第68話「王太子、キタヤマに行く:前篇」
大陸暦1099年5月15日。
私アヴァディーン・トーレスは日が傾き始めた午後五時頃、王宮を秘かに出た。目的はある料理店に行くことだ。
護衛として白騎士団の騎士一人と側近のアンドレアス・リストンのみで、王太子という身分の同行者としては考えられないほど少ない。
私を含め、三人とも下級貴族の子息と護衛という風体に変装し、貴族街を自らの足で歩いていく。
貴族街では家路に向かうゴーレム馬車と何度もすれ違っているが、私たちのように歩いている者は少ない。
それでも徒歩の者も何人かはおり、私の正体がばれるのではないかというスリルを味わいながら俯き加減で先を急ぐ。
アンドレアスは私より2歳年下の22歳だが、思慮深い性格で今回の企てに最後まで反対していた。
出発の直前になってもまだ翻意を促してきた。
「如何に安全な王都とは言え、王太子殿下がお忍びで出歩くのはいかがなものかと」
「市井の暮らしを見ておくことはよいことだと言っておったではないか。今回は貴族もよく利用する店だ。それに秘かに護衛を手配しているのだろう?」
アンドレアスならこの話をした後に手配しているだろうと鎌をかけてみたのだ。彼の顔が僅かに歪み、私の予想が正しかったことが分かった。
「未だに目的が分かりません。キタヤマの料理なら王宮でも食べられると思うのですが」
「お爺様の話では王宮より店の方が美味であるそうだ。それにいろいろと面白いことがあるらしい」
祖父、すなわち、先代のトーレス王ヘンリーは父ジェームズに王位を譲った後、ブルートン郊外の離宮で悠々自適の隠居生活を送っている。
もうそろそろ70歳になろうという年齢だが、美食と美酒を楽しむ姿勢は以前と変わらず、キタヤマの店にも年に数回行っている。その話を祖父から何度も聞かされており、以前から興味があった。
但し、それまではそれほど強い興味ではなかった。正直な話、祖父や父はキタヤマの料理を絶賛しているが、私にはあっさりしすぎて少し物足りない。
しかし、王家に寄贈された“ジン・キタヤマの和食大全”を読んでから、興味が強く湧いた。
本の内容や料理の話、更には美食の楽園ニホンのことなど、キタヤマが父に招かれて王宮を訪れた際にいろいろ聞いているが、実際に店ではどうしているのか見てみたい。
今回、アンドレアスの名で予約を取っている。この店では伯爵以上は個室を使うのが普通らしいが、あえて“カウンター席”で頼んであった。カウンター席というのは料理人の前に座る席ということで、キタヤマが王宮で寿司を握る時と同じスタイルだそうだ。
貴族街の端に目的の店はあった。
外観は特に変わったところはないが、入口の上にある看板には複雑な模様に似た、異世界の文字が書かれている。
入口も他の店とは違い、紺色の小さなカーテンのようなものが掛けられていた。
そのカーテンをくぐり中に入ると、外の雰囲気とは全く違っていた。
「このような作りになっていたのか」と思わず呟く。
無垢の木が多く使われ、壁の質感も石とは微妙に違う。また、花が活けてあるが、宮殿のような花を主としたものではなく、木の枝や草なども活けてあり、小さな庭園のような印象を受ける独特のものだ。
入った瞬間に感じる香りも複雑で、甘いような香ばしいような言葉に表せない香りがあった。
「いらっしゃいませ」と母と同世代、40代後半くらいの落ち着いた感じの女性店員が笑顔で声を掛けてきた。着ている服はニホンの民族衣装らしい細めのワンピース風のもので、腰の太い帯が特徴的だ。
「予約しているリストンだが」とアンドレアスが言うと、「お待ちしておりました。こちらにどうぞ」と言って、案内を始める。
木目が美しい木の板の長テーブルの席にアンドレアスと並んで座る。既に8人掛けの席の半数は埋まっており、繁盛店であることが分かる。
護衛の騎士は入口近くで待機するが、他にも貴族の従者がいるため、それほど違和感はない。
カウンターの向こうにキタヤマがいた。横には20歳くらいの若い料理人が付き従っている。
初老という年齢だが、動きは機敏で他の客と話しながら料理を作っていた。まだ、私には気づいていないようだ。
「おしぼりをどうぞ」と先ほどの女性店員が熱々の手拭いを渡してきた。
それを受け取ると、「お飲み物は何になされますか?」と聞いてくる。
「何がよいのだろうか? この店に初めてきたのでよく分からないのだが」
「では、一杯目はよく冷えたビールでいかがでしょうか? 今日は少し暑かったですから」
「それで頼む」というと、すぐに下がっていった。
「料理はどう頼むのだ?」と小声でアンドレアスに聞く。
「私が調べたところでは一杯目の飲み物の後に注文することが多いようです。一度に頼んでもよいですし、少しずつ頼んでもよいというのがこの店の流儀だと聞きました」
「何を頼んでいいのか分からぬのだが」と聞くと、
「殿下……アヴァディーン様は食べ慣れておられるのではありませんか?」と逆に聞かれてしまう。
「いつも決まったものを出してもらう。まあ、父上がいろいろと事前に頼んでいるようだが」
王宮では“カイセキ”なるスタイルの料理で出されることが多い。カイセキは一種のコース料理だし、当然のことだが王宮で注文することはないのでどうしていいのか困る。
そんな話をしていると、女性店員が戻ってきた。
霜が付くほどよく冷やされたグラスに入れられたビールと共に、小魚の料理が出てきた。更に箸とナイフフォークが置かれる。
「お待たせいたしました。地元のラガービールでございます。突き出しにマスの幼魚の南蛮漬けをお持ちしました」
「料理はまだ頼んでいないのだが」と思わず、言ってしまった。
「突き出しはサービスでございます」とにこやかな笑顔で返される。
まずグラスを取り、アンドレアスと乾杯した後、口を付ける。
見た目通りよく冷えており、爽やかなホップの香りと仄かな苦みが舌を刺激する炭酸と共に喉に流れていく。
王宮で飲むビールに匹敵すると秘かに感嘆する。
箸を手に取り、南蛮漬けを口に運ぶ。ちなみに箸は幼少の頃より使っているので、問題なく使える。
マスの幼魚は体長10センチほどで薄く衣をつけて揚げられていた。それと共に玉ねぎやピーマンなどのスライスされた野菜が独特の酸味のあるソースに浸されている。
南蛮漬けはキタヤマが時々出すので知っている。子供の頃はそれほど好物ではなかったが、酒を飲むようになってから好むようになったものだ。
「お料理は何にいたしましょうか?」と聞いてきた。
「何を頼んでいいのか分からないのだが」とアンドレアスが言うと、
「店主のお任せコースにいたしましょうか? それともメニューを見て選ばれますか?」
「アヴァディーン様、どうされますか?」とアンドレアスが聞いてきた。
何にしていいのか分からないが、せっかくなのでメニューを見て決めることにした。
「メニューを見て決めたいのだが」
「では、お手元にある冊子か、あの黒板に書かれている物からお選びください」
そう言ってカウンターの奥を示した。
そこには“サシミ盛り合わせ”や“カレイの煮付け”などと10数種類の料理の名が書かれている。
カウンターに立てかけてあった冊子を開くが、料理名がずらりと並んでおり決められない。
「お酒は何を飲まれますか?
「では、それをもらおう。それとサシミも頼みたい」
サシミは私の好物だ。
祖父や父は初めて生魚を食べる時に躊躇したと言っていたが、私は幼少の頃から食べているため、そう言った印象はない。
「では、白子の旨煮と刺身の盛り合わせを二人前ご用意いたします。お酒はいかがいたしましょうか? メニューに書いていないものもございますので、店主が合うものを選ぶこともできますが」
「店主に選んでもらおうか。その方が確実であろうしな」
「承りました」と言って下がっていく。
厨房の中からキタヤマにメモが渡される。そして、それを見た後、私の席の前に向かってきた。
「本日はようこそ……」と言ったところで、キタヤマの言葉が止まる。近くに来て私の正体に気づいたようだ。
そして、小声で「殿下……お忍びでございますか」と困惑の表情で言ってきた。
「うむ。今日はただのアヴァディーンだ。他の客と同じように対応を頼む」
「は、はい。承りました」というと、「マシュー、フェニックスバイデンのノウチニシキを頼む」と若い料理人に指示を出した。
すぐに先ほどの女性店員が現れた。彼女は常連から“
その女将が私たちの前に四角い木の箱に入ったグラスを置く。
「バイデン地区のフェニックスバイデンの純米吟醸でございます。米はノウチニシキ100パーセントです」
キタヤマが説明している間に酒が注がれていくが、最後はグラスから少し零していた。
「零れた分はサービスです」
そう言われて周りを見ると、他の客が四角い箱からグラスに酒を移し替えていた。
「なるほど。こういったサービスもあるのか」と感心し、慎重にグラスに口を付ける。
「おっ!」と思わず声が出た。
フェニックスバイデンは王宮でも飲むが、いつもと印象が全く違ったためだ。
私の表情の変化にキタヤマが気づき、笑顔で話しかけてきた。
「本日届いたばかりのもので、まだ陛下も飲んでおられない酒です」
王立ブルートン醸造所でできた酒はいち早く王宮に届けられるが、その前にキタヤマが確認していると聞いていた。恐らく、次の王宮での食事の際に出すつもりだったのだろう。
「今までのフェニックスバイデンよりコクがある感じだが」
私の感想にキタヤマは満足げに小さく頷き、「今までのものより米の味を引き出すように作ったものと聞いております」と答えた。
そこに小鉢に入った白子の旨煮が届く。
「その酒に合うと思いますよ。もちろん、次の刺身にも」
キタヤマの言葉の通り、白子の旨煮を口にした後、サケを飲むと、コメの香りが一気に広がった。
「確かに食事に合う感じだな」
私の言葉にアンドレアスが「これはいいですね」と頷いている。
白子を食べ終えたタイミングでサシミが出てきた。
「本日の盛り合わせは
魚の切り身が美しく盛り付けられている。
いずれも私の好物で、そのことを思い出し、選んでくれたのだろう。
サシミを食べ終えたところで、ようやく落ち着いた。初めて身分を隠して町に出たことで緊張していたようだ。
落ち着いたところでメニューを見る。
「テンプラもあるのか……」
テンプラも私の好物の一つだ。特に魚介系のテンプラには目がない。
私の呟きが聞こえたのか、「テンプラを頼みますか?」とアンドレアスが聞いてきた。
「いや、今日は普段食べないものにしたい」と答えた後、“揚げ物”の欄に書かれている料理を頼むため、女将を呼ぶ。
「このアジの骨センベイなるものを頼みたいが、どのようなものなのだろうか?」
アジの骨を使ったことは分かるが、センベイという料理は今まで食べたことがなかった。
「お刺身を作った残りの中骨を油でじっくり揚げたものです。香ばしくてお酒によく合いますよ」
「なるほど。では、それを頼む」
女将が下がっていき、キタヤマに料理を伝える。
キタヤマは少し驚いた表情を見せたが、すぐに頷き、女将に何か指示を与えていた。
戻ってきた女将が「お酒はブルートンホマレの燗酒が合うと店主が申しておりますが、いかがされますか?」と聞いてきた。
ブルートンホマレは縁起が良い名前ということで王宮でもよく飲む酒だ。
「ブルートンホマレはジュンマイだろうか?」と聞くと、
「はい。純米の一回火入れのものをご用意する予定です」と笑顔で即答する。
「では、ヌルカンで頼む」
「ぬる燗ですね。少々お待ちください」と言って、下がっていった。
カンザケは王宮でもよく出されるが、アツカンよりヌルカンが好みだ。
しばらく待っていると、真っ白な細長い壺のような形の“トックリ”が出てきた。更に小型の器である“グイノミ”が二つ置かれる。
「当店では基本的に手酌なのですが、一杯目だけはお注ぎいたしますね」
そう言って女将が慣れた手つきで酒を注ぐ。
仄かに温かい酒を口に含むと、コメの香りとアルコール、更に酸味を感じた。
そこにキタヤマが料理を持って現れた。
「お待たせしました。アジの骨せんべいでございます。よく揚げてありますので、太い骨もすべて食べられます」
そう言った後、苦笑しながら「このようなものを頼まれるとは思いませんでした」と言って、離れていった。
皿を見ると確かに王族が食べるようなものではないことが分かる。
魚の骨の形そのままで、王族どころか平民でも食べないのではないかと思った。横にいるアンドレアスが「これを食べるのですか」と思わず言ってきたほどだ。
箸で掴むとカリカリに揚がっていることが分かる。それを勇気を出して口に運んだ。
細い骨の部分はサクッとした歯触りで、僅かに粉がはたいてあるのか、香ばしさがあり、適度に振られた塩が食欲をそそる。
更に太い骨を恐る恐る噛んでみた。予想通り少し硬かったが、気になるほどではない。ガリガリという感じで食べ進むと、思った以上に旨みがあり、そこにヌルカンを加えると、得も言われぬ美味さに変わった。
「これは美味い! 確かにサケのつまみだ」
「本当に美味しいですね。それに癖になる味です」
アンドレアスも気に入ったようで、二人であっという間に食べ切ってしまった。
酒も入ったこともあり、こんな感じの王宮で食べることがない物を探すのも面白いと思って探していく。
しかし、名前だけでは想像が付かず、女将を呼んだ。
「先ほどのホネセンベイのような変わったものはないだろうか」
「変わったものですか? 店主に確認して参ります」
そう言ってキタヤマのところに行った。
キタヤマは再び驚きの表情を見せるが、すぐに小さく頷き、私のところにやってきた。その顔には僅かに苦笑いが浮かんでいる気がした。
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