男と女

『男』と『彼女』は薄暗い部屋に居た。

 男は立っていて、彼女は倒れている。


 男は倒れた女性を見ながらこう考えていた。


 生まれついての性癖というものがある。いわゆるフェチ、というものだ。

 人は遅かれ早かれ、それを自覚し、どうにか自制しようとする。

 特異な例では、さらけ出す輩もいるが、たいていはそうでないだろう。

 そもそも性癖などというものには、あまり良い印象を受けないのだから、そうやって、隠して当たり前なのだ。


 自分の場合は特にそうだ。

 もし見つかれば社会的に抹殺され、今まで築き上げてきた信頼関係全てを失うことになるようなものだった。

 今まさにその欲求を満たすために、行動しているのだが、その様はとてもではないが他人には見せられない。

 

 男が目の前で倒れている女性を見る。

 おびえているのだろう。

 その目からは涙が流れ、体は小刻みに震えている。


 服装から察するにどうやら彼女はOL、それも新社会人くらいだろうか。

 顔にはまだあどけなさが残っていた。

 

「昔読んだ漫画で、女性が死ぬシーンがあった」

 おびえた瞳で見上げる彼女に、男が語り掛ける。

「別に大して役割のあるキャラでもなかった。ただの引き立て役の、エキストラ同然のキャラだった。けれど、漫画というものに往々にありがちなものとして、そんなただのエキストラでも可愛いし綺麗だった」

 

 何かの鳴き声が部屋に響き渡る。

 女性はそれにはっとして身を縮めた。


「恋人がいたらしく、傍にいた男性がそのキャラの名前を叫んでいた。どうやらデートの途中だったらしい。何の罪もなく、幸せな日常を送っていた彼女は、突如すべてを奪われたのだ。――遅れて主人公がやってきて、怒りをバネに戦っていた」

 鳴き声が、徐々に広がっていく。

 それらは部屋のいたる所から発せられる。


「引き立て役として殺された女性の事を思うと胸が締め付けられるようだったが――同じくらい、興奮したのをよく覚えている。……今だってそうだ」

 

 女性を見下ろす。

 その瞳は涙でぬれ、恐怖の色に染まっていた。

 どうして自分がこんな目に、という困惑もあるのだろう。

 

 彼女の事を思うと胸が締め付けられるが、それ以上にひどく興奮してしまうので、鳴き声の主たちに残酷な命令を出すことにした。


 甲高い悲鳴が耳に届く。

『何回』聞いても、これは良いものだ。


◆◆◆


「あんたさー『人形の神様』の話って知ってる?」


 いつかの冬休みの午前。

 霧元肇が家のリビングで、特に何をするでもなくぼんやりとテレビを見ていると、チラシらしいものを持った姉がやってきて、そう言ったのだ。

 ソファに座る自分の横に、姉はそのままドカッと座り込む。


「何それ」と自分。

「だーかーらー。人形の神様の話。なんでも願いを叶えてくれる、っていう」

「なにそれ。っていうか、なんで人形なの。ランプの魔人とかじゃなくて」

「知んないわよ。その辺は」

「でオレにそんな話して、なんなのさ。なんか願い事も叶えてくれるの」

「うーん。なんかさー、近所で展示会やるんだって、人形の」

 

 ほら、と姉が持っていたチラシを見せてくる。

 少し目を通すと、どうやらさっき姉が言っていた、人形の神様の話をテーマにした展示会を行うようだった。

 タイトルは……。


「ヒガン=ミナの現代人形展」

 と、つい見出しをそのまま読んでしまう。

「そそ。近くだし、行ってみない?」

 

 姉のこうした気まぐれはいつもの事だった。

 だから――、それも構わずいつも通りに付き合うことにしたのだ。



 姉が殺されたのは、その人形展に行った3か月後の事だった。

 近所の公園のトイレの個室に、姉は打ち捨てられていたらしい。


◆◆◆


 その冬の朝。

 一人の男が通勤時間帯の大通りで、自販機の前でかがみこんで、機械と地面の間に腕を突っ込んでいた。

 男は結城漣ゆうき れんといった。

 

 突っ込んだ腕の指先には、彼のスマホがあった。

 指先は触れるものの、掴んで引っ張りだすことは出来そうにない。


 結城は朝からわが身に降りかかった不幸に、そのままの姿勢でただ笑うしかできなかった。


 あらましはこうである。


 いつものように起床し、妻が用意した朝食を食べ、家を出て、出勤途中で会社からの連絡があってスマホを取り出し、用事が済んだところで仕舞おうとした時に、背後から学生にぶつかられ、スマホを落とし、拾おうとする前に、それを自分で蹴って――。


 見事、するりとスマホを自販機の下に滑り込ませてしまったのである。


 あまりにも綺麗な流れに、結城は思わず『トホホ』と古い笑いを上げるほかなかった。

 このままでは出社に送れるので会社に連絡をしたいだが、その連絡のためのスマホが手元にないのである。


「もしもし」

 どうしたものかと困り果てている所に、不意に声をかけられた。

 さすがに不審に思われたのだろうか。

 ぎくりとしながら、結城は腕を自販機の下から抜いて、声の主を見上げる。


 それは学生だった。

 

 小柄な体つきに、白い肌。

 左目はすっぽりと黒い髪に覆われていて、露になった右目は大きく愛らしいものだった。

 ともすれば少女と間違えそうな風体ではあったが、スカートではなく長ズボンを履いていたため、どうにか男子高校生であることが分かる。


 ふと風が吹き、彼の左目の髪が揺れる。

 その拍子に、その下に隠されていた火傷痕らしいものが見えたが、結城は極力それを見ないようにした。


「何かそこに落としちゃったんですか?」


 鈴を鳴らしたような声で彼が問う。

「あぁ。ちょっとスマホをね……。指は届くんだが、掴むことは出来なくて……」

「へぇ。ちょっと代わってください」


 と言って、今度は彼が自販機の前にしゃがみ込む。

 自分と同じように右腕を自販機の中に突っ込んでいく。


 自分よりも小柄な彼なら……とも思ったが、突っ込んでいるのが腕だけだったので、届いたとしても、やはり指先だけだろうと、結城は思っていた。


「確かに指先は届きますね」

「うーん、そうなんだよね」


「だったらいけますよ」


 不意に彼が良く分からない事を言った。

 しかし、次の瞬間には彼はすでに自販機の下から腕を引き抜いていて、立ち上がろうとしていた。


 引き抜く瞬間、彼の手の中には、やはりスマホは無かった。

 諦めたのだと思った。

 けれど、


「ほら、どうぞ」


 と、彼が左手を差し出した。

 そちらは突っ込んでいたのとは逆の手だ。

 しかし、そこには自分が入れてしまったスマホがあった。


「あ、ありがとう」


 ホッとするのと、一つ引っかかる所があったせいか、結城の返事はどこか空を切るようなものだった。


「それじゃ、オレ授業あるんで」

 彼がスタスタと歩き去ろうとする。

「ま、待ってくれ」

「? なんです……?」

「名前を。名前を教えてくれないだろうか。お礼をさせて欲しいんだ」


 彼はしばし逡巡するような表情をして――。

「肇。霧元肇っていいます」

 と返事をした。


◆◆◆


 暖房がよく効いた教室の扉を開けると、ほんの少しだけ寒さが楽になった。

 戸口辺りで談笑していた女子たちの視線がこちらへ向くが、もう慣れっこなので無視をする。


 名前を教えたのは良かったのだろうか。

 最近は色々と物騒らしいが。


 霧元肇は今朝の事を思い返しながら、自分の席へと向かう。


 とかく重い荷物を降ろしたくて自分の席へと急ぐと、前の席の芳川歩生よしかわ あゆむが珍しくすでに着席していた。

 少しだけ茶色に染めた髪を片手でいじりながら、スマホを触っている。


「時間通りに教室に居るなんて珍しいな」


 肇が朝のあいさつ代わりにそんなことを言うと、歩生は人懐っこそうな笑みを浮かべてスマホを肇の鼻先に突き出した。

 映し出されているのはラインのチャット画面。

 歩生ともう一人、彼の彼女らしい少女とのチャットのログが映し出されていた。


「明日デートあるんだよ」

「あぁ、そう」


 その一言で全てを理解したので、肇はこの先の会話を適当に流そうと決めた。

 大方、歩生は今日あるらしいデートのために興奮し、あまり眠れなかったとか、そういう話なのだろう。


「なんだよぉ、そっけない」

 もう高校二年生の、それも男子だというのに、彼は子供のように頬を膨らませてむすっとする。


「そりゃ、そうだよ。お前のその手の話を、オレがどれだけ聞いてきたと思ってる」

「俺って、そんなにお前に言ったっけ?」

「言ったよ。ちなみに最新は昨日の放課後だ」

「だって、うれしいじゃんよ!」


 このくだりも随分と数をこなしている。

 ため息をついて頬杖もついて、ふと横を見た。

 教室の一番窓側であるために、この席はとても寒い。

 吐いた息は白くなって、その辺を漂って消える。


「そういやさ。また、見つかったらしいな、【死体】。確か河川敷のほうだろ。たしか、【朝日公園】」

 ぼんやりと朝流れていたニュースを思い出して肇はつぶやいた。


「え? あぁ、らしいな。ここから結構近いよな」

「自転車で二十分くらいかかる。近いかどうかは微妙だろ」

「全国的に見て、だよ」


 まぁ、言われて見ればその通りである。

 日本という国単位で見れば、これは結構近所で起こった事件なのだろう。


「まだ捕まらないんだな、犯人。もう一年も経ってるのに」

「あぁ、もう一年も経ってるんだな」

 ぼんやりとそんなことを思う。窓は白い靄がかかっていて、外はよく見えなかった。

 

 一年。

 そう、一年もたってしまっているのだ。

 姉が誰かに殺されて、そいつがまだこの世界のどこかに潜んでいるというのに。


 今朝見つかった死体の名前は『大江桃子おおえ ももこ』というらしい。

 年齢は忘れてしまったが、新社会人とニュースで言っていたので22くらいだろう。

 


 霧元肇は長い昼休みをつぶす場所を図書室と決めていた。

 ただ昼食をとるだけならば五分とかからず出来るので、一時間近くもある昼休みは盛大にあまる。

 その時間を以前は適当にクラスメイトと談笑したりすることで費やしていたが、最近は静かな図書室のほうが良いと思い始めていた。

 

 それに、ここならば別の会社の新聞も読めるのだ。

 毎朝家に届けられるのとは別の会社の新聞が、図書室の新聞コーナーには並んでいる。


 今朝の事件のことは、一応家の新聞とニュースで知っていたが、まだ取りこぼした情報があるかもしれない。

 肇は昼食のパンを買うよりも先に図書室に向かっていた。


 図書室の扉を開ける。

 中はそれなりに巨大な空間が広がっている。

 置かれている本の数は、さすがに図書館ほどは無いが、それに順ずるほどはあった。


 だけれども目的は本ではない。

 肇は新聞が立てられているコーナーへと歩を進め――、そこで違和感を覚えた。

 いつもならば、そこの本棚に新聞紙がしなびたように立てられているのだが、今日はそれが無かった。

 

 今日に限って何か不手際でもあったのだろうか。それとも場所を間違えたのか。

 ふと、それを思い当たって周囲を見回すと、図書室の白い机の上に広げられた新聞紙たちが目に留まった。

 肇が欲する新聞を全てそこに並べて、誰かが熱心に読み漁っている。


 白い長机を一人占領するかのように、その少女はそこに座っていた。

 胸に着けているバッジの色は青だったので、どうやら同じ2年生らしい。


 黒く長い髪は、艶やかに光っていて、彼女の指と肌はそれとは魔逆に真っ白。

 瞳は人形のように大きく、しかしそれでいて、どこか無機質なようでもあった。

 

 そんな彼女が、かじりつくように熱心に今日の新聞を全て取って読み漁っている。

 

 まさかと思った。

 肇は彼女のすぐ後ろの本棚にある本を取るフリをして、彼女に近づいた。

 本を取る瞬間、肇はちらと振り返って彼女の視線の先を見た。

 

 そこにちょうど今朝の事件の記事があった。



 学校が終わると帰宅部はぞろぞろと、校門をくぐって列を作って歩き出す。

 全員同じ方向を向いて歩いていた。

 この高校に通うほとんどの人間は、同じ街に住んでいる。

 

 街の名前は『神森町かみもりちょう』といって、昔大手企業が立てた集合住宅街である。

 もっとも、その企業は倒産してしまって今は名前だけが空しく残っているが。

 

 地面にはレンガが敷かれ、街の中央には広場があり、すぐ側にはスーパーもある。

 幼稚園も小学校も中学校も、徒歩五分以内にあるという、まるで箱庭のような所だ。


 もっとも高校と地下鉄だけは少しだけ遠く、徒歩だと10分はかかる場所にあるのが唯一の不満ではある。

 

 肇も同じく神森町の住人であり、帰宅部であったので、他の大多数と同じ方向を向いて同じように歩いていた。

 

 足を動かしながらぼんやりと肇は、昼休みの少女のことを思い出していた。

 彼女も自分と同じように新聞を見つめ、事件を調べていたようだった。

 だが、おそらくは単なる好奇心なのだろう。自分とは違うのだ。


 大江桃子の死体が見つかったのは、今朝、芳川歩生と話していたとおり、自宅から二十分ほど自転車をとばした所にある【朝日公園】というところだった。

 行ってもどうせ何も見つけられないかもしれないが、だが行かない手はない。


◆◆◆


 青いビニールシートがはためいている。

 きっとあの下は、血溜りが出来上がっているのだろう。

 肇は少し背伸びして、他の野次馬たちを押しのけるようにして、現場を見つめていた。


【朝日公園】はその名が指すとおり公園である。

 子供たちが遊ぶための遊具があり、滑り台や使い道のよく分からない謎の段差などが存在する。

 ちなみに【朝日】の由来は不明だ。十七年間、神森町に住んでいて、分からないことも存在する。

 

 ビニールシートは、ちょうど公園にある野外トイレのすぐ側にしかれていた。

 安易に考えるならば、大江桃子はトイレの中で殺されたとか考えるのだろうが、ニュースでトイレ内部に血痕は一切無かったと報じられていた。

 

 彼女はピンヒールを履いていたと、ニュースで報じられていた。

 確かに公園の地面は捜査している警官たちによって踏み荒らされているが、けれどもどこにも彼女のヒールの跡が無いのはおかしな話なのだ。

 

 こんな地面、それも昨日はあいにくの雨で、今日もどんよりとした曇り空。

 土は湿ってよく沈む。


 犯行時刻は昨夜だとニュースでは言っていた。

 ならば昨夜の彼女の足跡はまだ残っているはずだ。

 しかし、それがどこにもない。

 ならば、彼女はどうやって此処に来たのか。まさか宙を浮いていたわけではあるまい。

 

 ふと思い返す。

 今までの犯行現場にも、そんな風な違和感はあったのだ。


 被害者はそこに倒れているのだが、そこに来たという痕跡はない。

【彼女たち】は突然そこに落とされたように死んでいる。


 今回も同じだった。

 どんなトリックを使っているのか……と。


 普通ならばそう考えるところだが、肇の考えはそれとは少し異なっていた。

 何かにすがるように、かけているネックレスを握る。


 手の内では小さな『骨』が、その存在を主張していた。

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