第18話 独白①(川内 千尋の場合)

 俺が小夜ちゃんと出会ったのは、小学校一年生の時。小夜ちゃんは、俺の斜め前の席で、いつも俯いていた。

 小夜ちゃんは昔、今では考えられない程、引っ込み思案な子だったのだ。皆が遊んでいる時も、一人で隅っこに居た。その横顔は、いつも楽しく無さそうで。


「あそぼーよ!」


 だから俺は、小夜ちゃんに声を掛けたのだ。別に、立派な志があった訳じゃない。俺は単に、彼女の笑顔が見てみたかったのだ。そういう意味では、俺はあの時、既に小夜ちゃんのことが好きだったのかも知れなかった。


「やだ……」


 最初は、小夜ちゃんは俺の誘いを尽く断った。


 しかし、それが逆に幼かった俺の心に火をつけたのである。その当時、クラスで人気者だった俺は、小夜ちゃんに断られたことでむっとして、何が何でも彼女と仲良くなってやると意地になったのだ。


 これは後で母さんから聞いた話だが、小夜ちゃんは幼稚園の頃から母親にべったりで、友達を作ろうとしなかったらしい。それに、自分から何かをしたいと言い出すことも無くて、小夜ちゃんママはかなり彼女を心配していたそうなのだ。


「あそぼう!」


 俺はそんな小夜ちゃんを、空気も読まず、何度断られようと誘い続けた。あの時の行動力を、今の俺に少しでも分けて欲しいくらいだ。

 あの頃の俺は、子供特有の全能感に浸り、自分ならばこの眼の前に居る悲しそうな顔をした可愛い女の子を救うことが出来ると思い込んでいたのである。


「……うん、いいよ」


 小夜ちゃんが俺と遊ぶようになったのは、それから数日後のことだった。その時、彼女の中でどんな心境の変化があったのかは見当もつかないが、とにかくそれが、俺と小夜ちゃんが友達になった瞬間だった。


 遂に友達になった俺たちは、とにかく毎日遊んだ。一人のことが多かった小夜ちゃんは、俺の知らないインドアな遊びをよく知っていたし、俺は反対に外でやる色々な遊びを知っていて、二人で居れば、いつまでも遊べてしまうのではないかという位に幸せな時間だった。


 俺と小夜ちゃんが仲良くなるのに、劇的な展開や感動的なシーンは必要なかった。窓を伝う二つの雨粒がぶつかるよりも自然に、俺たちは近付いていったのだ。


「おれ、さよちゃんのこと、すきだ」


「さよも、ちーくんのこと、すきだよ」


 そして小学二年生になる頃には、こんなことを平気で言い合える程に俺たちの距離は縮まっていた。お互いに、初恋だったと思う。あの幼い日々の全てを明確に覚えているわけではないけれど、あの頃の記憶の全てに、小夜ちゃんが居た。


 特に小夜ちゃんは他に友達が作れず、とにかく俺にべったりだった。そして、俺には小夜ちゃんの他にも沢山友達が居た。そう考えれば、俺と小夜ちゃんの現在の立ち位置は、あの頃とは真逆であると言えるかもしれない。


 そして、小学二年生の、夏。


 いつものように公園で遊んでいると小夜ちゃんが急に泣き出したのだ。

 それは、五時のチャイムが鳴る少し前のことだった。潰れた半熟たまごのような夕焼けの中で、小夜ちゃんはぽつりぽつりと泣いてしまった理由を語った。


「ひっこさなきゃいけないの」


 それは、親の仕事の事情で引っ越す、という、まぁ、言ってしまえばよくある話だった。子供にはどうしようもない話。避けられぬ運命のような、そういう話。


「……そうなんだ」


 俺はショックを受けつつも、どう反応をすれば良いのか分からなかった。幼すぎて、この悲しみやもどかしさを言葉にすることが出来なかったのだ。


「さよ、ひっこすのやだ。ちーくんがいなかったら、がっこう、たのしくないもん」


 小夜ちゃんはそう言って、また泣いた。

 俺と別れるのが悲しいというのも、勿論あるだろう。しかし、きっと、小夜ちゃんはそれ以上に、引っ越した先でのことが不安だったのだ。


 俺は、どうにかして彼女の不安を取り除いてやりたいと、そう思った。彼女が未来に期待できるような何かを、自分が考え出して、彼女に与えてやらねばならないという使命感に燃えた。


 そして、子供なりに考えた結論というのが「結婚の約束をする」といったものだったのだ。我ながら、どうしてそうなった、といった感じだったが、幼かった俺にとって「結婚」というのは、両親のようにずっと一緒に居ることを意味していた。


 結婚というのは「例え離れていても、一緒に居る」という意思表示だったのだ。


「さよちゃん、おれ、さっかーせんしゅになる!」


 そして、彼女が引っ越す当日。朝早くに小夜ちゃんを呼び出した俺は、彼女へ夢を打ち明けた。


 俺は父親がサッカーファンだったこともあって、小さい頃からサッカーが好きだったのだ。そして、俺がサッカー選手という夢を小夜ちゃんに宣言したのは「結婚をする以上は職についているべきだ」という子供の頃のぼんやりしたイメージがあったせいだった。


「うんっ。がんばって! ……さよは、あしたからは、おうえんできないけど」


 小夜ちゃんは涙を拭いすぎて赤くなってしまった目で、寂しそうにこちらを見た。


「おれが、サッカーせんしゅになったら、さ。ぜったい、むかえにいく! だから、さよちゃんも、がんばって、まっててほしいんだ。どこにいたって、いっしょだってしんじてほしい。そういうやくそくを、してほしいんだ」


「……うん」


 小夜ちゃんはこくりと頷いた。その瞳には、あれだけ流したはずの涙が、再び滲んでいた。


「さよちゃん、けっこんしよう」


 俺がそう言うと、小夜ちゃんは泣きながら笑った。


「うん、いーよ。さよ、ちーくんすき」


「てんこうしても、やくそく、まもってね」


「ぜったい、ぜったいぜったいぜったい。まもるよ」


「これ、けっこんゆびわ」


 そして俺は、指輪の形をしたシールをポケットから取り出す。それは、俺が前日に一人でスーパーに行って買ってきた安物だった。


「……しーる?」


 俺から受け取ったシールを、小夜ちゃんは目をまん丸にして観察する。


「ほんものは、おとなになったらあげるね。それまで、おそろいで、もってようよ」


 俺はもう片方のポケットから、色違いの指輪シールを取り出す。


「うんっ!」


 小夜ちゃんは左手の薬指をシールの穴に通し、本当に嬉しそうに笑った。それきり、俺と小夜ちゃんは、つい最近まで会うことはなかった。 


 あの頃、俺たちは互いに携帯などの連絡手段を持っていなかったし、恋人という関係がバレるのが恥ずかしくて(所構わずイチャイチャしていたので気付かれていたかも知れないが、そこは子供特有の思慮浅さである)両親に住所や連絡のとり方を聞くことを躊躇ったのだ。


 あの、二人で約束を交わした瞬間に、俺は、絶対にこの約束を守るんだと、心の中で、改めてそう誓った。

 そして、小夜ちゃんも、この時、俺と似たようなことを誓ったのだろう。俺と小夜ちゃんの違いは、その約束を実際に実行できたかどうか、その一点に尽きる。


 彼女は、出来た。俺は、出来なかった。


 小夜ちゃんにとって、あの約束は心の支えになったのだ。そして、俺には重荷となって重くのしかかった。

 このことについて、俺は何の申し開きも出来ない。

 俺が努力を放棄し、約束を反故にしたことは、紛れもない事実だ。

 そして、そんな男が小夜ちゃんの側に居てはいけないということも、また、確かなことである。


 きっと小夜ちゃんに好きになってもらう為に大切なのは、俺……というか「ちーくん」の代わりに彼女の心を支えるような存在になることだ。

 本人でさえ何年も抱えてきた想いに整理がついていないのだから、彼女の心の支えになるというのは並大抵のことではない。そう考えると、俺は非常に難しいことを赤坂に押し付けているのかも知れない。


 でも、俺がどんなに後悔しても、約束は消えないし、果たされることもない。それどころか、俺と出会ってしまったことで、幼い頃の良い思い出として小夜ちゃんの胸にしまい込まれることも無くなってしまった。

 小夜ちゃんは何も悪いことをしていないのにもかかわらず、あまりにも酷い仕打ちを受けたのだ。


 彼女は明るくなっていた。とても美人になっていた。彼女の見た目が良いのは、決して元あった素材の良さだけでは説明できない。俺はそうした美容関係に明るくないが、彼女はきっと見た目に関しても努力を続けてきたはずだ。


 その努力は、報われるべきだ。小夜ちゃんには、幸せになる権利がある。


 その幸せが一人で成り立つものだろうと、誰かと作るものだろうと俺は一向に構わないのだが「ちーくん」の喪失が彼女の幸せを阻害しているのは間違いない。


 だから、俺は赤坂に協力するのだ。

 彼が小夜ちゃんを「ちーくん」の呪縛から解き放つことに成功しますように。

 俺は本気で、そう願ってやまないのである。

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