ステラノート

Fuji

プロローグ

Title: Stellanaut v1.00

Author: Null

Date: 2051-02-23 21:19:31




 Googolが買収された。


 時価総額1兆ドルを超える多国籍テック企業の一つであり、世界最大の検索エンジンを運営するGoogolを知らない人間はいないだろう。2026年、その巨大企業が突如として買収され、衝撃的なニュースは瞬く間に世界を駆け巡った。買収したのは、石油メジャー大手の米国総合エネルギー企業。宇宙開発の民間企業X-Spaceを傘下に収め、活動の場を大気圏外へと拡大させていたその矢先のことだった。


 こうして、エネルギー開発・宇宙開発・情報通信事業を一挙に担う、時価総額世界一の企業 “Gooplex”が誕生した。10のグーゴル乗を表す言葉、Googolplexに由来するその社名は、かつて世界を牽引していたGoogolを超える、という挑戦的な意思表示に他ならなかった。


 エネルギーと情報通信をめぐる技術開発競争が宇宙へと飛び出した21世紀中頃、物語はここから始まる。




『火災発生』『火災発生』『火災発生』

 警告音とともにコンピュータの合成音声が月面基地内部に鳴り響く。警告が鳴る直前の爆発音から、男は酸素タンクが吹き飛んだことを察した。反射的に、近くの壁に収納されている緊急用の宇宙服に手を伸ばす。そして、壁のアナログ計器でモジュール内の酸素濃度を確認する。幸い、減圧のスピードはまだ緩やかだった。


 男は素早く宇宙服を着ると、窓の外の巨大なクレーターをちらりと見た。太陽から届く光は、灰色の乾燥した地表を照らし、窪んだ地形にコントラストのはっきりした影を落としている。地表の明るさとは対照的に、クレーターの底は真っ暗な闇に包まれていた。


 遠くでまた衝撃音がした。男は急いで壁際の作業台に駆け寄った。


 部屋の壁に面した作業台には、アイボリーのブラウン管モニターとタワー型PCが3台並んでいる。そのPCケースの側面には、封が空いた食べかけの宇宙食とフォークがマジックテープで止められていた。台の上の残りのスペースには、書類のつまった分厚いファイルと文字や数式がびっしりと書き殴られたコピー用紙が乱雑に積み重ねられている。

 

 男は乱暴な手つきで、台の上に乗ったファイルとコピー用紙を払いのけた。音を立ててファイルと紙の束が床に散り、書類の山に隠れていたマウスとキーボードが姿を現した。


 男は、引き出しから記憶ドライブを取り出してPCに差し込むと、キーボードを叩いてコマンドを入力した。黒いCUI画面に、処理の進捗状況が表示される。プログレスバーが不規則な速さで右へ伸びていく。


 男の背後には、人の背丈の倍ほどの大きさがある実験装置が鎮座している。その実験装置は、天井から伸びた幾つもの角ばった金属の柱が、球の形をしたコアに向かって斜めに突き刺さる構造をしていた。そしてその構造を支えるようにして、あちこちに鉄骨の支えが張り巡らされている。装置の表面には、内部がむき出しになった航空機のエンジンのように、様々なパイプやバルブ、チューブ、センサー、ケーブルが取り付けられ、それらは複雑なシルエットを作り出していた。


 男は、実行した処理が終わったことを確認すると、記憶ドライブをPCから引き抜き、足早に部屋を後にした。


 分厚いドアを2枚くぐって通路へと出ると、男は左右を見回した。異常を知らせる回転灯と警告ランプが至る所で赤く光っている。そして、あちこちで壁面パネルの隙間から勢いよく白い煙が噴出している。特に通路の右奥は、ひどく煙が充満していて先が見渡せない。男はその煙の中を睨んだ。


 すると、その煙の中から宇宙服を着た2人組が現れた。それを見た男はすぐに体の向きを変え、反対方向に走った。


 片手に記憶ドライブを握りしめ、細長い通路を一直線に進む。息は荒くなり、汗が額を流れる。


 男は背後を振り返った。追いかけてくる2人の姿が見える。その片手には銃のようなものが握られていた。


 乾いた発砲音が数回聞こえた。背後から弾丸のようないくつもの光の筋が男の背中目がけて飛んでくる。その光は男の肩をかすめ、月面基地の室内パネルに当たった。アーク放電に似た青白い火花が勢いよく弾ける。同時に、天井に取り付けられた照明がチカチカと不規則に点滅し、壁に埋め込まれたモニターには砂嵐のようなノイズが走った。


 逃げる男は、十字に別れた通路を右へ曲がった。小さな重力を利用して、モジュール間の接続部にある段差をふわりと飛び越える。


 目的の部屋にたどり着いた男は、入り口のハッチを閉じると、管制卓のようなコンソールに記憶ドライブを接続した。何度も背後を振り返った後で、備え付けのキーボードを素早く叩いた。


『送信できません』『送信できません』『送信できません』

 画面には警告音とともに、エラーメッセージが表示された。


 男は唇を噛んで、コンソールに埋め込まれたブラウン管モニタに強く拳を叩きつけた。鈍い音とともにガラスにヒビが入る。呼吸は乱れ、暫くの間、肩で大きく息をした。そして、男は息を整えると、何かを思いついた様子でもう一度キーボードを操作し始めた。


  次の瞬間、男は全身に大きな衝撃を感じた。一瞬、横の壁が粉々になって吹き飛ぶのが見えたかと思うと、視界が真っ暗になった。



 

 有楽町の街頭テレビ前では多くの人々が足を止めていた。テレビを囲むようにして人集りが出来ている。その視線は画面のアナウンサーに注がれていた。


『たった今入ってきた情報です。国際宇宙機関ISAの発表によりますと、月面の宇宙基地で大規模な爆発が発生したとのことです。繰り返します、月面基地で大規模な爆発が発生しました。行方不明者は1名で、長期滞在をしていたフラックス博士との交信が途絶えているとのことです』


『磁気嵐が月面を襲っているため、すぐの救助は困難との情報もあり……』


『刻一刻と72時間の壁が迫っています……』


『博士は「21世紀のアインシュタイン」とも呼ばれる物理学者でありその功績は……』


『事故原因は酸素タンクの爆発によるものだという見方が……』


『筑波宇宙センターからお伝えします。事故から3日目の朝を迎え、正門前には多数の報道陣が……』


『爆発事故から7日が経過しました。行方不明になっている飛行士の生存は絶望的と……』


 時が経つにつれて、街頭テレビに足を止める人々は疎らになり、月面基地の事故はニュースでも扱われなくなった。

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