創発性全覚文

 武田洋平という人間は、博士論文で報じた自らの発見を偶然と度々評していました。

「――創発エマージェンス?」

 今から六年前、武田洋平はまだパシフィカ中央大学、心工学研究科、言語学研究科横断専攻の全覚言語専攻の修士課程の学生でした。

「初耳なんだ」

「いや、都市伝説的な話で聞いたことはあったけど、意味はよく分かってない」

「羨ましいな」

「羨ましい?」

創発エマージェンスを最初に知ったときの興奮を私はもう味わえないから」

 そう嬉々として語っているのが同生物学研究科、数学研究科横断専攻の数理生物学専攻の博士課程の学生だったアルジ・クワッカです。

 二人が出会ったのはその更に一年前、同大学で大学院生向けに開催されていた数理社会学セミナーでした。この偶然の出会いが、後に彼を偶然の発見に導くことになるのです。

 それぞれ自らの専攻で参考になるものがあるからと履修し、そこで二人は互いの波長素ウェイビムの分布度に類似性を見出したようでした。

 ある日、大学のカフェテラスで二人が昼食をとっていたとき、唐突にクワッカがそのワードを切り出したのです。パシフィカ人が〈スマート・アイ〉を介して世界を見るように、アルジ・クワッカという人間は数式を介して世界を見ていました。ときに彼女は種々の現象を表現する数学モデルを親しい者に話したがりますが、彼女が過去親しくしていた者たちは皆、その話についていけませんでした。武田は数少ない例外でした。

「系に同種のエージェントが散らばっていることを考えてみて」

「街に似たような挙動をとる人がいるって考えればいいですか?」

「そうね。それもいいけれど、分かりやすい古典的な例としてアントコロニーアルゴリズムがあるから、巣の近くをうろうろするアリたちを考えて見て。で、アリって知ってる?」

「日本にはそこら中にいましたから」

「アリたちは一体どうやって、巣からエサまでの最短距離を見つけ出していると思う?」

 武田は顎に手を当てて考えます。

「エサまでの行列を最短距離にできるアリたち程、自然淘汰が味方になる、という訳ですか」

「聞き方が悪かったわ。なら、これならどう? エサまでの行列の中にいる一匹は、最短経路の夢を見るか」

「知っているから、最短経路で移動できるんじゃないですか。あるいは、巡回セールスマン問題を解けるだけの知能を実は持っていたとか」

 武田は冗談交じりに言いました。当時の彼は応用数理については無知に等しかったのです。

「残念ながら、ハズレ」

 クワッカは勝ち誇ったように笑いました。三人の男性と二人の女性と一人の他性を不快にさせたその表情を見ても、武田は全く気にしていない様子でした。解説を聞くのを心待ちしているように彼女の瞳を覗き込みます。

「アリたちはあなたが思っている以上に単純な原理に従って行動してるの」

「単純な原理?」

 武田の表情に翳りが差します。

「なら、ホモ・サピエンスが犯罪のない社会を作り上げるのにこれだけ遠回りして複雑な科学技術に頼らざるを得なかったってのは、僕たちはアリ以下だってことですか」

 武田のその返しはクワッカが意識していた武田の返答予測集合にはない解でした。彼女の思考は堰き止められ、一瞬遅れて笑いとなって決壊しました。

「ヨウヘイのそのセンス、私、好き」

「で、超高等社会生物アリ様は一体どれ程素晴らしい原理を発明したんですか」

「より濃いフェロモンの上を歩け」

「……え?」

 武田の息が止まります。

「どういうことです?」

「アリたちはね、歩きながらフェロモンを出す習性がある。そしてすべてのアリたちはよりフェロモンの濃いルートを通りたがる」

「それが最短距離を紡ぐと」

「二つのルートAとBを考えてみて。ルートAが最短経路で、Bが迂回経路だとする。AとBを歩くアリの数が同じだとしたら、フェロモンの濃度が濃くなるのはどっち?」

「そっか、距離が短い分、Aの方が単位時間あたりのアリの通行量が大きくなって、フェロモンの濃度も上がる。やがて、

「それこそが創発エマージェンス!」クワッカは得意げに笑いました。

「単体は単純なのに、その集合体が生み出す効果は実に大きい。植物相が虎の縞模様タイガーブッシュを形成することとか、迷路を抜けるのが得意な粘菌の群体とか、意外と自然界にはこの創発現象ってのが溢れているの。そしてこの現象は情報工学でもよく使われている。アリを模したエージェントを用いるアントコロニーアルゴリズムもその一つだし、遺伝的アルゴリズム、遺伝・文化共進化アルゴリズム、例を挙げればきりがないけれど」

「――創発エマージェンスはどうやったら作れるんですか?」

 武田の問いはまたしてもクワッカの返答予測集合の外から彼女の意識の中に滑り込んできました。

創発エマージェンスを生み出す特徴っていうか、共通点とか、原則とか、いわゆる創発子みたいなものってないんですか?」

「すべて起きてからのお楽しみ」

「そうか、それは残念ですね。パシフィカという系に巣食う全覚文たちが、一体どんな創発現象を起こすのか気になったんですけど」

 そのとき彼の中で渦巻いていた「疑問」という名の脳波パターンは常に彼の中にあり続けたことでしょう。そしてそれが三年の時を経て、都市伝説とされていた創発性全覚文を見出す数学的手法を彼は発見することになることに繋がるのです。

 

 元々、武田洋平という人間は言語学というものにさほどの興味を抱いていなかったと推測されます。パシフィカのパブリックエリアで彼がその単語を発したことは大学入学以前は一度もなかったからです。

 けれども、言語の定義を考えれば、彼が全覚言語学会の道に進んだ理由は明らかでした。

 言語の定義は難しいものの、「言語として機能する」ことの定義は難しくないでしょう。

 ある言語で記述されたある文を受容したその言語の習得者たちの脳に生じるニューロンの発火パターンが非常に高い類似性を持つこと。

 日が昇る――この文の持つ意味を、この言語の習得者が受容したとき、その意味する概念は少なからず習得者たちの間で共通します。このとき、この文は、この言語が言語として機能していると言えるでしょう。

 ところで、人間たちが使う自然言語ナチュラルはその媒体に音素フォニム書記素グラフィムを好みますが、単純にそれはホモ・サピエンスがその言語を操る際に自在に発することができる構成素がその二つだけだったからです。

 つまり、言語を操るのが人間である必要がなければ、その構成素は光素フォトニムだろうが、磁素マグネティムだろうが、熱素ヒーティムだろうが構わないということになるのです。

 そして多様な構成素によってつくられた刺激が、不特定多数の人に同じようなニューロンの発火パターンを誘発させることができれば、それは「言語として機能している」と言えます。そしてすなわち、それこそ言語なのです。

 こうして生まれたのが全覚言語オールセンスであり、そのほぼすべてが人間に発話は不可能であるものの、人間に対して「言語として機能」していたのです。


 人間が発見できた生物種は全体のわずか七パーセントに過ぎないと言われています。その予測値は年々下降傾向にあり、それはつまり、人間が種を見失ったのではなく、知れば知る程、生物多様性の世界の深淵を知ったということになります。

 全覚文探しも似たようなものでした。どのような単純原理を与えてやれば創発が起きるか分からなかったように、どのような構成素のパターンを与えてやればそれが全覚文として、言語として機能するのか、それは分かりません。〈次はお前だ〉を例にとってしても、何故最後に赤外線を照射することがその言語としての機能を大幅に高めることができるのか、未だに分かっていないのです。

「生物種の多くが未知なのと一緒なんだよ、アルジ。最新のパシフィカ全覚言語学会の推定値によれば、既知の全覚文は、全覚文の七パーセントらしい」

 二〇六五年、武田洋平が創発性全覚文を見つける前のこと、二台連結させたオートモービルが白昼帯の真っ白な街区を行く最中で、並んで座るアルジ・クワッカに対し講義していたのはその武田でした。既に彼は博士課程に進んでおり、全覚文同士の相互作用による文意喪失現象について研究していました。

 それはある意味でクリティカルな分野でした。当時、〈理性の声に耳を傾けよ〉の影響下で、真逆の反社会的な行動に及ぶ例が散見され、社会はそれを悪童症候群として認知していました。

「へえ、意外」

「何か、嬉しそうだね」

「だって、全覚言語もまるで生物種と同じなんだと思ったら可愛く思えてね。全覚文の自然淘汰と進化を数学モデルで表現することもできるかも」

「できりゃ苦労はないけどさ。数学モデルで記述できれば、未来が予想できるだろうし」

「は?」

 露骨にクワッカは表情を歪めました。十七人の男性と六人の女性を不快にさせたその顔つきにも武田は反応しませんでした。それがクワッカにとっての純粋な疑問の感情の発露であることを武田は知っていたからです。

「カオス系の挙動を予測するなんて馬鹿言わないで。三体問題が解けなくて地球を攻めて来た宇宙人の面子はどうなる訳?」

「どうしてカオス系になるかが分からない」

「再帰的な構造を持ってるから。全覚文は絶えず効果の評価AIによって微細なパラメータの最適化がなされていってる。つまり、評価AIの評価手法は全覚文にとっての淘汰圧になる。でも、その淘汰圧そのものに全覚文は影響を与えられるの。。こんな再帰的構造を持った数学モデルは初期値をちょっとずらしただけで、未来が大きく変わる」

「初期値鋭敏性」

「知ってるじゃない」クワッカは唇を噛みました。

「何かの論文か、教科書かで見たんだ。そういうことを意味する単語だったんだね」

「そういうこと」

「つまり、AIが構成素のパラメータをチューニングし、自動的に全覚文を生み出し、性能向上させていく系はカオス系で、全覚文がどう進化していくかは誰にも分からないと?」

 全覚文を見つけたのはAIですが、生み出したのは自然の摂理です。数十年前、電子公告の最適化機能を任されていたAIが、様々な電子公告を試す中で、最も客を呼び寄せられる電子公告を見つけ出した――それは人間への影響を淘汰圧とした、広告の自然淘汰でした。それと同じように、種々の全覚文は絶えず評価され、効果の強いもののみが生き残る。そうした、自然淘汰の落とし子が〈理性の声に耳を傾けよ〉であり、〈おはよう世界〉であり、〈汝の罪を告白せよ〉だったのです。

 二台連結したビークルは朝夕帯に差し掛かり、周囲は薄暗くなってきました。

「そういえばさ」武田の自宅までもう間もなくというところで、彼が切り出しました。

「全覚文に関する都市伝説って聞いたことない?」

「都市伝説?」

「そう。その前に、前提として全覚文同士の相互作用については知ってる?」

「聞いたことあるよ。全覚文〈大海に抱かれて〉と〈安らかに眠れ〉を同時に発話すると、心臓発作を起こすことがあるって」

「そうそう、全覚文って非常にデリケートで、人間の脳波想起に影響するものが多く存在していると、容易く文意変化を起こすんだ。その多くが二つの全覚文を同時に発話すると、その両方が効力を失ってやつだね。全覚言語学会では文意喪失って呼ばれてる」

「分かったわ。それで、都市伝説ってのは」

「その逆だよ」

 武田は語調を変えることなく言いましたが、クワッカは顔をしかめました。彼女がもったいぶられると決まって浮かべていた顔です。

「全覚文同士の相互作用によって、文意が喪失することもあるのなら、逆に文意が創発することもあるかもしれないって」

 そのとき、二人を乗せた連結ビークルは武田の自宅前で停車しました。

「お邪魔します」

 その後の二人の会話ログは、パブリックにはありません。


 ともかく、アルジ・クワッカとの出会いが武田に創発性全覚文を発見させることに至らしめたのは間違いありません。

 元々類まれな数学のセンスを持ちまわせていた彼は、その一年後、創発現象を引き起こすエージェントの特徴の一部を数学的に導出することに成功しました。アリを突き動かす単純な原理が、アリの行列を最短経路に導くことの理由こそ分からないものの、どのような単純な原理を持ったアリの集団なら、最短経路の行列を形成できるか――その根源を突き止めたのです。

 そして、元来全覚言語の研究をしていた彼はそれを創発性全覚文の発見に応用しました。それは偶然であっただろうし、彼には間違いなく幸運の女神パシフィカが味方していましたが、最短経路の行列をつくるアリと同種の特徴を持った潜伏性全覚文――発話はしているものの、人間の行動パターンには一切影響を及ぼさない――を見つけ出すことに成功しました。それら単純な潜伏性全覚文が複数集まった末に、一つの大きな効力があることを彼は突き止めたのです。

 それこそ、悪童症候群の根源である有害全覚文〈あらゆる声に耳を傾けるな〉です。受話者にあらゆる全覚文の効果と真逆の行動を取らせる効果のあるそれが長いこと見つけられなかったのは、〈理性の声に耳を傾けよ〉がその有害全覚文の最後の構成素だったからです。別の全覚文そのものを構成素――文素センテンシムとする全覚文。全覚文と全覚文の相互作用によって生まれる全覚文。

 それこそが、文意創発であり、それによって生まれた全覚文こそ創発性全覚文と呼ばれるものでした。

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