第11話 異常なまでの偉大な正常
世界が消えたような不思議な気持ちだ。外の世界は勿論、いままで意識もせず暮らしていた私の中の世界までが曖昧模糊と薄れていくような気がする。私は誰だろう。何だろう。
弟は二週間に一度、精神科に通院している。本人は行きたがらないが、薬はどうしても必要になる。今日がその通院予定日だった。母は仕事で付き添えないので、松葉杖が要らなくなった私が付き添うことになった。彼には手帳がありバスが無料になるので二人でバスに乗り病院へ行く。私がかかっている整形外科もある同じ総合病院だ。
整形外科とはまた少し雰囲気の違う待合室で弟と二人で診察室に呼ばれるのを待った。他に人がいる場では、彼は滅多に話さない。黙って二人で座っていた。最近の総合病院の心療内科や精神科は形がオープンになっており、他科の待合室と何ら変わらないが、沈黙の多さがその雰囲気を変えているのか、外科なら怪我をした人が多く当然、それ独特の雰囲気を醸し出すのと同じことだろう。
「二八番の方、診察室三番にお入り下さい」
松葉杖は必要なくなったが立ち上がる際などには少しふらつくことがまだある。怪我人の私は、病人である弟に支えられるように立ち上がり診察室へと向った。
二人で診察室のイスに腰掛けると医師はパソコンに写し出されるカルテを眺めながら尋ねた。
「その後、ご気分はいかがですか?」
「落着いていると思います」
「お薬は、ここのところ変わっていませんが、眠くなったりすることは?」
「特にありません。よく効いているようです」
「それは良かった。ところで外出などは増えましたか?」
「それはまだ難しいですね。少し不安がありますから」
「そうでしょうね。でもゆっくり治していきましょう」
「はい」
と私は答えた。
「そこでですね、一度ご相談なのですが」
医師はここまでの私との遣り取りをカルテに打ち込みながら言う。
「少し入院して、環境を変えて休んでみたらと思います。精神科への通院も長いので。勿論、任意入院ですよ」
「環境を?」
私が言うと医師はすぐさま答えた。
「少しここで休みを取るだけです。公園の老木での事故のこともありますし」
私は弟の方をみた。弟はとても柔らかな笑顔で頷きながらい言った。
「そうさせてもらったら?」
やはり考えたが、仕事も休みを貰っていることでもあるし私は入院することにした。
「では少し入院させて頂きます」
「待合室の方で、この書類を読み同意のサインをお願いします。ご本人だけでいいですよ。ご家族にはまた別の案内をお渡しします」
医師は弟に「入院の案内・ご家族様へ」と記されたパンフレットを渡した。私は入院者用の書類を三枚ほど受取り、診察室を出た。
しばらく待ってから別棟にある精神科入院病棟へと向った。看護師が歩きながら「北の三、305号室になります。一日のスケジュールなどは、また改めてお伝えします。ここに病棟には持って入れないものが書いてありますので確認して下さい」と紙を渡した。
「ほとんどですね」
私がそういうと看護師は少し厳しい眼差しで答えた。
「閉鎖病棟になりますので、どうしても」
病棟の三階でエレベーターを降りると二重の扉がある。インターホンを押して中から鍵を開けて貰い中に入る。先ずは金属探知機のようなもので全身をチェックされ、カバンからは刃の付いたものは勿論、タバコもライターも折りたたみ傘も取り上げられた。一つひとつに私の名前が記され、必要な時は申し出て許可をもらう。外出の際も許可が要る。
しかし病棟内は昔のイメージはまったくない。鉄格子があるわけでもない。ごく普通の他科の病棟と変わらないだろう。その中を私の病室である305号室へ向った。大部屋の四人部屋で窓際だ。窓は全面強化ガラスで外が見えるし光も入る。
弟は部屋まで付き添いしばらくいたが、
「じゃあ、また必要なものは、僕か母さんが持ってくるから。僕の整形外科の受診のときにでも持って来るよ。ゆっくりしてて」
というと二重の扉を抜け家に帰っていった。
(つづく)
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