梅雨の桜

@YomogiTena

ここにいる


日曜日だというのに、朝早くに目が覚めた。

半ば眠ったままの頭でぼんやりと起き上がると、ふと小さなゲージが目に留まった。

実は夢だったのではないかというにわかな期待が消え、一瞬で目が覚めた。

いくら耳を澄ましても、カサカサという心地よいおがくずの音が聞こえてこないことが現実を物語っている。

重い体をなんとか立たせて洗面所まで行くと、泣きはらしてすっかり腫れてしまった目がこちらを見つめていた。

生きとし生けるものには、必ず終わりがくる。それは当たり前のことだと分かってはいるが、実際に命の終わりを目の当たりにするのは辛いものである。

私は昨日、飼っていたハムスターを亡くした。

いつものようにトイレを掃除し、エサをあげて「おやすみ」と声をかけて眠りにつく。昨夜もそうなるはずだった。

昨日まで当たり前のように我が家にいた小さな命は、まるでろうそくの火が消えるように、静かにこの世を去ってしまった。

生き物を飼い始めようと思い立ったときから、必ずいつかは死が訪れることは覚悟していた、はずだった。


私は空っぽのゲージを見つめて考えた。

この子は、幸せだったのだろうか。


私はゲージの小窓から手を入れ、そっとおがくずに触れてみた。カサカサと音が聞こえると、ほのかに獣の臭いがした。

ーハム介ー

その懐かしい臭いは、私にハム介との思い出を蘇らせた。まだ体が小さく、トイレに入るのも一苦労だったハム介、大きくなって、キャベツをバリバリ食べていたハム介、顔の形が変わるほど餌を頬袋に詰めて、せっせと小屋に運んでいたハム介、外に出たくてゲージの金具をかじっていたハム介。どのハム介も本物で、昨日まで確かに存在していた命だ。

しかし、昨日の夕方、ゲージの端でうずくまり、冷たく硬くなっていたハム介もまた、本物のハム介に違いなかった。

目がじんわりと熱くなり、視界が潤んできた。

私は居てもたってもいられなくなり、部屋から逃げるように外へ出た。


梅雨のじめじめと湿った空気が肌にまとわりつき、今にも雨が降り出しそうだった。このところ毎日のようにこんな天気が続いている。

公園からは賑やかな子供の声が聞こえた。

いつもと変わらない町。それどころか、休日の町中はいつもより生き生きして見える。道ゆく人たちは華やかな服を着て、こんな天気でもたまの日曜日を楽しんでいるようだった。

道ゆく誰もがハム介が死んだことを知らない。それは当たり前のことなのに、なんだかとても寂しい気持ちになった。

ひとつの命が消えても世界は何一つ変わらない。命は儚く、とてもちっぽけだ。


パラパラと降り始めた雨を体で感じながら、ぼんやりと歩いた。どこへ行くつもりもないはずなのに、足は自然と桜並木へと向かっていた。


町から少し歩いた先にある桜並木は、この辺では少し名の知れた花見スポットだ。私がここに住むことを決めたのも、この桜の存在が大きい。

毎年春になると桜が満開に咲き誇り、休日には大勢の花見客で賑わっていた。

そんな場所に、葬ってあげたかった。


さすがにこんな梅雨の時期に桜の木を見に来る人はなく、辺りは朝の静けさに包まれていた。

ハム介が眠るのは川にまたがる小さな橋から二本目の木の下、私がよく花見をする場所だ。


昨日は暗くてよく見えなかったが、根元には、確かに一ヶ所だけ色の違う土が盛られ、掘りかえされた跡が残っていた。

私はしゃがみ込むと、静かに手を合わせた。

ーハム介、今までありがとうー

こうして目を閉じていると、雨の音だけが聞こえて、世界に私とハム介だけのような気がした。

長い合掌を終えると、しゃがんだまま桜の木を見上げた。低い姿勢から見る桜の木は花見の時よりもずっと大きく立派に見えた。

青々とした葉、たのもしく伸びる枝、雨で湿った赤土の匂い。ハム介の見ていた世界はこんなにも大きかったのだろうか。


不意に、視界の端で何かが動いた。目を凝らして見ると、桜の木の上の方に小さな鳥の巣があった。

巣の中では雛が黄色い口を大きく開けて親鳥に餌をせがんでいた。

雛がピーピーと鳴くたびに巣が少し揺れていて、壊れやしないかとソワソワしながら見ていると、餌を与え終わった親鳥が私の足元まで降りてきた。

親鳥は私を警戒する様子もなく、根元の土を時折つつきながら、餌を探していた。

こんなに間近で鳥を見るのは初めてで、少しドキドキして見つめていると、丁度ハム介を埋めた辺りの土からミミズが一匹、ニョロニョロと這い出てきた。それに気づいた親鳥は、素早くミミズを咥えると、巣へと飛び去っていった。間も無くして、雛鳥の騒がしい声が降ってきた。

なんだか、食物連鎖の縮図を見ているような気分だった。

親鳥は生きるために雛にミミズを与えた。そのミミズは土の中の栄養を取り込んで生きていた。ミミズが取り込んだ栄養の中にはバクテリアが分解したハム介の魂が含まれている。

儚くてちっぽけな命だと思っていたハム介の魂は、こうして誰かの生きる糧になって、これからも生かされていく。

私はハム介の墓にそっと手を当てた。

ーそうか、ハム介はいなくなったんじゃない。今もここにいるんだー

いつの間にか雨は止み、葉っぱの隙間から光がちらちらと差し込んでいた。

私は大きく息をはいてから、雨上がりの土の香りを体いっぱいに吸い込んだ。

ほのかに、懐かしい香りがしたような気がした。

「よし、帰るか」

数日ぶりに顔を出した太陽に目を細めながら、私たちはゆっくりと家に帰るのだった。


雨に濡れた桜の木が静かに風に揺れていた。

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