二次元惑星ディファ―

 夜一時十七分、レベルIの極夜帯にあるレストラン、ディファーで武田洋平とアルジ・クワッカは落ち合っていました。

 入店時、明らかに警戒の色を示していたクワッカでしたが、入り口脇の壁に描かれていた螺旋紋様を見るなり、そのトーンが三百十二ヘルツ上がりました。

「黄金螺旋!」

 クワッカはその螺旋を指でなぞりながらぶつぶつと数式を唱えています。そんな彼女を後目に、前に現れた仮想コンシェルジュに武田が応対していました。中性的な見た目の仮想コンシェルジュですが、正面からは三次元的な見た目をしていながらも、厚さはゼロ。文字通り、二次元の世界から飛び出してきたような人間です。

 そう、ディファーは二次元をテーマにしたレストランなのです。

足を前後に動かせない仮想コンシェルジュは体を前に少し傾けて移動を始めました。

「こちらへどうぞ」

 武田は尚も螺旋をなぞるクワッカの腕をそっと掴みました。

「行くよ、アルジ」

 店内もまた、極力三次元的な構造を感じさせない内装でした。水平面は白色、垂直面はすべて黒色に彩られており、強烈なモノトーンの中で、暗い宇宙の中に無数の平面が浮かんでいるような様相を見せています。

 空席に二人が腰かけると、再び直立した仮想コンシェルジュは言いました。武田の視界にも、クワッカの視界にもそれは正面に写っています。

「捕食履歴とバイタルデータへのアクセス許可をいただいてもよろしいでしょうか」

 武田はクワッカと目を合わせて、共に頷きました。意図を汲み取った二人の〈リュシャン〉が仮想コンシェルジュに該当するデータへの一時アクセス権限を譲渡します。

 それはこの時代のパシフィカンにとっては当たり前の行為でした。人間がメニューを自分で決めることがどれだけ非合理的ノン・パシフィックな結果を招くか、それは言うまでもありません。

「ありがとうございます。当店おすすめの餌をこしらえて参ります。少々お待ちください」

 仮想コンシェルジュは体を回転させ、武田とクワッカそれぞれ視点から見える視野角を少しずつ小さくしていきます。やがて、その体躯の側面を見せたとき――厚さがゼロになったとき――二次元の仮想コンシェルジュは消えました。

 料理を待っている間、武田とクワッカの二人は天井を眺めていました。

 そこに描かれた広大な二次元惑星ディファーこそ、このレストランの一番の名物です。この二次元惑星で起きる生物の進化の過程を楽しむことがこのレストランの付加価値なのです。

 平坦な台地の上を一匹の小さな二足動物が歩いていました。ディファーがオープンしてから半年程ですが、既にこの星には多細胞生物の類が誕生しているようです。

 フェトゥサと呼ばれるその二足動物は地球でいう哺乳類のような生物らしく、脊椎のようなものと子宮らしきものが体内にあるのが透けて武田の目には見えました。無論、武田とクワッカがそれを目にできるのは、フェトゥサにとっての高次元である三次元から眺めているからです。幸いなことに白黒なので、体内が透けて見えてもグロテスクさは催させないようになっています。

 そのフェトゥサが猫と大きく異なる点は、どちらが体の前方なのか後方なのか一見して分かりにくい構造をしていることでした。脳が体の中心部にあり、ほぼ完全に左右対称に見えるのです。

「フェトゥサにとっては、。ただ、どちらの前方に進むかでしかない訳ね」

 クワッカは言います。

「だから脳は体の中心にあって、目は両サイドに一つずつって訳か。でも、あれじゃ立体視ができない」

「肉食の二次元動物にはきっと、目が四つあるんでしょ?」

 しばらく二人がフェトゥサのちんたらとした歩みを見守っていると、やがてその進行方向からより大きな四つ目の二足動物ナガルドンが向かって歩いてきた。

 ナガルドンは横から見た巨人のように縦長の体躯を持っていました。

捕食‐被食モデルロトカ・ヴォルテラの役者が揃った」

 クワッカの顔から笑みがこぼれ落ちています。

 ナガルドンの最大の特徴はテナガザルのような長い手を体の両側に一本ずつ持っていることです。その手の先端は二股に分かれ、獲物を捕らえられるようその先端は更に内曲がりの棘のようになっています。ナガルドンは巨人型のハンターのようです。

 フェトゥサがナガルドンの存在に気が付きました。フェトゥサの武器が何かはまだ分かりませんが、面積が二十倍程あるナガルドンに勝てる見込みを見出すことは難しそうです。

 武田とクワッカもそれは同意見のようで、二人は固唾を飲んでフェトゥサの動向を見守っていた。

 予想に反せず、フェトゥサは引き返しました。体を反転させることなく、もう一つの前方に向かって移動を始めたのです。

 幸いなことに、ナガルドンは鈍重でフェトゥサは距離をどんどん離していくことができました。

「逃げる方向が二方向のみってのは、彼女にはつらい世界ね」

 クワッカが唇を噛みます。惑星平面の大地の上でしか過ごせない陸生生物の多くにとって、捕食者から身を守ることは生存に直結します。けれども、二次元惑星ではその方向が二つしかありません。もし挟撃されれば、逃げ道はなくなるのです。

 間もなく、フェトゥサのもう一つの前方の先にも、ナガルドンの姿が見えました。フェトゥサは二匹のナガルドンに挟まれる形となってしまいました。

「ナガルドンとナガルドンに挟まれたフェトゥサ。もしフェトゥサがナガルドンを倒すか、あるいは超える術を持っていなければ、このフェトゥサの親類はすべて、ナガルドンに捕食されたってことになるんだな」

 武田の声にクワッカが表情を曇らせた。

「フェトゥサが有性生殖生物なら、その両親は少なくともフェトゥサの片側にいるはず。でもフェトゥサの両側には、およそフェトゥサが立ち向かえるとは思えないナガルドンがいる。つまり、フェトゥサの両親はもう死んだか、あるいはナガルドンに捕食されたってことになる訳」

「そういうことだと思う」

「つまり、あのフェトゥサは親族の最後の生き残り」

 フェトゥサは再び進路を変えました。

 だが、そのフェトゥサが迫りくる二体のナガルドンに挟まれるのは時間の問題でした。最初は進行方向を再び反対にすることで対応していたフェトゥサでしたが、とうとうどちらへ行っても埒の開かない状況に追い込まれました。

 武田とクワッカの二人は固唾を飲んで見守っていました。

 ナガルドンの壁の幅が狭くなり、にっちもさっちもいかなくなったとき、フェトゥサは唐突に体を丸めました。綺麗な円形です。

 フェトゥサに近かった方のナガルドンがフェトゥサ向かって腕を伸ばしましたが、丸まったフェトゥサは僅かに後退しそれを躱すと、一転向きを変えてナガルドンに向かって転がり始めました。ナガルドンは捕食のために伸ばした腕は坂に等しかったのです。先端の爪さえ躱してしまえば、あとは丸まったフェトゥサはそれを昇るだけでした。

 フェトゥサはナガルドンの腕という坂を逆足し、そのままナガルドンの頭を飛び越えました。ナガルドンの壁を乗り越えたのです。

「二次元世界の被食者たちにとっては跳躍こそが何よりの能力ね」

息を荒らげながらクワッカが言います。

「敵を越えなければ、生きることも、パートナーを探すことも叶わない。一次元の環空間、被食者と捕食者のランダムウォーク、異性同種の遭遇確率――」

「忘れないうちに〈アルジェブリカ〉でも展開したらどうだ」

 武田は呆れたように言うと、クワッカが目を輝かせました。武田は大きく首を縦に振りました。

 クワッカは頷き、立ち上がります。生物相の現象を数学モデルで表現し、分析することに長けている数理生物学者アルジ・クワッカは周囲の注目など気にも留めず、彼女自身の〈リュシャン〉に〈アルジェブリカ〉の円柱展開を命じます。

 彼女を囲うように半透明の仮想円柱領域が出現します。彼女が持つ、体躯の動きと数学概念を結びつける共感覚を学習している〈アルジェブリカ〉は、ピアノを弾くように繊細で、ドラムを叩くようにリズミカルなクワッカの挙動をすべて数式に変換し、仮想円柱領域の表面に無数の数式を刻み込んでいきます。クワッカの長い呼気が時刻0で停止していた連立微分方程式系に初期値という命を吹き込むと、数式は光り、うねり、その溜めの中からぽとりとグラフ領域を生み落とします。変数たちは、スケート靴のブレードが白いキャンパスリンクに描いた軌跡も同じなのです。

無数の数式とグラフが高速に舞う中、ステップを刻むように軽やかでテンポのよいクワッカの思考スピードは、武田にとっては赤方偏移しているように見えていたことでしょう。けれども、武田はその置いてきぼりの感覚に耽るように肘杖をついていました。

 武田がふと気が付くと、二次元の仮想コンシェルジュがテーブルの脇に立っていました。

「お待たせしました。健康と興奮のパレート最適プレートです」


 料理は魚介類と培養食品からなる典型的なパシフィカ料理でしたが、二次元をイメージしてのことでしょう、薄くスライス加工されたものが目を惹きます。パシフィカ料理の中で生物の原型をとどめているとすればそれは小魚ですが、アンチョビですら薄く開かれていた程です。

「――で、あのファルシードってのは興味深い生き物だった?」

〈アルジェブリカ〉の遊戯をひとしきり堪能したクワッカは武田に質問を投げると、ハムのように薄いライトグリーンのセルロースシートをフォークで器用に丸めて突き刺すと、ジェルソースをつけました。

「虫唾が走る、なんて表現が押し寄せてくるのは何年ぶりかな」

「理由は」

 クワッカは淡々と訊いてきます。科学的な事項以外に、彼女の声を上ずらせるものはないようです。

 困ったように武田が肩をすくめると、珍しくクワッカは眉を上げました。

「ヨウヘイも感情の言語化に漂流することあるんだ。その創発子についての論文、楽しみにしてるよ」

「それは随分と〝パシフィック〟な研究だね。予算が大漁そうだ」

「自由意志を信奉し、全覚言語オールセンス依存からの脱却を訴えるアンチ・パシフィックの舵取り。さぞ、ファルシードは非論理的ノン・パシフィックな人なんでしょう」

「それがさ、〈チェリー・オブザーバ〉で調べてみたんだけど、彼のエビデンス選択には良いとこどりチェリー・ピッキングは見られなかったんだ。彼の結論そのものが正しいかは別問題として、彼の辿っているプロセスそのものは非常に論理的パシフィックだった」

「よくあるパラドクスね」

 クワッカは上唇についたジェルソースを舐めました。「楽しそうな仕事じゃない」

「勘弁してくれ。彼の演説を聞くのはもうごめんだ」

 武田が箸を置き、ふと天井を見上げると、あのフェトゥサのに、もう一匹のフェトゥサがいるのが見えた。武田がそれを指さして、クワッカも顔を上げる。

「カップルが成立したみたいね」

 二匹のフェトゥサは互いに相手のことを気に入ったようです。二匹は密着していました。三次元生物には理解しがたい様相ではあるのでしょうが、彼らは交尾を始めました。

「でも、あのフェトゥサたち、まさか自分たちの情事を高次元から眺められているとは夢にも思ってないでしょうね」

「僕たちだって四次元生命体のレストランの天井に描かれた三次元惑星アースの住人だとは夢にも思ってない」

 そのとき、武田の〈リュシャン〉が彼とクワッカに告げました。

『またよ』

「何が」

『今度はレベルGで人が殺された』

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