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「君には関係のないことだ…」
絞り出した声は、酷く掠れている。
「関係ないって何? 私と貴方は八年も付き合った仲じゃない…、今更隠し事とかおかしいわ?」
そうだ…、八年だ…
八年もの間、俺は脇目も振ることなく、彼女だけを思い続け、彼女との未来予想図だって描いてきた。
その八年間を無にしたのは…、一方的に終わりにしたのは、他でもない…彼女の方だと言うのに…、今更とか…意味分かんねぇよ…
「済まないが帰ってくれ…」
「随分冷たいのね? いいじゃない、もう少しこのままでいましょうよ、ね?」
赤い唇が俺の唇を絡め取り、そのまま下へ下へと降りて行く。
まるで蛇でも這っているかのような感触に、悪寒が走った。
彼女の唇が下腹部へと滑り、今にも俺の中心を捉えようとする。
俺は咄嗟に彼女の肩を両手で押しやると、それでも絡み付いて来ようとする手を払い除け、ベッドから飛び降りた。
「帰れ…」
もう二度と顔も見たくない…
「嫌よ…、帰らないわ…。ねぇ、翔真…、私達もう一度やり直さない?」
やり直す…って、何を…?
「私、気付いたの…。私、やっぱり貴方が良いの…。だから…」
巫山戯るな…
理由一つ言わずに俺をフッておいて、今更やり直したいだと?
冗談だろ…
「無理だ…。もう俺達は終わったんだ」
それに俺には今、智樹という恋人がいるし、智樹を大切にしたいとも思っている。
「頼む…、帰ってくれ…」
そしてもう二度と俺の前に現れないでくれ…
「いいわ、今日のところは帰って上げる。でも覚えておいて? 貴方はどう思ってるか知らないけど、私は貴方と別れるつもりないから…」
「どういう…意味だ…」
「相変わらず鈍いのね? そのままの意味よ」
長い睫に縁取られた目の奥が、一瞬キラリと鈍い光を放ったのを、俺は見逃さなかった。
彼女は長い髪と同じ、真っ黒なドレスを素肌に纏うと、立ち竦む俺の頬にキスを一つ残して部屋を出て行った。
吐き気がした…
俺はふらつく足でトイレに向かうと、胃の中の物を全てぶちまけた。
吐く物なんて、何もありはしないのに…
「智樹…会いたい…」
会いたくて、会いたくて…
俺はベッドサイドに無造作に置かれたスマホを手に取った。
着信履歴から智の電話番号を表示させ、コールボタンをタップ…しようと思ったが、寸でのところで指が止まった。
だめだ…、仮に智樹に会えたとして、俺はどんな顔で彼の前に立てば良いのか…
俺はスマホをベッドに投げつけ、バスルームに向かった。
一刻も早く、全身にまとわり付いた彼女の匂いと、あの気持ちの悪い感触を洗い流してしまいたかった。
シャワーを浴びてもちっともスッキリしない気持ちと頭を抱えたまま、彼女の匂いが染み付いたシーツとベットカバーを全て外し、ゴミの袋に突っ込んだ。
マンションのゴミ置き場に投げ入れた後で、替えのシーツが無いことに気が付いたが、彼女の痕跡が残る物は全て、例え目に見えない物であろうと、残しておきたくなかったから、後悔はない。
それでもまだ鬱屈とした物は胸の底に残っていたが、部屋に戻り、リビングのドアを開けた瞬間に鼻を擽った香ばしいコーヒーの香りを嗅いでいると、幾分かは気持ちが晴れたような気がした。
俺は智樹の番号が表示されたままのスマホを手に取ると、電話帳の中から彼女の番号を削除した。
未練があったわけじゃない。
ただ、八年もの間、一筋に彼女だけを想い続け、一度は真剣に結婚まで考えた相手の名前を消すのは、どうしても偲びなかった。
悪い思い出ばかりじゃない、寧ろ彼女とは良い思い出の方が多かったから…
いつか時が過ぎれは、以前のような関係な戻れるかもしれない、なんて甘い考えが、もしかしたらあったのかもしれない。
でもそれももう終わりだ。
淹れ立ての熱いコーヒーを一口啜ると、口の中にコーヒー特有の苦味と、微かな酸味が広かった。
「苦っ…」
智樹は美味いと言ってくれたが、やっぱりコーヒーはブラックより、少し甘めの方が俺的には好みだな。
カップに残ったコーヒーを飲み干し、エアコンから吹き出す冷風が直撃するソファに腰を下ろした。
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