第8章 a cappella
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理由は分からないけど、桜木さんを怒らせてしまったのは分かった。
遠ざかって行く背中に、どうして?、って問いかけたかった。
でもそれは叶わなくて…、だったら追いかけよう、って…思ったのに、何故か身体が思うように動かなくて…
ポツリポツリと降り出した雨の中、必死で声を絞り出そうとするけど、そう思えば思うほど、喉の奥がヒリヒリと痛くて、苦しくて…
そしたら、
「何してんのっ!?」
って、桜木さんの声がして…
もうその後は何がなんだか分かんなくて…
ただ、桜木さんが誤解してることだけは、なんとなくだけど分かった。
だから、玄関まで送ってくれた桜木さんを、ちょっと(?)だいぶ(?)強引な方法ではあったけど引き止めた。
そのせいで桜木さんは、ビックリするくらい見事な尻もちを着いてしまったんだけど、それだって仕方ないじゃん?
だって今の俺にはそれしか術がないんだから…
でもまさか桜木さんに抱き締められるなんて…思ってもなかったから、驚きよりも動揺の方が激しくて…
力強過ぎてちょっと苦しいのに、思いの他厚い胸板に頬を埋めていると、すごく嬉しくて…
雨のせい…だよな、濡れたシャツをキュッと握って、胸をトンと叩いた。
今まで、和人を含め恋愛経験が全くなかったわけじゃないけど、自分が抱き締めることはあっても、抱き締められる…なんてことなかったから、なんだか妙に恥ずかしくて…
俯いていると、
「大田君?」
名前を呼ばれて、咄嗟に桜木さんの手を掴んでいた。
一緒にいて、って言いながら…
そしたらさ、急に真剣な顔して「俺で良ければ…」なんて言うから、余計に恥ずかしくなって、ついでにドキドキも止まんなくって(笑)
「お邪魔します」なんてさ、律儀に断りを入れてから靴を脱いだ桜木さんの手を引いてはみたものの、さあどうしようか…
とりあえず冷蔵庫に残っていた缶コーヒーを出して、俺はメモ帳にペンを走らせた。
シャワー浴びてくる、って…
雨で濡れた身体に、ぬるめのシャワーを浴びながらふと考える。
桜木さんは俺がシャワーを浴び終えるまで待っていてくれるって言ったけど、ひょっとして勘違い…されたかな…
俺がシャワーを浴びたいと言ったのは、下心とか、もしかしたら…なんて期待をしたからなんかじゃない。
ただ、桜木さんの腕に抱き締められた時、桜木さんがとても良い匂いがしたからなんだ。
俺にはとても似合いそうもない、男らしくて…なのに爽やかな香りに包まれていると、自分が油臭いのが妙に気になって…
それに、もし俺に“その気”があったとして、抱くにしろ抱かれるにしろ、桜木さんが俺を受け入れてくれるかどうか…
今まで(多分)女しか知らない桜木さんには、相当な覚悟が必要だし、俺だって…
そんなことをぼんやりと考えていたら、ぬるいシャワーなのに逆上せそうになって、慌てて風呂場から飛び出した。
火照った身体にTシャツとハーフパンツを着て、冷蔵庫を開けるけど…
そっか…、缶コーヒー桜木さんに上げちゃったから、何も残ってないのか…
仕方なく水道からグラスに直接水を汲み、一気に飲み干すと、幾分か火照りも治まったような気がした。
俺は濡れた髪先から雫が落ちるのも気にすることなく、桜木さんの待つ部屋へ向かう(…って程広くもないけど…)と、ベッドに凭れ掛かるようにストンと腰を下ろした。
「ちゃんと温まったかい? …つか、髪…、濡れたままじゃ風邪ひくでしょ?」
貸して、と不意に伸びて来た手が俺の首に巻いてあったタオルを引き取り、パサリと頭から被せられた。
「ドライヤーは?」
そんなモンないよ…、俺は首を横に振って答えた。
「そっか…、じゃあ仕方ないね? じっとしてて?」
クスリと笑った桜木さんが、俺の頭をタオルでガシガシと拭く。
なんか俺…、初めて会った時からそうだけど、ずげえ子供扱いされてる?
俺は唇を尖らせて、タオルの隙間から見える桜木さんを睨み付けた。
でも俺の視界に入ったのは、丁度桜木さんの口元で…
少し厚めだけど、綺麗な形をした唇を見ていたら、急にキスがしたい衝動に駆られて、慌てて視線を逸らした。
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