あの四つ辻を南へ下がって

烏丸千弦

納豆奇譚

 関西人は納豆を食べない、などと云われているのはよく知っているが、うちの母は京都生まれで京都育ち、成人してから大阪にいたりしたにも拘わらず、納豆が大好物だった。といっても母は夜中の仕事だったので朝食を食べるわけではなく、ふつうより早めに食べる夕食で、箸休めのような扱いで食べていた。鱧の照り焼きとなすの炊いたんと漬物を並べて、ちょっと寂しいなあと云ってもう一品、と納豆をだしてくるのだ。鉢に入れる前によーくかき混ぜてねばねばに糸を引かせたそれに九条葱の刻んだのをたっぷり乗せて、辛子はなしで粉鰹とお醤油をかけたのがでてくる。母はそれを、なすを食べ、ごはんを食べて、ちょっと一口という感じでちみちみと口に運んでいた。

 なすの炊いたんとか里芋といかの炊いたんみたいな煮物は、我が家では大きな鉢にどーんと盛って食卓の真ん中に置かれていた。それを菜箸もなしに自分の取り皿にとって食べるのだが、納豆があるとき、私は一人分ずつ盛られたおかず以外にはなにも食べられなかった。納豆が大嫌いだったのだ。

 それも納豆が食べられないだけじゃなく、納豆を食べている母が箸をつけたものが食べられない。臭いも嫌だったし、なによりもあの、煮物を経由しようがごはんを乗せたあとだろうがその痕跡が残っている、食事の最後までぬるぬるてらてらと光る〝納豆と接触した箸〟がだめだった。唐揚げや天ぷらを食べているときの油は平気だったので、やはり納豆がだめ、ということに尽きるだろう。そして、それをわかっているはずなのに私のことを「潔癖症」だとか「おとなになったらそんなん、なんも気にならんようになるねん」などと云ってまったく意に介さず、そやったらおかずに納豆だすときはお皿分けといてと云っても聞いてはくれず、当たり前のようにずるんずるんになった箸を大皿に突っ込む母が、私は苦手だった。


 私は子供の頃から口が達者で、わりと理屈っぽいほうだった。母と喧嘩をすると、私はよく「おかあちゃんのことは好きやねんけど、おかあちゃんの性格は嫌いやねん」と云ったものだ。母はそんなとき決まって、なに屁理屈ばっかりこねてるねん、としか云わず、私の云いたいことの真意を汲んだりはしてくれなかった。

 実際、私と母はなにもかもが正反対だった。たとえば春、桜の木を見る。私は、遠くから見ると綺麗やけど、あの場所には行きたぁないなあ、花びらの散ったあとて踏み躙られて汚いし、毛虫ぶら下がってきそうやし、と思ったままを云う。すると母は、遠くから見るんやったらテレビでええやん、やっぱし花見は人のぎょうさんおるとこで騒がな、などと宣うのだ。私は家に閉じこもっているのが好きなタイプ、母は社交的で家でじっとしていられないタイプだった。


 再、再、再婚で私を産んだ、ふつうよりもずっと歳の離れた母は、私が結婚して二人めの子供を産んだ頃、突然逝った。

 既に離れて暮らすようになってから何年も経っていた所為か、火葬場でこそ泣いたが、その後、あまり実感はわかなかった。同じ家に暮らしていたならば、ふとぽっかりと空いているいつも坐っていた座布団などを見て、ああ、もういないのだと感じたりするのだろうけれど。結婚してからは滅多に会うこともなく、電話ですらほとんど話すことがなかったので、いつまで経ってもアパートを訪ねればそこにいるのではないかという気がしていた。ひょっとしたら、今もかもしれない。


 そして、そんな頃。不思議なことが起こった。


 まだ小さかった息子が何故か納豆が大好物で、偶に買っていたのだが――ある日、なんでか無償に、食べたくなったのだ。納豆が。あれほど大嫌いだった、臭いさえもだめで、息子にだしてやるときも顔をしかめながら用意していた納豆をだ。なんでやろ、うち、どっかおかしなったんとちゃうやろかと思いながら、私は納豆をかき混ぜ、かつお節を揉んで細かくして入れ、醤油をかけた。葱は嫌いなので、省いた。そして、お昼ごはんのときに、私は納豆を食べた。

 ふつうに美味しく食べられた。

 なんやろ、おかあちゃん、納豆食べとうてうちに取り憑いたんやろか……などと思いつつ、私はぺろりと1パックぶんの納豆と、ごはんを食べた。食べ終わって、ぬるぬるになった箸でそのまま漬物もつまんだ。いややわあ、こういうことすんの嫌いやのに、と思いながら、気がつくと私は泣いていた。その涙にどういう意味があったのか、自分でもわからないけれど。


 あれから十何年も経った今でも、私は偶に納豆を食べている。納豆巻も食べるし、カレーにトッピングしたり、キムチ納豆炒飯もつくる。そしておかしなことに、あれほど納豆が好きだった息子は、大きくなるとまったく食べなくなった。食べ過ぎて飽きがきたのだろうかとも思ったが、そうではないらしい。嫌いになったのだ、昔の私と同じに。息子は、私が納豆を食べているときまって鼻をつまんでぱたぱたと手で煽ぐ動作をする。


 そして、私に向かってこう云うのだ――おかあさん、納豆食べるんやったらおかずの皿分けといて、と。

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