新明解国語辞典をひけ
篠岡遼佳
新明解国語辞典をひけ
淀んだ空から、大きな雨粒が降る。
雨だれの速度がまた速くなってきた。
傘をなくした俺は、昇降口でぼんやりと階段に座っていた。
鞄の中には特になにも入っていないので(教科書なるものを、俺は日々運搬しない)、仕方なく、スマホでちまちま友人とメッセージをやりとり。
俺『だってさ、寝てるときのことはノーカンじゃねえ?』
友『それにしたって、相手の名前を間違えるのは最悪』
むう、と、気の合う
しかしここに居ると、かかとを潰した上履きが、ちょっと濡れてくるのが不快だ。
かといって、
「マジでいてぇんですけど……」
左頬はまだじんじんする。
目立つので、ちょっと校舎をうろつくのは控えたい。
彼女は怒っていた。相当怒っていた。ビンタってすげえな。俺は笑う。
俺は、相当ダメなヤツらしい。浮気の何が悪いのか、ちょっとわかっていないところがある。
浮気というか、四股?だっけ?
なんというか、かわいい女の子と、楽しく仲良くやりたい、というのは、普通の欲求なのではないだろうか?
年齢なんて俺には関係ない。相手だってそんなに関係ないはずだ。この学校にいる時点で。ここは、ちょっと特殊な事情のあるものが集まっているんだ。
俺は大きく伸びをする。
つられて、背中のものもぐっと広がる。
そこでなんだか視線を感じて、ちらっと並んだ靴箱を見ると、
「!」
思い切り、見たことのないかわいい子と目が合った。
相手は、新種生物発見! てな具合の視線だ。珍しいのだろう。
まあ、確かに、珍しい。
俺には、背中に真っ白な翼がついているので。
そして彼女は、きらきらと蛍光灯を映す金髪をしていた。鮮やかな赤い瞳を丸くしたまま瞬く。そして何でか白衣を着ていた。
――ま、つまりここは、魔法とか非科学とか、そういうものの寄せ集めな訳だ。
社会に出るまでに、身につける常識というものを、一応たたき込んでくれる場所。
金髪の彼女は、とことこと……意外と背が小さいな……こちらへやってきて、とん、と許可なく俺の隣に座った。
金髪は濡れている。白衣もだ。この雨の中、どこに居たのだろう?
「――やあ、君が"翼あるもの"かい?」
前置きなく、彼女は言った。そう、それが俺の二つ目の名前。
「そうだよ。君は? きれいな
「わたしはそう簡単に落ちないぞ」
「あらら。俺のこと知ってるの?」
「悪名高いよ、君。"堕天使"くん」
あ、そっちもご存じで。
「いやー、俺としては、面白楽しくやれればいいだけなんだけど」
「その左頬、どう説明をつけるつもりなのかな?」
「うーん、それは困った。
どっかになおしてくれる人がいればいいんだけど……それより」
俺は特になにも考えず、彼女の長い金髪の先を手に取った。
「何してたの?」
「だから、そういうのいらないんだが」
ぴしっ、と手を払われる。
「いやいや、こういう口調と行動が本心なんだよね」
俺は笑う。脳に翼が生えてる、とか、よく言われる。
彼女はわずかに目を細めると、
「仕方がないな。じゃあ、ちょっと君、話をきかせたまえ」
「え、どんな?」
「今回なんでフラれたのかな」
「えーと……浮気がばれた?」
「疑問形か」
「仕方がない、いいなと思った子にはちゃんと声をかけることにしてるんだ」
「で、みんなと仲良くなると」
「そゆこと」
「でも、天使の身分でそんなことしてていいのかい?」
「まあ、女の子に取って食われるわけじゃないし、いいのいいの。だいいち、翼があるから天使なのかって、よくわかんない」
「そうなのか? 君は天使なのだと皆が言うが」
「みんなって誰よ……。ほら、なにしろ、カミサマってやつに会ったことがない」
これは本当だ。生まれてからこの方、俺はそういう存在を感じたこともない。
「だからさ、俺ってなんていうか、堕天使、なんて言うんじゃなくて、翼しか生えてない欠陥品なんじゃないかなーって。あるいは、天使なのか何なのか、わかんない罰を受けてる最中なのかもね」
「なるほど」
彼女が真剣にうなずくから、俺は何だからむずがゆくなった。こんな話、するはずじゃなかったんだけど……。
困惑している俺に、彼女は紅い瞳を瞬き、こちらに近づいてきた。
「それじゃあ、君」
こん、と俺に額を合わせ、彼女はリップの香りで答えた。
「罰くらいなら、わたしも背負っていいよ?」
「――――」
ちょっと、くらっときたかもしれない。
「……俺んち、来る?」
「いいや、それは必要ない。保健室で事足りる」
言いながら、彼女は俺の左頬をそっとなでた。
ん? 保健室?
「これを治してあげるから、もっと私と話したまえよ」
「……え、ちょっと、うそ、もしかして」
「ふふ、私は保健室の主、養護の先生、"白衣の吸血鬼"だよ。覚えておくといい」
彼女はそう言い、俺なんか目じゃなさそうな不敵な笑みを浮かべて。
見つめられた一瞬でその紅い瞳に囚われる。
無理矢理顎をつかみ、吸血鬼は俺の唇を奪った。
想像以上の展開に、俺は力が抜けていくのを感じつつ、
――あー、取って食われるっていう『恋愛』も、アリかも……?
体がじわりと熱くなっていく感覚に、そう思っていた。
…………多分、俺のこればっかりは、死んでも、きっと治らねーな。
新明解国語辞典をひけ 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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