スマートフォンを戻して再び歩き始める。

 猷秋高校の最寄り駅である新葉駅は、新葉区で最も大きい駅である。ここには四方通りと呼ばれる、広く栄えた繁華街がある。新葉区で一番人が集まる場所だと言えるだろう。至るところでネオンやスクリーンの広告が光っているこの通りは、夜になっても眩しいほどに明るい。

 四方通りでちょっと寄り道しちゃおうかな。そんなことを考えながら歩いていると、見知らぬ人に話しかけられた。

「あなた様」

「はい」

 声が聞こえてきた方を見る。そこには着物を着た上品そうな女性が立っていた。

「お待ちしておりました!」

「……はい?」

 道でも聞かれるのかと思ったが、予想外の言葉が返ってきたので、柚子はキョトンとしてそう返した。

「姫君がその御力みちからを解き放たれる……それは姫君、そして我らが白面金毛はくめんこんもう様の忠実なるしもべへの合図! ずっと……ずっとこの時をお待ちしておりました!」

 女性が興奮気味にまくし立てる。訳が分からず呆然としていた柚子は、こう言うしかなかった。

「ひ、人違いじゃないですか?」

「間違えようもございません!」

 女性の声は更に高くなった。

「ああ……おいたわしや姫君。前世の記憶を失くされたと伺っていましたが、まさか本当だったとは。ご自分がどれほど尊い存在なのかを知らぬまま……今まで……」

 そう言うと、なんと女性は泣き始めた。柚子はギョッとして女性から一歩後退りした。何? 何これ? 不審者……?

「偉大なる母君、白面金毛九尾の狐様のこともお忘れになっておられるのでしょう。おいたわしや……おいたわしや……ですがもうご心配はいりません。わたくしめたちの元へお戻りください。そして白面金毛様を蘇らせるのです!」

 柚子は固まっていた。オカルト詐欺かなんかだろうか。こういう時、どうすればいいの? どうにか絞り出した声は、掠れていた。

「知らないです。人違いです」

 そう言って、素早くその場を立ち去ろうとしたが間に合わなかった。女性が柚子の腕を掴んできたのだ。柚子は「ヒッ」と声を上げた。

「人違いなど! とんでもございません! 姫君、この時を……この時を皆が待ちわびておりました。また姫君にお会いする日を皆が夢に見ておりました……!」

 女性はほぼ絶叫していた。やがて、必死の形相で叫ぶ女性の顔つきが変わっていった。目は細く切れ長に伸び、鼻は高くなり、その先は黒く色づく。耳は大きくなり、頭の上まで伸びている。そして、肌は無数の茶色い毛でびっしりと覆われていく。いつの間にか着ていた着物も消え失せ、柚子の目の前には狐が、そう、二本足で立ち、ものを言う狐が立っていた。

「きゃああああ!」

 今度は柚子が叫ぶ番だった。化け物! 化け物だ! 柚子は弾かれたように走り出した。目の前の曲がり角で左に曲がったところで、柚子はその奇妙な光景に愕然として思わず立ち止まってしまった。

「なんで? なんで誰もいないの?」

 柚子は辺りを見渡した。普段はそれなりに人通りの多い路地のはずだが、人っ子一人いない。困惑して立ち尽くしていた柚子は、ハッとして後ろを振り向いた。狐が全速力でこちらへやってきている。柚子は叫び声を上げて再び走り始めた。

「姫君……姫君、どうかお待ちください! 私めたちの元へお戻りくださいませ! 白面金毛様を復活させるのです! 今こそ!」

 狐の声を無視して、柚子は必死に考えた。逃げたってきっと無駄だ。助けを呼ばなきゃ。でも誰もいない。どうしよう? 警察を呼ぶ? でもそんな余裕もない! どうしよう、どうしよう! このままじゃ死ぬ、殺される!

 ――だったら、殺される前に殺せばいい。

 どうしてそんな考えに至ったのかは分からないが、柚子はそんなことを思いついた。その瞬間、自分が自分ではなくなったような、そんな気がした。

 柚子は急に立ち止まった。狐も動きを止めて、息を殺して柚子を見つめている。柚子はゆらりと振り向いた。その姿は、明らかに人間ではなかった。

 風にそよぐ稲穂のように揺らめく金髪に、ぴんと伸びた金色の耳、蝋人形のように青白い顔、光のない瞳。そして、何よりも目を引くのは、臀部から花のように大きく美しく生えた金色の九本の尾。

「ああ……お美しい……お美しい……! 姫君、お会いしとうございました! お会いしとうございました!」

 狐は感極まり、涙を流しながら絶叫していた。その姿はとても嬉しそうで、恍惚とした表情を浮かべている。

 しかし、柚子は何をするでもなくその場にがくんと倒れこんだ。耳も九本の尻尾も消え、髪の色も暗くなり、いつも通りの姿に戻っている。柚子は地面に手をついて喘いだ。

「はあ、はあ」

 息絶え絶えに今自分に起こったことを振り返る。一瞬記憶が飛んだと思えば、いきなりどっと疲労感が襲ってきた。立ち上がるのもままならない。何? 今、何が起こったの? 

 だが、考えている暇はなかった。いつの間にか狐がすぐ近くまでやってきて、柚子を見て泣き叫んでいる。

「御力を解き放たれてまだ間もないですから、お身体への負担が大きいのでしょう……ですが、姫君ほどのお方ならすぐに慣れるはずです。どうか、どうかご心配なく……ああ……姫君……!」

 狐はそう言ってさめざめと泣いていたが、いきなり口を閉じた。耳をピクピクさせている。何かを感じ取ったのか石のように動かなくなり、しばらくある一点を見つめていたが、やがて血相を変えてその場から逃げ去った。その瞬間、乾いた銃声のような音が二発響いた。柚子は震え上がったが、それでもまだ気力が湧かず、柚子は呻いてその場にうずくまることしかできなかった。

「あーくそ、逃げたか」

 男性の声が聞こえる。柚子は顔を動かして声の主を見上げた。袴を着た、黒髪の長身の中年男性だ。先程の音は本当に銃声だったらしく、男性は手に持っていた銃を腰に戻した。そして、その場で動けなくなっている柚子をちらりと見やる。眠たげな瞳と目が合い、柚子は慌てて視線を逸らした。

「群治郎!」

 今度は女性の声がした。群治郎と呼ばれた男性が現れた方向から、ショートヘアの女性が小走りでやってきた。染めているのか髪色は赤みがかっていて、群治郎と同じように袴を着ている。群治郎よりは年下に見えたが、それほど若くはなさそうだ。女性は群治郎に素早く声をかけた。

「被害者は他にはいないわ」

 女性はそれだけ言うと、柚子に目線を合わせて屈みこみ、手を差し出した。

「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

 女性が丁寧な口調で言う。柚子がおずおずと口を開こうとすると、「ないよ」と群治郎が勝手に代わりに答えた。女性が群治郎を睨みつける。

「あんたに聞いたんじゃないわよ」

「わーってるよそんなこと。そんなことより、俺、とんでもないの見ちゃったんだから」

 群治郎はそう言うと、柚子を見つめ、一言。

「君、妖怪でしょ?」

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