第10話 気づく気づかない

「その角を曲がって、その先のアパートの前で止めて下さい」

 母が言うと運転手は「はい」と答え、車をアパートの前まで運んだ。

「お子さん、大丈夫ですか? お手伝いしましょう」

「大丈夫です。平気ですから」

 使っていると松葉杖も慣れるものだと、コツを掴んだ私は運転手にそう告げるとタクシーを一人で降りた。アパートの階段も比較的上手く上れるようになっていた。

「大丈夫?」

 母が後ろから私の体を支えながら言った。


 部屋の鍵は閉まっている。弟を一人で残していくときはいつも外から鍵をかけて出かける。彼が一人で部屋を出て行かないためだ。父親のいない三人暮らしの苦肉の策であった

「ただいま」

 いつもどおり返事はないが弟は居るようだ。最近はまた寝ていることが多い。私は壁に手をつき身を支えながら、ゴタゴタと片付いていない部屋に入った。

「じゃあ私は、これから仕事に行くわ」

 母は着替えを始める。私はこのケガでしばらくは仕事を休まざるを得ない。また母に負担を掛けてしまう申し訳なさもあって「買い物しておこうか?」と聞くと、母は笑って「大丈夫よ。帰りに何か買ってくるから。あなたも休んでいなさい」と急いで出ていった。


「どうだった?」

 弟が私に尋ねる。

「大丈夫だって。期待はずれ?全然、心配ないよ」

「良かったね」

 弟は笑って答えた。

 私は、あと一週間の休みを貰うため職場に電話を掛け、畳の上に寝転んだ。足のケガぐらいで外出がこんなに疲れるものになるとは正直、思ってもみなかった。「真琴、疲れたよ」と弟に声を掛けるが、テレビの音にかき消されたようだ。返事はない。時間つぶしのようにいつもテレビはついている。一日を部屋で過ごす弟の生き延びるための作戦のようだ。


 彼は専門学校を出て就職したが一年もすると休みがちになった。私も母もその変調に気づきはしたが、体調が少しばかりすぐれないのだろうと軽く考えていた。ところが仕事に出かけたはずの弟が出社していないとの連絡が会社からあった。彼は「辞めたい」と言った。母はとにかく病院に行かせることを優先させ、病院に引っ張っていった。しばらくの入院治療の後、帰宅した弟は、公園の老木にロープを括り付けぶら下がって自殺を図ったが失敗し、また入院となった。その後は家で休んでいる。


 私はまたここ数日の出来事と私が私に確かにかわっているという違和感を抱きながら天井を眺めた。もしかしたら鏡やショーウィンドーに映る自分以外にも、他に何かかわっていることがあるかもしれない。ふとそんな気がして何かを探すように部屋の中、また自分の心の中を見据えていた。



(つづく)


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