めざめ(1)

 水面に映る自分の姿を見ただけで、これは夢だと分かった。だって、髪を染めたことなんて一度もないのに、混じりけのない美しい金髪が揺れていたから。

 夢だと分かった理由は他にもある。森の奥深くにいるのか、辺りは背の高い木々に囲まれておりとても暗い。立っているだけで気が滅入りそうなこの場所に、馴染みはなかった。更に奇妙なことに、水面に見える自分の耳は不自然に大きくなっており、臀部からは九本の尻尾が生えていたのだ。だがきっと、夢なんてそんなものだろう。

 彼女は泣いていた。打ちひしがれたように四つん這いになって、池の水に映る自分の顔を見つめていた。歯を食いしばって何かを喚いていたが、何と言っているのかは自分でも分からなかった。何も聞こえなかったのだ。だがやはり、夢なんてそんなものだろう。

 水際に生えた雑草ごと拳を握りしめてから、彼女はようやく顔を上げた。そして、体の右側に落ちていた刀をゆっくりと手に取る。それから、彼女はそっと刃を自分の首筋に当てた。

 もう少し、もう少しで終わる。もう声は聞こえなくなった。だからきっと次が最後だ。この苦しみは次で終わる。次で役目を果たせばもう終わる。あと少し。あと少しだ。

 自分の首に刀を突きつけながら、彼女はそんなことを考えていた。

 恐怖はなかった。同じような痛みは何度も感じてきた。長く辛い苦しみから逃れることができるのならば、一瞬の激痛などいくらでも耐えられる。

「最後の使命を果たす前に、もしも……」

 彼女は掠れた声でそう囁きながら、ぐっと腕に力をこめた。それから、刀を己の首に向けて叩きつけるように迷いなく振る。刃がその美しく柔らかい肌に食いこみ、そして――藤原柚子ゆずこは目を覚ました。

「……」

 勢いよく起き上がった柚子は、荒い息を吐きながら愕然としていた。唾を飲みこんで渇いた喉をどうにか潤し、両手で首をゆっくりとさする。夢の中で痛みを感じる前に目を覚ましたはずだが、それでもなぜか首元が痛むような気がしたのだ。

 恐ろしい夢だった。まさか自殺する夢を見るなんて。それも、あんなにリアルな苦痛を帯びた夢を……。

 汗をかいたせいで髪やパジャマが肌に貼りついて気持ちが悪い。胸の辺りまで伸びた髪を掻き上げて、枕元に置いていたスマートフォンの画面をつける。液晶画面に表示された時刻を見るなり、柚子はベッドから飛び起きた。

「ヤバいっ!」

 部屋を出て大慌てで洗面所へ向かう。廊下ですれ違った母親に「おはよう」と挨拶をすると、「おはよう。何度も起こしたのに」と返されてしまった。

「うそうそ、全然気付かなかった!」

 柚子は今にも泣き出しそうな声を上げた。縁起が悪い気がして、自殺する夢を見たとは言えなかった。

 顔を洗い、リビングにある父親の仏壇に線香を上げてから、チラッと時計を確認する。柚子は狭いキッチンに向かい、冷蔵庫の中にある菓子パンを一つ取り出すと立ったまま口の中に放りこんだ。パンを咀嚼しながら冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、水切りラックに置いてあったグラスに注ぐ。

「やだ、行儀悪い」

「今日だけ許して」

 母親に非難がましい目で見られて申し訳ない気持ちになりながらも、柚子は牛乳を飲み干してからそう返した。

 歯磨きや着替えなどの身支度を済ませると、柚子は部屋の鏡に映る自分を見て溜息をついた。チャームポイントである大きなつり目に元気がない。ヘアアレンジをする余裕もなさそうだ。ヘアブラシで髪を軽く梳かしてから通学鞄を手に取る。部屋を出ようとして、柚子は慌てて鏡の前に戻った。スカートが捲れている。手で叩いて裾を戻してから、もう一度部屋を飛び出す。

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

 慌ただしくアパートの玄関を出ていく柚子に、母親は心配そうな声で挨拶を返した。

 柚子はスマートフォンを取り出して時間を確かめた。親友との待ち合わせ場所である最寄り駅まで、歩いて十分近くかかるほどの距離があるが、時間まで五分しかない。柚子は思わず天を仰いだ。雲一つない青空だ。

 親友には、自分が待ち合わせに遅れた時は先に行っていてほしいと以前から伝えてある。だが、彼女は絶対に自分を待ち続けるだろうと分かっていた。そういうタイプなのだ。待たせるのは悪い。柚子は小さく息を吐くと、ワイヤレスイヤホンを両耳につけ、二人組の人気アイドルユニット「ルサルカ」の曲の中でも特にアップテンポな楽曲を流して全速力で駆け出した。

 走るのは嫌いじゃない。むしろ、結構好きな方だ。風を切る音が気持ちいい。なんだかいつもより体が軽い気がする。柚子は人にぶつからないように気をつけながらそのまま走り続けた。

 やがて、柚子は待ち合わせ場所である駅の入口に到着した。いつも目印にしている大きな広告看板の近くに親友の姿はない。やはり、間に合わなかった。だが、先に向かってくれていてよかったと柚子は思った。高校に進級してまだ間もないというのに、自分のせいで彼女まで遅刻させてしまっては申し訳ない。

 今看板に貼られているのは、ルサルカのメンバー、KAORIとALISAがアンバサダーを務める化粧品ブランドの広告だ。それを見て、柚子は異変に気がついた。耳元ではまだ同じ曲が流れている。同じアルバム内の次の曲が再生されているはずなのに、まだ最初に流した曲が終わっていないのだ。

 何かがおかしい。柚子は現在時刻を確かめようとスマートフォンを取り出した。画面をつけようとしたその瞬間、背後から「おはよう」という声が聞こえ、柚子は驚いて勢いよく振り向いた。

「あれっ?」

「ん?」

 中学生の頃からの親友である天野沙也香が、キョトンとした顔でこちらを見つめている。柚子は思わず目を瞬いた。

 沙也香はショートカットが印象的な背の高い女の子だ。以前は長く伸ばしていたが、進学時にバッサリ切った。柚子が何も言わないせいか、沙也香が不安げな表情を浮かべる。

「大丈夫? 何かあった?」

「あ……ごめん。寝坊して全速力で走ってきたとこで……」

 柚子はそう言いながらスマートフォンの画面に目をやり、無言で固まった。待ち合わせ一分前。

「全速力?」

 沙也香は目を丸くして繰り返した。

「全然疲れてないのすごいね。さすが柚子」

 沙也香は軽い声色でそう言った。彼女は柚子が何をしても肯定する傾向がある。

 それから、沙也香はさっさと駅の構内へと入っていってしまった。沙也香に言われて初めて、柚子はあれほど全力で駆け抜けたというのに自分が息切れしていないことに気がついた。

「あれ……?」

 柚子は首を捻った。確かについ先程まで走っていたはずなのに、疲れをまったく感じない。一体どうして? なんだか気味が悪かったが、先を歩く親友の後ろ姿を見た柚子はそれ以上考えるのをやめて後を追った。

 二人の通う猷秋ゆうしゅう高校はここ新陽しんようにある都立の進学校で、最寄りの新陽駅まではこの駅から二十分ほどかかる。電車に乗っている間や学校まで歩いている間に他愛もない会話をしているうちに、柚子は今朝見た悪夢や全速力で走ったことをすっかり忘れていた。

 校門の中に入り、昇降口で靴から上履きへと履き替える。下の方にある自分の下駄箱にスニーカーを入れて頭を上げた瞬間、柚子の目の前が真っ白になった。

「痛っ!」

 後頭部を押さえて涙目で見上げる。ちょうど頭の辺りにある段の下駄箱の扉が閉まりきっていない。そこに思いきり頭を強打してしまったらしい。

「大丈夫?」

 沙也香が慌てて声をかけてきた。

「だいじょばない……」

 柚子は力なく呻いた。沙也香は開きっぱなしになっていた下駄箱を柚子の代わりにお前のせいだとでも言うように恨みがましく睨みつけ、叩きつけるようにして勢いよく閉じた。

「最悪……たんこぶできちゃった……」

 後頭部をさすりながら、柚子は一年生の教室がある四階へと階段を上っていった。気が滅入ったついでに、あの悪夢や全力疾走を思い出してしまった。今日は本当についていない。

 一年二組の教室までやってくると、柚子と沙也香はそれぞれ自分の席に荷物を置くために一旦離れた。まだ学校が始まったばかりで一度も席替えをしたことがないので、苗字が「あ」から始まる沙也香とは席が遠い。それでも、親友と同じクラスになることができたのはかなり幸運だったと言えるだろう。

 柚子の席は窓際の列の前から二番目にある。一つ前はクラスの委員長の席で、彼女は姿勢正しく席について本を読んでいた。柚子はドサッと椅子に座りこむと、鞄を机の脇のホックにかけ、深い息を吐きながら両手で頬杖をついた。すると、沙也香が柚子の席までやってきた。

「柚子、保健室行く?」

 沙也香の言葉に、柚子は「あー、行こうかな」と返しながら再び後頭部に手を当てた。そして、違和感を覚えて声を上げる。

「ん? あれ?」

「どうしたの?」

「……たんこぶなくなってる……」

「え、どういうこと?」

 柚子が呟くように言うと、沙也香は驚きの声を上げた。

「痛みは? 消えてる?」

「うん、もう痛くない」

「それはよかった……けど、もしかしてたんこぶも気のせいだったとか?」

「ええっ、そんなことないよ! さっき本当にあったもん」

 沙也香の言葉に柚子はそう言い返した。もう一度触ってみたが、やはりたんこぶはない。でも、さっき触った時は微かにこの辺りが膨らんでいたはずなのだ。

「まあ、痛みがおさまったならよかった」

「うん……そうだね……」

 柚子は、まだ後頭部を撫でながらどこか上の空で答えた。



 四時限目は体育だ。ジャージに着替えて髪をポニーテールにまとめた柚子は、列に並んで自分の番を待っていた。

 今日の授業は新学期恒例の体力テストだ。中学生の時にも同じことをした。生徒たちは、五十メートル走のタイムを測定するために男女別に分かれて出席番号順にコース付近に並んでいる。五十メートル走のタイムを計り終えた生徒から、別の項目のテストを受けることになっている。柚子は体を解しながら考えごとをしていた。

 走るのは好きだ。それに、タイムはできることなら自己ベストを出したい。是が非でも本気で走りたいところだったが、あることが頭に引っかかっていた。それは、朝の全力疾走だ。

 あの時は確かに沙也香を待たせないようにと全速力で走った。だが、現実的に考えれば間に合うはずなどなかったのだ。それに、まったく疲れなかったというのもおかしい。少なくとも三分は走り続けていたのだから。そう思ったところで柚子はまたおかしな点に気がついた。走っている間、減速した覚えもない。

「……」

 なんだか妙な胸騒ぎがしていた。自分は今本気で走ってはいけない気がしたのだ。刻一刻と自分の番が迫っている。どうするのか、ちゃんと決めないと。

「位置について」

 スタートの合図を担当している体育委員の声が響く。出番だ。柚子はクラウチングスタートの姿勢を取った。

「よーい」

 鋭く短いホイッスル音を聞いてから、柚子は飛び出した。

 いつもよりずっとゆっくりと、軽い動きで。

 ゴールした後、不完全燃焼でスッキリしないまま体育教師に記録を聞きに行くと、なんと七秒台のタイムを告げられて柚子は唖然とした。あれほど手を抜いたにも関わらず、自己ベストを叩き出してしまったのだ。

「藤原、速いな。陸上部入るか?」

 嬉しそうに言う教師に曖昧な笑みだけ返し、柚子は次の種目である立ち幅跳びの測定をしている列へと向かった。

 それからはもうおかしなことばかりだった。だいぶ力を抜いたはずの立ち幅跳びでも二メートル以上の記録を残し、ハンドボール投げでも一球目はコースを外れてどこかへと飛んでいって見えなくなり(消えたボールは放課後に運動場の隅で見つかったらしい)、挙句の果てに、なんと握力測定器を一つ壊してしまった。

「はあ……」

 深い溜息をついて机に突っ伏す。授業を終えて昼休みを迎えた時、柚子は精神的な意味ですっかり疲弊しきっていたが、体力は有り余っていた。一体この体はどうなってしまったというのだろう。まるで人間じゃないみたいだ。

「藤原さん、握力測定器握り潰したってマジ?」

 ふと声をかけられ、柚子は言い返しながら顔を上げた。

「んなわけ! あれはやる前から壊れかけてたんだよ」

 そういうことにしておく。

「あはは。まあそうだよねー」

 話しかけてきたのはクラスメイトの男子生徒だった。確か名前は光宗みつむね勝元かつもと。つり眉にたれ目。髪を明るく染めて、左耳にシルバーのピアスを一つつけている。女子生徒と仲良くなるのが上手いタイプの男子だ。

「藤原さん、強くて可愛くて最強じゃん」

 勝元が言う。柚子はニヤッと笑った。

「ありがと。確かに私は最強の存在だから仕方ないな……」

「俺藤原さんのそういうところ嫌いじゃないよ」

 澄まし顔で言う柚子に、勝元はにこやかな表情のままそう言った。それから、着崩した制服のポケットからスマートフォンを取り出す。

「藤原さん、よければLINE教えてくれる?」

 何でもないことのように連絡先を尋ねてくる。

「いいよー。……光宗くん、クラスの女子みんなに聞いてるよね」

「ほんとは藤原さんに一番に聞きたかったんだけどねー」

 ちょっと意地悪なことを言ってみたが、勝元は笑顔を崩すことなくそう返してきた。

「一番じゃなくて残念でした」

 からかうような口調でそう言って、スマートフォンを取り出そうとする。

「柚子ー、早く行かないと食堂埋まっちゃうよ」

 親友の声が聞こえてきて、柚子は「あっ」と声を上げた。沙也香がすぐ近くまで来て、勝元のことを疎ましげに見ている。柚子はスマートフォンをスカートのポケットの中に戻しながら、もう片方の手を顔の前に当てて勝元に向かって謝る仕草をした。

「ごめん、後ででいい?」

「いいよ。行ってらっしゃい」

 そう言って穏やかに手を振る勝元にもう一度「ごめんね」と告げる。沙也香はまだ嫌そうな顔をしていた。柚子は財布を持って席を立つと、沙也香の両肩に手を乗せて「ごめん、行こ行こ」と朗らかに声を上げた。



「あ!」

 帰り道、学校を出てしばらく歩いたところで柚子は大きな声を上げた。沙也香が驚いて肩を震わせる。

「どうしたの?」

「忘れてた」

「何を?」

 沙也香が深刻そうに尋ねる。

「光宗くんにLINE教えるの」

 柚子の答えを聞いた途端、沙也香は心底どうでもよさそうな表情に変わった。

「別に大丈夫だよ」

 沙也香はまったく興味のない様子でそれだけ返したかと思えば、そのまま黙りこんで立ち止まってしまった。何事かと沙也香の顔を覗きこむ。

「……どうかした?」

「スマホ置いてきた。最悪!」

「ええっ」

 顔をしかめて言う沙也香に、柚子も悲痛な声を上げた。

「取りに行ってくる。先に帰ってて」

「えー、待ってるよ」

 柚子はそう言ったが、沙也香は申し訳なさそうに首を横に振った。

「ここから学校に戻るのも時間かかるし、悪いからいいよ」

「んー……じゃあゆっくり歩いてるから会ったら一緒に帰ろ」

 柚子の言葉に、沙也香は笑った。

「分かった。ありがとう」

「ちゃんとあるといいね」

「うん、机の中に入れた記憶あるから多分大丈夫。じゃあまた明日ね」

「ゆっくり歩いてるから!」

 踵を返して学校へと戻っていく沙也香に笑いながら手を振って、柚子は自分のスマートフォンを取り出した。それから、LINEで沙也香にシマリスのキャラクターが喜んでいるスタンプを送り、スマートフォンを戻して再び歩き始める。

 猷秋高校の最寄り駅である新陽駅は、ここ新陽区で最も大きい駅だ。ここには四方通りと呼ばれる広く栄えた繁華街がある。新陽区で一番人が集まる場所だと言えるだろう。至るところでネオンやスクリーンの広告が光っているこの通りは、いつ見ても眩しいほどに明るい。

 四方通りでちょっと寄り道しようかな。そんなことを考えながら歩いていると、誰かに話しかけられた。

「すみません」

「はい?」

 声が聞こえてきた方を見る。そこには薄いグレーと茶色で統一された落ち着いた色合いの和服に身を包んだ三人の大人たちが立っていた。男性が二人、女性が一人だ。

「お待ちしておりました……!」

「……はい?」

 道でも聞かれるのかと思ったが、三人から予想外の言葉が返ってきたので、柚子はキョトンとしてそう返した。

「姫君がお力を解き放たれる……それは姫君、そして我らが白面金毛様の忠実なるしもべへの合図! ずっと……ずっとこの時をお待ちしておりました!」

 一人の男性が興奮気味に、しかし恭しく捲し立てる。訳が分からず呆然としていた柚子は、こう言うしかなかった。

「……ひ、人違いじゃないですか?」

「間違えようもございません!」

 女性が甲高い声で叫んだ。

「ああ……おいたわしや姫君。前世の記憶を失くされていると伺っていましたが、まさか本当だったとは。ご自分がどれほど尊い存在なのかを知らぬまま……今まで……」

 そう言うと、なんと女性は泣き始めた。柚子はギョッとして女性から一歩後退りした。何? 何これ? 危ない人……?

「偉大なる母君、白面金毛九尾の狐様のこともお忘れになっておられるのでしょう。おいたわしや……おいたわしや……ですがもうご心配はいりません。わたくしめたちの元へお戻りください。共に白面金毛様を蘇らせるのです!」

 もう一人の男性も声を震わせている。柚子は固まっていた。オカルト不審者? え、こういう時どうすればいいの? どうにか絞り出した声は、掠れていた。

「知らないです。人違いです」

 そう言って素早くその場を立ち去ろうとしたが、間に合わなかった。三人の老人が柚子の両腕を同時に掴んできたのだ。柚子は「ヒッ」と声を上げた。

「人違いなど! とんでもございません!」

「姫君、この時を……この時を皆が待ちわびておりました。また姫君にお会いする日を皆が夢に見ておりました……!」

「今こそ白面金毛様を甦らせる時です!」

 三人はほぼ絶叫していた。やがて、老人たちの顔つきが変わっていく。目は吸いこまれそうなほど真っ暗な丸に。鼻も丸くなり、黒く色づいた。耳も丸みを帯びた形に変わりながら頭の上まで伸びていく。肌は無数の茶色い毛でびっしりと覆われた。背丈は低くなり、いつの間にか着ていた着物も消え失せ、柚子の目の前には巨大ないたちが、そう、二本足で立ち、ものを言う鼬が三匹立っていた。

「きゃあああああ!」

 今度は柚子が叫ぶ番だった。化け物! 化け物だ! 柚子は弾かれたように走り出した。目の前の曲がり角で左に曲がったところで、柚子はその奇妙な光景に愕然として思わず立ち止まってしまった。

「なんで? なんで誰もいないの?」

 柚子は辺りを見渡した。普段はかなり人通りの多い路地のはずだが、今は人っ子一人いない。困惑して立ち尽くしていた柚子は、ハッとして後ろを振り向いた。化け物たちが全速力でこちらへやってきている。三匹のうち一匹の雄の鼬はどこか違う方向へ向かい、残りの二匹は柚子めがけて走っている。柚子は叫び声を上げて再び逃げ出した。

「姫君……姫君、どうかお待ちください! 私めたちの元へお戻りくださいませ! 白面金毛様を復活させるのです! 今こそ!」

 雄の鼬の声を無視して柚子は必死に考えた。逃げたってきっと無駄だ。助けを呼ばなきゃ。でも誰もいない。どうしよう? 警察を呼ぶ? でもそんな余裕もない! どうしよう、どうしよう! このままじゃ死ぬ、殺される!

 ――だったら、殺される前に殺せばいい。

 どうしてそんな考えに至ったのかは分からないが、柚子はそんなことを思いついた。その瞬間、自分が自分ではなくなったような、そんな気がした。

 柚子は急に立ち止まった。二匹の鼬も動きを止めて、息を殺して柚子を見つめている。柚子はゆらりと振り向いた。その姿は、明らかに人間ではなかった。

 風にそよぐ稲穂のように揺らめく金髪に、ぴんと伸びた獣のような耳、蝋人形のように青白い顔、光のない瞳。そして、何よりも目を引くのは、臀部から花のように大きく美しく生えた金色の九本の尾。

「ああ……お美しい……お美しい……! 姫君、お会いしとうございました! お会いしとうございました!」

 雌の鼬は感極まり、涙を流しながら絶叫していた。その姿はとても嬉しそうで、恍惚とした表情を浮かべている。

 しかし、柚子は何をするでもなくその場にガクンと膝をついた。耳は元の大きさになり、九本の尻尾も消え、髪の色も暗くなり、いつも通りの姿に戻っている。柚子は地面に手をついて喘いだ。

「はあ、はあ」

 息絶え絶えに今自分に起こったことを振り返る。一瞬記憶が飛んだと思えば、いきなりどっと疲労感が襲ってきた。立ち上がるのもままならない。何? 今、何が起こったの? 

 だが、考えている暇はなかった。いつの間にか鼬たちがすぐ近くまでやってきて、柚子を見て泣き叫んでいる。

「お力を解き放たれてまだ間もない故に、お身体への負担が大きいのでしょう……ですが、姫君ほどのお方ならすぐに慣れるはずです。どうか、どうかご心配なく……ああ……姫君……!」

 雌の鼬はそう言ってさめざめと泣いていたが、いきなり口を閉じた。耳をピクピクさせている。二匹とも、何かを感じ取ったのか石のように動かなくなり、しばらくある一点を見つめていたが、やがて血相を変えてその場から逃げ去ろうとした。その瞬間、乾いた銃声のような音が響いて雌の鼬がその場に倒れ、柚子は叫び声を上げた。

 だが、鼬は生きていた。立ち上がって再び走り出そうとする姿を見て、心配そうな様子で待っていた雄も駆け出した。雌の鼬の脇腹の辺りからは血が滴っているが、傷は治り始めている。柚子は目と口を大きく開けて呆然としていた。

 もう二発銃声が鳴る。雌の鼬は倒れて動かなくなった。雄の鼬はよろけている。脚に当たったらしい。ヨロヨロと立ち上がろうとしたところに、どこからともなく髪の短い女性が駆けつけてきた。女性が直接鼬に拳を打ちこむ。鼬は勢いよく吹っ飛び、建物の壁にぶつかってそのままぐったりと動かなくなった。違う方向へ向かった雄の鼬の姿は見えない。何が起こったのか、よく分からなかった。

「群治郎! 他に被害者はいないわ!」

 近づいて雄の鼬の様子を確かめた女性は男性の方に向かって声を張り上げた。女性は白衣びゃくえ馬乗袴うまのりばかまという和装姿という出立ちだ。袴は深い紅色と黒のグラデーションになっており、左脚の膝の下の辺りに桃の花らしき紋章がプリントされている。

「はいよ」

 柚子は群治郎と呼ばれた男性の方を見た。女性と同じ袴を着た黒髪の中年男性だ。先程の音は本当に銃声だったらしく、手に持っていた見た銃を、腰につけたホルスターに戻している。群治郎が、動けなくなっている柚子をちらりと見た。なんだかその目に咎められているような気がして、柚子は慌てて視線を逸らした。

 女性がこちらに近づいてきた。柚子に目線を合わせて屈みこみ、手を差し出す。

「お怪我はございませんか」

 女性が丁寧な口調で優しく言う。柚子が口を開こうとすると、「ないよ」と群治郎が勝手に代わりに答えた。女性が群治郎を睨みつける。

「あんたに聞いたんじゃないわよ」

「わーってるよそんなこと。でも俺、ヤバいもん見ちゃった」

 群治郎はそう言うと、柚子を見つめ、一言。

「君、妖怪でしょ?」

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