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一瞬悪戯かと思った。


モニター画面にはエントランスの風景しか映っていなかったから…

だから…かな、妙な胸騒ぎを感じた。


俺は通話ボタンを押すと、


「はい…」


インターホンの向こう側に恐る恐る声をかけた。

…が、返って来る筈の声はなく…


やっぱり悪戯か…


通話ボタンに指をかけたその時、


「私よ。大事な話があるの。開けてくれない?」


聞き覚えのある声と、真っ赤に染められた長い爪で、長く伸ばした黒髪を掻き上げる彼女の姿が、モニターの小さな画面に映し出された。


どうして…


「何の…用だ…」


このタイミングで現れた彼女に、苦々しく言い放つ。

でも彼女は気にもとめていない様子で…


「言ったでしょ? 大事な話がある、って…」


爪と同じ色をした唇の端を持ち上げた。


その表情に、俺の背中を冷たい物が伝った。


開けちゃいけない…


理由は分からない…、でも根拠のない予感だけが、俺にドアを開けることを躊躇わせた。


「俺には話すことはない。すまないが帰ってくれ…」


そうだ… 、彼女が何を言おうと、俺には話すことなんて何も無い。


それに俺には、何を於いても守りたい智との約束があるんだから、ここで無駄な時間を使うわけにはいかない。


「頼む…帰ってくれ…」


俺達はもう終わったんだ…、だかもう二度と俺の前に現れないでくれ!


何度目だろう、そう願ったのは…


なのにカ彼女は、そんな俺のささやかな願いをも打ち砕くような一言を言い放ったんだ…


「私、妊娠したの。貴方の子よ…」


と…


一瞬、目の前が真っ暗になった。


確かに彼女とは八年も付き合って来たし、肉体関係だって当然あった。


だから彼女が“妊娠”と言う言葉を口にすることは、何ら不思議なことでは無い。


だけど…!


「この間会った時は、そんなこと一言も…」


「そうね…、あの時はまだ私も半信半疑だったから…。そんなことより、早く開けてくれないかしら? 色々話し合わなきゃいけないでしょ?」


モニターの中で、彼女が妖しく笑った。




沈黙のまま、時間だけが虚しく過ぎて行った。


ふと窓に視線を向けると、ついさっきまで晴れ渡っていた筈の空は曇り…


まるで、智樹との旅行に心を踊らせていた俺を嘲笑うかのように、大粒の雨が降り始めていた。






約束の時間はとっくに過ぎているし、その上この雨だ、流石にもう待ってないよな…


俺は心の中で智樹に詫びると、目の前で足を組み、スマホの上で細い指を踊らせる彼女を見上げた。


「それで…、どうするつもりだ…」


「どうするって…、決まってるでしょ? 産むわよ。 だって貴方言ってたじゃない、子供は三人は欲しい、って…」


そうだった…


彼女と付き合っている頃は、そんな夢を想い描いたこともあったっけ…


でも今は違う。


俺の心の大半を占めているのは智樹ただ一人で…


何の補償もないし、先のことなんて全く分からないけど、それでも僅かな希望に向かって歩もうとしている。


なのにまさか…、こんなことになるなんて…


「まさか堕ろせなんて言わないわよね?」

「それは…」


彼女は知ってる…


俺が、嘘でもその一言を言えない性格だってことを、彼女は良く知ってる。


八年…だもんな、俺の性格も考えも、知っていて当然か…


「それで…今お腹の子は…」

「何ヶ月か、ってこと? そうね、丁度三ヶ月目に入ったところかしら…」

「病院には…」

「あら、疑ってるの? ちゃんとお医者様にも診て頂いたわよ? 証拠だってあるのよ?」


そう言って彼女がバッグの中から取り出したのは、所謂“エコー写真”ってやつで…


そこには、とても小さいけれど、確かに“それ”と思われる陰が映っていて…

どこにも疑う余地などないってことを、そのたった一枚の写真が証明していた。


「ね、本当だったでしょ?」

「あ、ああ…」

「どうしたの? 嬉しくないの? 貴方と私の赤ちゃんよ?」


長く伸びた爪を真っ赤に染めた指が俺の指に絡められ、そして心做しか腹回りのゆったりしたドレスを着込んだ彼女の腹に導かれた。


「ふふ、分かるかしら? パパよ?」


一時はそう呼ばれることに憧れを抱いた時期もあった。


何故だろう、今はそう呼ばれることに吐き気さえ感じる。

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