第10話 四者面談はココアと共に。
俺はようやく、この席に辿り着いた。
できれば着きたくはなかったが、世の中、通さなければいけない筋という物がある。今この場で通そうとしているのも、そういう筋だろう。
何というか、優しそうな二人だな。
目の前に座る、凪の両親。母親の方は会ったことがあるな。娘の凪に似て、色素の薄い髪。凪より幾分か穏やかそうな顔立ち。
父親の方から感じる凪の要素は大き目な瞳だろうか。アパートに入居した時、挨拶に行ったが、その時はいなかったから、ほぼ初対面、すれ違った時くらいはあるだろうけど。
この二人から凪が生まれたのか。凪が美人に育つのが納得だな。
……凪が美人なのは事実だし。うん。
場所はマンションの向かい。凪の両親が経営している喫茶店。
「えー。挨拶が遅れて、申し訳ありません。201号室の、荒谷諭です」
ぺこりと頭を下げた。自分が知り得る限りの礼儀を尽くしたつもりだ。
「はい。荒谷さん。えっと、マンションに入居された時と、喫茶店で何度かお会いしたことありますね」
「はい。いつもお世話になっております」
とても丁寧な口調だ。思わず、最初から低かった腰が地面にめり込んでしまいそうだ。頭を下げたらそのままクレーターでも作りそうだ。
目の前に置かれたココアが美味しいのはわかっているが、緊張で手を伸ばす気になれない。
隣に座る凪は静かなものだ。
構図だけ見れば、「娘さんを僕にください」とかいう定型文でも言いだしそうなものだ。
「凪がいつもお世話になっているね」
深みのある渋い声だな。お父さん。羨ましくなるくらい良い声だ。なんて恵まれた両親なんだ、凪。
「む、むしろお世話になっているのは俺の方というか。はい」
「凪がやりたくてやっている事だからね。僕たちも嬉しいよ。これからもどうぞ付き合ってあげてくれ」
……凪、どういう説明したんだ……。
隣に座る、さっきから一言も発しない凪を見る。
こっちの会話に興味も向けず、ずっと窓の外を見ていた。
少し遡り、俺がどうやってこの会合を取り付けたのか。
「凪の親に会わせてくれ」
「? なんでですか」
「流石に心苦しい」
「?……今行けば二人ともいますよ、喫茶店」
という話だったので、慌てて着替えて夕飯の仕込みをしていた凪に連れられ、この話を凪に持ちかけようと思った時点で、用意していたものを持ってここに来た。
改めて顔を引き締める。家にあったもので、一番おしゃれな紙袋から取り出したものをテーブルに並べる。
「これ。あの、今までの食費、とあとは、俺が好きなお菓子、是非食べてみてください」
「あぁ、ありがとう。お金はいらないかな。学生からそこそこのお金もらうのは、嫌だからね。お菓子の方はいただくよ。おしゃれなお菓子だね」
母親がよく、誰かの家を訪れる時、持っていくお菓子を見つけたので買った物だ。
あの人が選ぶなら、見舞品として出すものとして、外れの筈か無い。
封筒が戻される。
何となく予想はついてた、こうして向かい合って座った時から。
「……凪に自由にさせる意図は、何ですか?」
その言葉に、大人二人は、笑みで答えた。
どこか後ろめたいような。そんな。
ここで無理に聞き出すのは良くない。そんなことは俺でもわかった。
「挨拶だけでも、できて良かったです」
「いえいえ。こちらこそ、ありがとう」
お礼を言われる意味が、わからなかった。
「なぁ、凪」
「はい」
「今更なんだけどさ。俺は、君の何を救ったんだ」
そう、俺は聞くべきだった。最初から。
なぜ今まで聞かなかったのだろう。いや、俺がこの子に興味を持ったから、気になったのだろう。
「優しさに絶望した私に、優しさは捨てたもんじゃないって。世界は、人は、もっと優しいんだって、教えてくれました。人は、醜いばかりじゃないって、教えてくれました。神薙先生の物語は、優しい。とても、とっても大好きな優しさでした」
「何があったって言うんだよ。お前」
「今は、話したくないです」
スッと、凪の顔から表情が消えた。感情が奥に引っ込んだような、整った顔立ちは人形のような不気味さを醸し出して、そしてすぐに元に戻る。
「荒谷さんは今日はバイトですよね」
「あぁ、まぁ」
シフトを確認すると、うわ、俺の負担大きくねこれ。
「……ものすっごく気が重い。……そうだ、お前、影山って人知らない? めっちゃおどおどしてて、公園でシーソーで一人で遊ぶ感じの子。市川の彼女なんだけど」
「……なんですか、そのカオスな子。何年生でしょう?」
「知らん」
確かに、二、三年生だったら一年生の凪が知らないのも無理は無いか。
「聞いてみるか……」
「知り合いの方なのですか?」
「同じバイト先」
「……うち、バイト禁止ですよ」
「あっ、やっぱり? 凪の場合は家の手伝いだもんな」
「はい」
うーん。ますますわからない。
「まぁ、うちの高校でこの辺住んでいるなら、確実に電車登校なので、バレにくいと言われればそうですし、先生がこの近辺に住んでいないのは確認済みです」
「へぇ」
何故知っている。
まぁ、先生の家をなぜか知っている奴って、たまにいるよな。
凪の綺麗な手が差し出される。
「さて、荒谷さん。今日の分の短編は?」
「こちらにどうぞ」
流石に毎日毎日心臓に悪い命令されるのも嫌なので、たまには妥協を覚える。
「……ふむ」
凪は印字された紙に目を落とし、座って読めば良いのに、じっと立ったまま動かない。
「うん。はい。そうですね」
そうしてしばらく。反応はこれである。
どこか困った顔で、一つ頷く。
「荒谷さん。作者が自己完結してどうするのですか? と」
「はい」
「これ、荒谷さん以外結末理解できないのではないでしょうか?」
「おっしゃる通りです」
「こういうことって、きっちりわかる人にはわかる。解釈できるよう何かしら有名な哲学的思想とか、そういうのを匂わせて書くものですよね」
「はい」
凪の説教。情けない事にぐぅの音も出ないほどに正論だった。
それでも締めくくりはいつもこの一言。
「明日も、期待しています」
ため息を吐く。
彼女の期待を裏切らないものを用意しようと思ったけど、それでも、能力がついてこようとしていなかった。一度枯れた泉に潤いは戻らない。
「くっ、ハハッ」
「? 急に笑って、どうかしました?」
「あぁ、どうかしてる」
自分の無様さに、笑ってしまう。
「とりあえず。夕飯食べましょう。用意できてますから」
「ありがとう」
「最近なんか、素直ですね。荒谷さん」
「あぁ」
そう思う。自分でも。
「ちゃんと、応えるよ」
こうまでしてくれる子の期待を裏切ってしまおう、そう思うほど、自分は落ちていなかったことに、安堵した。
バイトが終わって、凪が夜食を用意してくれて、そして、一人になった。
今日なら、いける気がした。荒谷諭を、神薙として殺すこと。殺意が溢れそうだ。
もう二度とできないと思っていた。
やりきったと思えていた時、もうこの行為とは一生、おさらばすることになったと思っていた。
でも、できてしまいそうなんだ。
展開に詰まった時、何をやっても、あの喫茶店に行っても駄目な時の、「我が家のメイド。」を書き上げた時にできなくなってしまった奥の手。
不満、不条理、理不尽、怒り、悲しみ。溢れだしそうなこれらを解消しようと、心はざわめき、激しく蠢く。
死にたくなるほどに自分を追い込む。
殺してくれと無意識に願うほどに、追い込む。自己否定を重ね、存在レベルまで自分を否定し尽くす。
負の連鎖から生まれた感情のナイフで、自分を突き刺す。
「ふふっ、ははっ」
できた。俺はまだ、世界に対して不満を抱えていた。満足していなかった。
めった刺しにして、あふれ出た血は、言葉になる。
言葉を連ねて、物語を紡ぐ。
身体を起こす。気分は最悪、けれど、書く上でのコンディションは最高だ。
この時に書く文は、岩壁に字を掘るなんて苦しいものでは無い。
血に指を浸す。インクはいくらでも溢れて来る。
枯れた想像の泉は赤く染まる。
「書けよ。神薙。お前なら、これだけやれば、できるだろ」
差し出せるものなんて、自分自身だけだ。神薙という
むしろ、それだけで済むんだ。
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