ガラス片

松風 陽氷

ガラス片

 母はずっと、燻ったみたいな灰色をしている。


「何で、あなたっていっつもそう、言うことを聞かないわね。あぁ、お母さんが嫌いなのね。貴方はお父さんとそっくりだものね」

 これが母の口癖だった。そう言って、決まって母は僕を敵視した。嘲り笑うように冷笑を浴びせた。僕はそんな母を愛そうとしたし、そんな母に愛されようともした。沢山努力をした。でも、何をしても、この一言で終わる。どれだけ頑張ったところでこの人から見た僕は敵でしかなくて、僕らの間に愛など生まれる筈もなくて、つまりは、為す術など無いんだ。僕は、無力だ。


 僕は過去、確実に母に愛されていた筈なんだ。温かい両腕で抱き締められて、おしめを替えられて、手を引かれて、七五三には写真館へ行って、一等賞状は額縁に入れられ、クラブ道具を揃えて貰い、塾にも通うことが出来て。そしてその恵みに報いるようにと、子供なりに努力をした。その頃は僕が努力すればする程母も喜び笑顔に満ち溢れ、食卓には三度温かい飯が出された。母は言った。

「綺麗なブロンド。貴方はとても良くお父さんに似ているわね。パッチリな青い目に通った鼻筋なんか、そっくりよ。性格も、そうね、熱中し過ぎる所、お母さんに優しくしてくれる所、嘘を吐く時に右頬を掻く癖、みんな一緒」

 こう言う時、母はとても幸せそうだった。「貴方は私の宝物」、この言葉はわざわざ言わなくても仕草で伝えることが出来るのだ。母は、仕事でほとんど家を空ける父を寂しがる様に、僕の髪を撫でた。父は厳格な人だった。偶に家に居てもほとんど笑わなかった。いつも新聞か難しい本を読み、母が淹れたコーヒーを飲んでいた。父の書斎は暗くて重くて緊張する匂いがしたが、何故だかどこか安心した。壁一杯の本はどれも難しそうだったけれども、好奇心から沢山手に取って読んだ。外人と呼ばれて虐められた頃、父の本は僕の友達だった。勿論勝手に本を読んでいるなんて内緒だったから、読み終わった後に寸分違わずきちんと直した。バレたら父に怒られると思ってビクビクしていた。置いてあった本は何故か僕の興味の湧く分野ばかりだった。人体の作りや脳の働き、人間の心理や宗教について。一列小説の棚があった。太宰治がやけに多かった。僕は小学六年生にして太宰治が好きになった。僕と父は趣味さえとても似ていた。母は笑っていた。父の本を黙々と読む僕を見て愛おしそうに笑っていた。恵まれていて幸せな家庭だった。


 それが崩れ始めたのは、僕が丁度中学生になった頃、父の浮気が発覚した時である。

 厳格な父が、十七の少女と浮気をしていた。世間的に大事になった訳では無いが、家庭内では富士山の噴火なんかよりもずっと大事になった。父は家に帰って来なくなった。母は嘆き、悲しみに暮れ、発狂した。「裏切り者」「信じてたのに」「最低なゲス野郎」。そう言ってガラスの写真立てを壁に投げつけ、ヒステリックに泣き喚いた。そんな言葉を母の口から聞きたくはなかった。信じてきた優しい母が実はただの一人の女だということがありありと見せ付けられて、ショックを受けた。頗る醜い女だ。裏切られた気分だった。その頃はショック過ぎて自分から流れる涙の感情が分からなかった。今なら分かる。あれは、何処までも深い悲しみだった。

 母はそれだけに留まらず、僕の顔を見る度に僕を否定する言葉を浴びせる様になった。僕と目が合うと忌々しそうに顔を顰めて「気持ち悪い目の色」と言った。僕は俯かなくてはならなくなった。勿論朝食は出されなくなった。仕方なく食パンを一枚引っ張り出しては何も付けずに食べた。いや、食べたと言うより噛んで飲み込む単純作業により栄養を補給していたの方が表現的に自然な様な気もする。三食の温かい飯の代わりに毎朝千円が食卓に置かれた。昼食と夕食のお金である。千円札はとても冷たかった。でも、母が僕に渡してくれる唯一の物だったから、僕はそれを愛と呼んだ。一日に千円の愛が支給される生活。僕は千円じゃない愛が欲しかった。母に頭を撫でて欲しいと、望んでしまった。それから僕は、今まで沢山の本で得てきた知識を活用して、母からの愛を諦めまいと躍起になった。汗水流して必死になったお道化のサーヴィスである。母と繋がっていたいが為、母に対する僕からの最後の求愛である。

 自分の子供に価値があると誇らしく思えるだろう、そう考えて苦手な勉強を頑張り、通知表はオール五点の満点にした。

「貴方みたいな子に友達は出来ないものね、今の貴方じゃ駄目。変わりなさい」と言われたので、効率良く友人を作る為に書斎で心理を学び直し、周囲の人に望む言葉を掛け、学校という社会で優しくてユーモラスで俗に言う良い人を演じた。友人はすっかり簡単に出来た。母以外の人間を攻略することは造作もないと感じられた。日常から寂しさを抱える人間は殊更に簡単過ぎてこちらの方が呆気に取られたこともある。友人らなんかに興味は湧かなかった。だから興味関心を持っている振りをした。

 母に楽しい話題を提供しようと試みたりもした。母は最後に決まって「で、だから?」と言った。そして、僕に言うのである。

「本当に、あの人にそっくり。あぁ、嫌々。腹が立つわ。いい? 貴方は駄目なの。あの人と揃いのその青い目も、派手な金髪も、そうね、難しい本ばかり読んでるから貴方は駄目なのよ。分かった? 変わろうという努力をしなさい」

 僕は駄目だから、変わらなくちゃいけないんだ。

 過去に一度だけ、駄目ってどういうこと? と、訊いたことがある。何が駄目なのか具体的に知りたかったのだ。

「そんなことも分からないの? 考えが足りないわね、だから駄目なのよ。もっと考えなさい。気が利かない子ね」

 この時、不用意な質問はするべきではないと学んだ。自分が余計に苦しむだけだと学んだ。

 今のままじゃ駄目な人間だから、変わろうとしなくちゃいけないんだ! 感じるな、考えろ!

 自室の壁にある額に入った賞状は埃を被って曇っていた。部屋の中よりも窓の外、夕暮れの空の方が明るかった。学校鞄から取り出した百点の再生紙、百人一首大会の一等賞状、小さなハートをあしらった薄ピンクの封筒。駄目な僕にはなんの価値も無かった。ずっと、もっと、頑張らなければ。満点をとって、友人を沢山作って、大好きな本は母に隠れて読んで、楽しい話題よりももっと何か……温かい飲み物を淹れようかな、甘いお菓子を添えたら大体の女性は喜ぶんじゃなかったろうか。


「最近寒くなってきたね。コーヒー、紅茶、ハーブティー、淹れましょうかどれが良いですか?」と訊くと、「は? 要らない」とだけ返ってきた。やはり僕は駄目な奴だ。親の御機嫌を損ねることしか出来ないなんて。不出来で、愚図で、駄目な奴なんだ。自室に入って次の作戦を練り始めた。どうしたらまた僕は愛されるだろうか。

「出来ない人は出来る人の何十倍何百倍何千倍、努力しなくちゃいけないのよ」

 母はことある事にそう言った。その言葉を聞く度に僕は死にたくなった。自分が明らかに「出来ない人」側として言葉を掛けられていて、そして、ずっとずっとずっとずっとずっとずっと、何もかもに於いて努力をしなくちゃいけないと言われている気がして、目の前が潰える心地になった。一生僕は「出来ない人」?


 そんな日々が高校に上がるまで続いた。入学して三ヶ月経った頃、廊下を歩いていた時にふと声を掛けられたのだ。僕はその時うっかり誰もいないと思っており多分酷い顔をしていたのだろう。一人の中年の女性から「今日の昼休み、保健室においで」と言われた。言う通りに保健室に行くと今朝会った女性がにこやかに出迎えてくれた。

「ご要件を伺ってもいいですか?」

女性と机を挟んで正面に座りながら訊ねた。彼女曰くこの学校のカウンセラーらしく、少し様子が気になったから声を掛けたのだと言った。カウンセラーは言った。

「学校、楽しい?」

僕は答える。

「はい、毎日楽しいです」

至って普通に、ナチュラルな笑顔で、少し思い出し笑いの様なことをしてみて、あたかも友人と心から仲良くしている風を装った。

「そっか……何か悩みとか、ない?」

「大丈夫です。何も無いですよ」

「うん、そっか。……ねぇ、今日って体育あったの?」

「……え?あ、はい……ありましたよ」

「やっぱり!お疲れ様やね」

「えっと……何で分かったんすか?」

「え、だって廊下ですれ違った時めっちゃ汗かいとったから。いやぁ、今日暑いのに、お疲れお疲れ!」

 その後は世間話をして終わった。帰り際に、毎週月曜日来れたらここにおいでねと言われた。僕には大した用事もなかったのでダラダラと通うことになった。十月に入った時、もうその頃にはかなりその場に慣れていて色々なことを喋っていた。本当は勉強がとても苦手なこと、人の顔と名前を覚えられないので人と関わるのが苦手なこと、他人に興味が持てないこと、哲学や心理学が好きなこと。自分の青い目と金髪が嫌いなこと。父親が浮気して別居していること。そして、母に千円分しか愛されていないこと。先生は何でも聞いてくれた。どんな話にも付いて来てくれた。

「何をしても、全部『駄目』なんです。……本当は、何となく薄々気がついているんです。こんなに努力したって、全く努力しなくたって、結局母は僕を愛しちゃくれないんだって。あの怨めしい父親の子供だから。母と違って、父に似て、青い目で金髪だから。でも、容姿以外の他の所でどうにか愛されるようにって、努力をやめられないんです、もう、やめられなくなってるんです。もし、努力しなくなっても変わらず同じ反応をされ続けたら、今までしてきた努力が全て水泡に帰すというか、全ては元より意味が無かった、無駄な努力だった、ってなっちゃうんです。それが、怖いんです。今までの死に物狂いのサーヴィスが全て無駄だと言われるのは、何よりも、死ぬことなんかよりもよっぽど怖いことなんです」

 開け放たれた窓から緩い風が流れ込んできた。外のサッカーの声がやけに響いて聞こえた。全てを聞いたカウンセラーは少し泣いていた。目頭を抑えるカウンセラーを見た時、羨ましいと思った。その豊かな心の動きが羨ましかった。窓の外の青空を見ても僕の心は動かなかった。僕の世界は全部灰色だった。人の話を聞いただけで泣けるその感受性が羨ましかった。僕にはもう、動かせる心が無いみたいだった。そうだ、僕はいつの日か心を捨てたんだった。傷付くだけの心なんて要らないって言って。だから、灰色なんだ。


「先生、一度捨てた心は、取り戻せますか?」

「……大丈夫よ。自分の好き嫌いに素直になれば、心はいつでも何度でも取り戻せるわ」


 放課後の帰り道、ハーブティーを買って帰った。昔まだ家が暖かかった頃、母が好きだと言っていた、カモミールティー。


「母さん、話したいことがあるんです。カモミールティー今淹れたの。飲まない……?」

「……貴方ってなんでそうひねくれてるのかしらね。嫌味なの? カモミールティーなんて。本当にあの人と一緒ね、嫌な子……」


 マグカップを差し出すペンだこだらけの汚い右手は震えていた。先の未来が破滅的であることはほぼ確定だった。破滅的、あぁ、僕はやっぱり父親似なのかもしれない。母さんを傷付けるばかりだ。


「……母さんは、どうしたら僕を愛してくれる……? 何を、どんな子供を、望んでいるの?」

「は? 何それ?」

「母さんは今の僕が嫌いでしょ? ……どんな子供になったら愛してくれる? 高学歴? 黒目と黒髪? 人望の厚い人?」

母は僕の目を見ることなく呟いた。

「何それ気持ち悪い。そんなこと望んでないのに。貴方ってほんっと考え方が異常ね。歪んでる。その考え方おかしいからちゃんと正しなさい」


望んでない。


 細くか弱い糸が音もせずにふっと切れた。その瞬間、僕の身体の中心から吐き気のように込み上がってくるものがあった。そうか、僕なんかに望むものなんて端から何も無かったのか。漆喰で塗り固めたみたいな顔がボロボロに剥がれ落ちて、もう自分がどんな表情をしているのかなんて分からなかった。頬に熱い涙が走る。


「母さんが……母さんが曲げたんだ。母さんが歪めたんだよ、僕を、折って捻ってバッキバキのぶらんぶらんにして、操り人形みたいにしたんだ! でもね、仕方なかったんだよね、ね、そうだよね、うん。母さんは僕を教育しなくちゃいけない立場の人間だったから、教育って正すことだから、正すってことは、自分の正しいと思うことを押し付けることだから、洗脳なんだから!」


 心が決壊してしまった。もう言葉を止めることなど出来なかった。母は驚いた顔をしてこちらを見た。久方ぶりに母の目を見た。僕と違って真っ黒い目。ずっと憧れた黒い目。その目は少し動揺しているみたいだった。


「仕方なかったんだよね、うん。母さんは母さんの正義の元に僕を正しく曲げただけ、なぁんにも悪いことなんかしちゃいないのさ。だから、だから……きっと僕は母さんを嫌いになり切れないのかも知れない。嫌いになり切れないから、どう接して良いのか分からないんだよね。母さんのことが憎めないんだよ。恨んでもない。只、遣る瀬無い。持て余している。どうして良いか分からないんだ。母さんは悪い人じゃない。単純に、母さんの正義と僕、反りが合わなかっただけなんだ……」


 全てを捲し立てるように言って、俯いた。あぁ、僕はもう死んでもいいや。もう何だか全部どうでも良くなっちゃった。初めて母を責める様なことを言った。言ってしまった。最低だ、自分。今までギリギリで頑張ってきたのに、もう過去の努力が灰になっていくみたいだ。死にたい。僕も灰になってしまいたい。多分、今なら何が起きてもショックを受けないだろう。もし今母が僕を打っても罵倒しても花瓶を投げても包丁を向けても、きっと僕は何も思わない。何も、思えない。生きながら、死んでいる。もう、今、この瞬間に、死んでしまったのだ。


「顔を上げなさい」


 はっきりとした声だった。親指で雑に涙を拭って顔を上げた。母は怒った顔をしていた。そして、数秒の沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。


「私、貴方を愛せないわ。どうしても愛せないの……ごめんなさい……」


 その瞬間、母が静かに泣いた。この涙は、僕の心をそっと掴んで優しく握り潰した。何で母さんが泣くんだ。どうして、そんな顔で泣くんですか。

視界が歪む。僕は涙が止まらなかった、とめどなく溢れて頭がグワングワンとした。全身が得体の知れない吐き気と浮遊感に襲われて、これが狂うと云うことなのかも知れないと思った。なるほど、この家にあるのは、このテーブルにあるのは、僕と彼女の間にあるのは、千円分の愛だけだと思っていたが、それさえも無かった。冷たい千円札は、愛じゃなかった。単なる義務だったんだ。もう僕らの間に愛など生まれる筈もなくて、つまりは、為す術など無かったんだ。

僕は、無力だ。


 僕は割れて落ちたガラス。それは床に散らばる。ガラスは鋭く皮膚を裂き、水の様に煌めき、赤が伝い垂れ落ち、空の様に拡がり、拡がり、青くなる、青くなる、青くなる。


 僕はずっと、忌々しい青色をしている。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ガラス片 松風 陽氷 @pessimist

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る