18杯目

 冷たい風がいくら吹いても、重たい雲ばかりが夜空を覆って、三日月だって見えやしない。そんな日だって、ときにはある。


 白く染まった地面には、小さな動物達の足跡がてんてんと残っている。テーブルに置かれたランプだけでは薄暗いから、木の枝にランタンをひっかけた。蛍のような明かりが、ほわりと周囲を照らして頭の上で、ゆっくりと動く雲を教えてくれる。



「この場所は、なんだかちょっと、不思議な場所だな」



 小さなテーブルの上に乗ったティーセットを見つめて、ディモルは改めて瞬いた。


 ディモルとアゼリア、二人がそっと両手に添えたカップの中は、とっても綺麗なクリームブラウンに色づいている。ふんわり、柔らかくってあくびが一つ出てしまう。うっとり眠たくなるような優しい味だ。本日の茶会の主役は、ミルクティーだ。





 ***




 ミルクを入れるときは、温めすぎてはいけない。本当なら、常温だっていいくらい。熱い紅茶にミルクを入れるのではなくて、ゆっくりと、ミルクに紅茶を入れていく。茶葉を選ぶ際にも注意が必要だ。ミルクに負けない、しっかりとした風味と色の茶葉を選ぶ。



 とはいいつつも、好きなものを好きに飲んだらいいとアゼリアは考えている。アゼリアに紅茶の淹れ方を教えてくれた先代は、あまりミルクティーは好まなかったから、このあたりはアゼリアの自己流だ。紅茶とミルクの割合だって、その都度変えてしまう。その方が、色んな味を楽しめる。



 お茶うけは、色とりどりのスコーンだ。作っていると楽しくなって、シンプルなものもあれば、カボチャやら、ラズベリーやら、チョコを混ぜて、はてにはトマトとベーコンまでと、思いつく限りのレシピで作ってしまった。もしかすると、何か別のことに没頭してみたかったのかもしれない。なぜなのか、と言われると、クローゼットの中にそっとしまい込んだ何かを思い出してしまいそうで、苦しかった。



 ルピナスはこのところひどくぼんやりしているようで、カボチャのスコーンをひとかじりして、そのまま毛布の中にすっこんでしまった。少しばかり心配だから、彼女の好物であるスコーンはたくさん残しておこう、とアゼリアが考えていたときに、「本当に不思議な場所だ」と、改めて呟かれたディモルの言葉に瞬いた。



「……不思議な場所、ですか?」

「素晴らしい光景だと思ってね」



 ディモルはあらためて、まじまじと小さなテーブルを見回した。ティースタンドなどありはしないから、所狭しとスコーンが並べられている。 「そ、それは……」 どう考えても、作りすぎた。「あの、すみません、まさか全部お食べくださいなんて言うわけもなく、その」 何を言っているのか、自分でもよくわからなくなってきた。いっそのことしまってしまうべきかと立ち上がって、皿に手を伸ばそうとしたときに、「ああ、違うんだ。すまない、言葉が悪かったね」 ディモルはそっと首を振った。



「こんなに寒くて、雪だって積もっている。空気だってしんとして、冷たい匂いがする。なのにテーブルの上は色とりどりで、カップはとても暖かい」



 ディモルは細い見かけとは不釣り合いに、硬い手のひらをカップに添えて、クリームブラウンを見つめた。今度はクランベリーのスコーンに手をのばして、ゆっくりかじると、微笑みばかり溢れてくる。そんな彼を見ていると、アゼリアも少しばかり嬉しくなった。すぐに頭の中では首を振って、力の限り頬を叩いてやったのだが。



 ディモルが伝えたいことは思い至った。「ここは、季節が狂っていますから。土の精霊様のお力です」 カボチャはともかく、スコーンに使われたのは、様々な季節の野菜や果物だ。アゼリアとしてみれば当たり前のことだが、彼からしてみれば今の時期は珍しいものばかりだろう。もちろん、季節を狂わせるのは、土の精霊のみの十八番ではないから、貴族つきの精霊だって、同じようなこともできる。でも何分、精霊の格が違う。これほどまでに様々な種類となると難しいだろう。



 土の精霊は、この国、プランタヴィエ国の生みの親のような存在だ。彼が土を作ったからこそ、人が集まり、国ができた。現王家は、長く跡継ぎには恵まれなかった。今はただ一人きりの王太子がいるのみで、まだ幼い子供なのだときく。前国王は、長く続いた他国との争いを収めたが、無理が祟ってただの一人の子すらも残さずこの世を去った。そして王弟である現国王に冠を捧げた。



「今、国が平和であるのは、全て土の精霊様のおかげですから」



 アゼリアは彼に庭師になれと命じられた。そのときはひどく驚いて、混乱したが、今となってみればとても名誉にも感じている。“影”と自他ともに呼ばれ、陽の当たらない勤めではあったが、そんなこと、気にもならない。



 現国王も、あまり体は強くはない。それでも波乱が起きることなく、過去には他国の侵略さえも退けたのは、ひとえに土の精霊の力だ。精霊は血筋につく。王家の血は、強い精霊の力により守られている。アゼリアが管理する庭園が美しくあればあるほど、土の精霊の力を如実に表す。今や庭園は、市民や貴族たちの憩いの場とともに、王家の権威の象徴ともなり得るのだ。



 アゼリアができることと言えば、土人形を作り上げて、庭園を見回る程度ではあるが、それでも自身の居場所があることは安心した。それに、アゼリアはこの場所が好きだった。冬には思わず息を止めてしまうような美しさがあったが、長く眠った蕾が咲き誇り、誰もが歌いだしたくなるような春の日が、今から楽しみでたまらない。それこそ、色とりどりの季節が狂い、花開くのだ。



「土の精霊様さえいらっしゃれば、プランタヴィエ国は安泰です」



 今までも、そしてこれからも。


 さくりとチョコのスコーンを口にふくんで、アゼリアは頷いた。アゼリアの記憶の中にいる彼は、背中まである茶髪がとてもきらきらとしていて、一つ一つの言葉を大切にするように低い声を落としながら話す、美しい男の精霊だった。



 思い出しながらも、ゆっくりと話すアゼリアを、ディモルはテーブルに肘をつきながらも、じっと見つめた。「そうだね……」 それから、少しばかり考えるように瞳を伏せた。枝にかけていたランタンが、静かに風に揺れている。まあるい明かりが、ゆらり、ゆらり。月も見えない空は、ひゅうひゅうと雲ばかりが流れていく。



 足音が聞こえた。互いに驚いて立ち上がると、真っ白い耳がぴょこぴょこと動いて、飛び跳ねて消えていく。「うさぎか」 きっと、雪の上にてんてんと残る足音の主だ。息をついて椅子に座り込んだとき、ディモルがアゼリアの口元に目を向け、吹き出すように笑った。



「ついているよ」



 何のことだろう、と考えたとき、すぐに気づいた。いくら深くローブをかぶっていても、口元までは隠せない。アゼリアは必死にチョコをぬぐった。ただし目的の反対側を。「ちがうちがう」 ディモルがそっと伸ばした指先は、ちょんとアゼリアの口元にくっついた。彼の親指が、ぴたりと彼女の唇に当たる。「あ、あの……」 気づいたときには、ひどく胸の辺りが苦しくなった。



 彼も彼で、やわやわとした感触を知ったときにはびっくりして、ぴたりと動きを止めた。かちんこちんに固まって、互いにランタンの下で、震えるように息をした。ぎしぎしと、枝に積もった雪が溢れる音がきこえる。静かに、遠くで響いたのは、鳥の声だ。



 聞こえる音はそれぐらいなのに、ひどく自分たちの内側では、大きな音ばかり聞こえてくる。

 彼らの顔が真っ赤に染まっているのは、決して寒さからではない。








 思わず。


 思わず、だ。あんまりにも口元が可愛らしかったから、ディモルは、ふと指先を動かすことに、我慢ができなかった。ゆっくり、ゆっくりとディモルが彼女の唇をなでたとき、アゼリアは震えた。そんな彼女を見ると、ぞくりとした。「ひっ……」 アゼリアは小さく悲鳴をあげた。その声をひいて、ディモルも、「うわあ!」 何をしているのか、と自分で腰を抜かしてしまった。



 互いにわけもわからないまま、ディモルは椅子どころか地面に尻もちをついていて、アゼリアは両手を合わせてただただ小さくなっている。どきどきした。心臓が、びっくりするほど大きな音をたてていて、頭の中が回らない。



「あの、その、あの」



 今のは一体、と奇妙な空気に震えた。決して、怖かったわけではないけれど、わけがわからなかった。そうだとすぐに気づいて、力いっぱいにローブの裾で口元をこすった。ついていたチョコは、これで消えてしまったはずだ。「すみません、お、お恥ずかしいところを!」 悲鳴のような声だった。



 ディモルはディモルで、素早く動く彼女を呆然と見上げ、先程の自身の行動を思い出して、「こ、こちらこそ、すまない、思わず」 心の中がひっくり返ってしまいそうになった。思わず、なんだって言うんだ、と自分にあきれて、申し訳なくなった。



 自分の意思とは裏腹に、勝手に指先が動いてしまっただなんて、こんなことがあるわけない。まさか新たな呪いを得てしまったのかと疑いそうになるものの、もちろんそんなわけがない。ただこれは、自身の意志の弱さだ。



 ディモルは自身に呆れて、アゼリアに申し訳なくもなって、なのに触った感覚を何度も思い出して、赤くなったり、青くなったりを繰り返した。そうした彼には気づかず、アゼリアは、さすが社交界で噂になっている方は違うのだな、とこちらはただ真っ赤な顔を隠していて、頭の上ではランタンの明かりばかりが、風の中で揺れていた。

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