死にたい私

こあ

死にたい私

 世界は優秀な人の輝きに溢れていて輝いています。

 それは見た目とか、利便性とか、匂いとか、味とか、文字とか、音とか、そういった形になって現れています。


 一度は恨んだこともある世界でした。それは嫉妬だと後に理解しました。理解した頃にはすっかり子供を過ぎていて、私が恨んだものはそこにありませんでした。


 その中で時折私は自分を見つめます。


 人は鏡も無しに自分を見るときは下を見るしかありません。


 暗い影だけがポツンと落ちています。その上に汚れたスニーカーと縒れたジーパンが無様に乗っかっています。

 そこには償いきれない罪がありました。

 綺麗な世界に持ち込んではいけないものを私は持ち込んでいました。

 涙は出ません。寧ろ笑えました。


 勿論、暗い人もいます。持ち込んではいけないものを持つ、輝いていない人達は変に笑っていたりします。

 私はその人達を見ると胸がすくような気持ちになります。

 そして直ぐに、なによりも醜い私の心へと、ドス黒い感情がまるで水の中の墨のように紋様を描きながら広がります。

 自分はその人達より醜いことが余程許せないようで、怒りが湧いてきます。

 そして私を攻撃します。


 自分は誰よりも私を虐めます。何故ならば自分は誰よりも私を知らないからです。

 この時は世界を覗いた気分になります。


 私は自分が嫌いですが、自分は私が大好きです。

 とにかくプライドが高い自分は何事も完璧にこなさないと虐めてきます。

 やがて手足が重く怠くなって無気力になります。布団に横になるとそのまま死ねそうで安心します。


 気付かない内に深い眠りについて、起きるのは深い夜の闇の中です。

 休日の大半を無気力に過ごした私を自分が責めます。


「本当に駄目」


「何も出来ない」


 そんな言葉、いつ覚えたのでしょうか。私はいつも両親の顔を思い浮かべますが、それは責任転嫁だと、私の無恥を自分がまくしたてます。

 それから身体を起こすこともなく無意味な考えに没頭します。


 起きた時は大抵お腹が空いています。しかし何も食べません。

 食べ物は好きです。

 料理も楽しいです。

 でも食べるのも料理するのも何か買ってくるのも何処かに行くのも億劫。

 迫り上がってくる吐き気にも似た気持ち悪さ。その感覚が妙に心地よく思えます。


 やがて親しい人達のことを思い浮かべます。

 輝いている彼らに私の未熟さが並べられて私の無価値さが露呈します。

 そして「そんなことないよ」と言って欲しい私がいます。気持ち悪い。

 これは心地よくないです。ただただ不快です。


 よくインターネットで無意識に「死にたい」と検索します。

 一番上に電話番号が出てきますが押しません。

 どんな対応をされるかを妄想します。

 妄想の中では私がして欲しいことをしてくれる「人」と「自分」のどちらかがいます。

 

 人は私の無恥さを表しているように優しく、綺麗で、不純物がなく、病院や保健室のような気持ちが悪い清潔感があります。

 対して自分は厳しく、強固で、ドロドロとしている、正しさがあります。


 そこまで考えて私は逃げます。

 現実は怖いですが理解していることでした。


 正しさは私が最も欲しいものでした。

 私は小学生の頃に「普通になりたい」と言って学校で馬鹿にされたことがありました。

 そもそも普通とは何だろうと後になって考えてみると、私はただただ考え無しだったことがわかりました。


 恐らくその時から私は正しさが欲しかったのだと思います。

 だからでしょうか、正しさを持つものを恨みました。


 私の欲しいものを持っている人がいると、尊敬します。


 それはきっと、嫉妬が醜い物だと知っているから出る物です。

 本当はただの嫉妬なのです。

 しかしあくまで尊敬します。誰かに嫌われるのが怖いからです。


 私は些細なことで尊敬します。


 美的センスや学歴、容姿は勿論。

 努力。理解力。文章力。歌唱力。話力。

 柔軟な思考。正しい認識。敢然とした性格。飄々とした態度。強固な意思。

 周りの評価。過去のエピソード。


 私は何もしてきませんでした。

 ここにくるまでに私は無知でした。そしてこれからも無知です。

 周りの人に合わせるのに精一杯で、何も出来ません。


 自分は自分に甘いです。私は私に甘いです。


 やれることをやりません。やらずに責めることだけをします。

 やって失敗することが怖いからでしょう。

 ならやらずに何も出来ないでいる方が気が楽。そんな短絡的な思考でしょう。

 その癖人生がつまらないと嘆いています。


 私では救いようがありません。

 自分では救いようがありません。


 周りの人間に救われているとよく考えます。

 同時にお荷物になっていることを自覚します。

 この時言葉にして「死にたい」と言えます。


 その言葉を本気にするのは私一人です。


 私は無価値なんだと言うと、涙が出そうになるほど安心します。


 私は私の中でのみ正しいからです。


 この私を責める期間はお風呂に入らなくなります。

 そして自らが落ちていく様が妙に美しく見えます。


 しかし、時が来ればこの期間を抜けます。それはトンネルを抜けるみたいに、名残惜しくてあっという間です。


 それは勤務時や、友人から遊びに誘われる時です。職場の人や友人に救われて私は引き上げられるようにトンネルを出ます。

 その時は楽しいです。幸せです。

 でもその時間も終わります。パレードのように一瞬です。家に帰る頃には高揚感が残っています。

 朝起きると隙間風が吹いたように冷たくなっていて、罪悪感に苛まれます。

 それは友人や職場の人の些細な表情、私の言動。そういったものが彼らにとってどれだけ大きいことかを考えた末の罪悪感です。

 時間を奪ってしまったことに恥ずかしくなってきます。

 感情は放物線を描いて落ちていきます。


 その先には慈悲だとかそういったものはありません。私に対する罰だけです。

 それが私にはわかります。自分もわかります。


 私はニュースやネットの記事なんかでよく死といじめや復讐が取り沙汰されるのを見て可哀想だと思います。

 彼らは被害者で、辛い思いをしてきた人達なんだと。

 そして私は卑怯だと思います。

 私は加害者なのに死にたいと考えるからです。


 そうやって私を責める言葉を探していると、ふと解像度の高い言葉を見つけます。

 それは大抵が叱責したり、軽蔑する言葉です。

 それは私をより罪人にし、心の奥の、反発する激情を呼び覚まします。


 そしてまたトンネルに入っていきます。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死にたい私 こあ @Giliew-Gnal

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る