夜明けが終わる音

青夜 明

桃彗編(とうすいへん)

忘れられない桜の日

 真っ赤な桜の日の約束を、覚えているだろうか。


『ずっと、ずっと、離れません──』




 夜明けだ。

 目を覚ました石黒斜夏いしぐろはすかは、体を起こして窓を見上げた。夢を見ていた気がするが、何だったか。

 隣に視線を移すと、何故か妹の仄華ほのかが隣に寝ていた。


(これ、起こしたら殴ってくれるかな)


 邪な考えが過ったが、無かったことにする。

 仄華は昔から斜夏を反射的に殴ることがあった。彼女は怪力持ちで、手加減はしているようだが、それでも痛い。

 斜夏は段々とそれに慣れてきてしまい、仄華が可愛いから良いかな、と思うようになってきてしまった。むしろ、もっとやってほしい。

 斜夏は女の子に甘く、妹からすれ違った相手にまで口説くものだから、それが原因で殴られたことも何度もある。


(寝直すか)


 少し狭いシングルベッドに体を預けると、薄桃色の桜が窓から小さく見えた。


(春の時期か……)


 ゆっくり瞼を下ろし、夢の中に落ちていく。

 視界の端に桜の光景が残っていたが、何故か赤い気がした。

 いや、あれは──


 斜夏が正体に気付く前に、それは夢の一部に溶け込み、次に目を覚ました時にはまたしても忘れていた。



 ● ● ●



 斜夏が生まれたのは、後一週間も立たない内に秋の月へと入る、直夏の終わりが近い日の夜だ。母親は夏と秋の境目に斜線を引き、そこから夏寄りという意味を込めて名を付けたらしい。

 今はようやく冬が終わった頃で、猛暑日和の夏はまだまだ先だ。斜夏は名を呼ばれた気がしたが、寒さに耐えきれず布団の中に潜り込む。


「おにいちゃん、……おにいちゃんってば」


「んー……後五分……ぐはあ!」


 斜夏を起こそうと声をかけていた仄華が、容赦なく握り拳を振り落とした。


「いててて……相変わらず乱暴だね。そんな所も可愛いよ」


 体を起こした斜夏が笑いかけても、仄華はロングヘアーを柔らかく揺らしてそっぽを向いてしまう。しかめっ面を崩さない所を見ると、自分が悪い事をしたとは思っていない様子だ。

 斜夏は少しだけにやけるのを堪えながら、拳が決まった場所をさすってベッドを降りる。


(収まれ、俺はマゾじゃない、そんなの変だ、落ち着こう)


 仄華は置き時計を指し、セーラー服のスカートをひるがえして出て行った。

 斜夏もまだ学生だ、学校に行かなければならない。


(卒業式の練習めんどくさいからさぼっちゃ……いや、無理でしょ)


 常習犯の斜夏は先生に目を付けられており、真面目な妹が見張り役を頼まれている。きっと今も部屋の外にいるのだろう。

斜夏が仄華の担任に頼まれていることもある。


『石黒さん、もう少し人と目を合わせられるようになったらと思います。ゆっくりでいいので……』


 以前仄華はストーカー被害に合い、以来人の視線に恐怖を抱くようになってしまった。自分が見ること自体は構わないようだが、兄である斜夏が見ることさえ嫌がってしまう。

 斜夏が着替えて仄華に笑いかけに行っても、目を合わせる前に逸らしてしまった。


(なんとかしてやりたいけどなあ)


 そう思いながら朝食を食べていると、スマホからアプリ通知音が聞こえてくる。見ると、連絡が一件届いていた。


 ──仕事の件について、ご採用となりました。詳細をお話したいので、一度事務所へお越し下さい。


 どうやら以前友達に教えてもらったアルバイトが、無事採用となったらしい。少し遠いが、合格した私立高校とは近いので問題ないだろう。

 何でも守護者の仕事ができるらしく、斜夏はいずれ妹の事が守れるようになれたらという動機から志願した。それと、金銭が欲しい。

 隣の仄華を見ると、小柄な体を震わせ、そっぽを向いてしまった。

 斜夏の一番大事なものは家族だ。いつまでもいっしょにいて、守っていけたらと願っていた。




「監視……?」


「スミマセン、守護の仕事今イッパイイッパイデス。空くまでそちらをお願いしてモ?」


「えー……まあ、良いよ。空くまでね」


 監視の仕事とは予想外だが、サボりやすそうだと思い、斜夏は頷く。目の前の片言外国人は面接も担当してくれた人で、ほっとしたように笑った。


「アリガトウゴザイマス! 仕事内容はデスネ、視察デス。守護も監視もアブナイアブナイ仕事デス。面接の時も言いましたが、ダイジョーブですか?」


「うん、大丈夫」


 斜夏は頷く。

 曰く、やや対立のある仕事らしい。コードネームが必要な程らしいが、給料は弾んでくれるからと斜夏は了承したのだ。巻き込まないようにと、念のため一人暮らしをことも視野に入れ始めているが、それでも、家族に仕送りができる程の余裕はある。

 引っ越しは卒業後で、両親には告げたが仄華には言えずにいた。あれでも、仄華は斜夏に懐いていて、昔からずっと一緒にいる。言えば、さみしがるだろう。

 斜夏は監視の仕事に就く契約をして、事務所を出る。スマートフォンを開くと、妹からどこにいるかと連絡が来ていた。


「心配性だなあ、えーと」


 近くの公園の名前を打ち、念のためにそちらへ歩き出す。視界に桃色がちらついて顔を上げると、桜が咲いていた。


「お兄ちゃん」


 声をかけられて振り返ると、うなだれた仄華が立っている。


「あれ、どうしてここに」


「……お兄ちゃん、家を出るって本当なのか?」


 斜夏が言葉をつまらせると、仄華は服の裾を恐々と握りながら続けた。


「本当、なんだ」


「あー、そのー、えーと、……うん」


 仄華は服を強く握り締めてから放し、泣きそうな顔を上げ、斜夏に近付いてくる。斜夏は殴られると思い、身構えた。

 しかし、強く、抱き締められる。


「好き」


 仄華が囁くように言ったので、聞き間違いかと斜夏は体勢を解く。

 その柔らかな唇が、斜夏のものと重ねられた。


「……え?」


「お兄ちゃん、付き合って」


 仄華を見ると、真剣な顔で斜夏を見ていた。

 斜夏の方が視線を逸らし、仄華を離してしまう。見なくても、妹が今傷ついた顔をしているのが容易に想像できた。

それでも、"妹"なのだ。


「ごめん、兄妹だから」


「そんなの……!」


「俺にとって大事な妹なんだよ。分かってくれ」


 視界の先で桜が咲いている。

 斜夏は、前にもこんなことがあったような気がして、馬鹿みたいになんだっけと思考をめぐらせたが、分からなかった。




 ● ● ●



 己も、彼女も、桜も、炎に包まれている。

 己は強く彼女を抱きしめ、囁いた。


『ずっと、ずっと、離れません。いつまでも一緒にいます』


 彼女は肩を震わせ、ただ泣きじゃくっている。


『約束します、来世も逢いましょう』


 迫り来る炎より桜を見上げて、己は彼女の名前を呼んだ──



 ● ● ●



 夢を見ていた気がするが、何だったか。

 斜夏はまだ眠たい目を擦り、スマートフォンを確認すると、連絡が一件来ていた。


 ──バーカー、仕事だ。


 要約すると、このような内容だ。

 馬鹿と仄華に何度も言われていたことを思い出して、コードネームは近いそれにした。

 鏡に向かうと、髪を桃色に染めた自分が映る。恋愛運がアップしてほしくて、このような暴挙に出た。耳元には仄華に空けてもらった、大きなピアスホールがある。

 告白されても、何ともなかったかのようにお互い接していた。斜夏は気遣ってのことだったが、仄華の真意は分からない。去り際に、たまには遊びに行くから、と言ったら涙目で何度も頷かれた。

 あれから二年経ったが、未だに監視の仕事をしている。部署移動は特別なことがない限りは認められないらしく、斜夏は諦めつつあった。むしろ、快感を覚えてしまう。

 斜夏がすっかりマゾヒストになってしまった事実は、また別の話である。


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