第157話 ドMショタ、失敗する
※今回は那珂川博士目線の話になります。
日本に戻って来てから、既に二ヶ月近くの時間が経過して、僕は少し後悔をし始めている。
まだ異世界に居て、日本に帰る準備を進めていた頃、僕はみんなのためのスケープゴートになるつもりでいた。
突然異世界に召喚され、男なのに性奴隷のように凌辱され、帰国前にはクラスメイトを誤って殺してしまった……なんて、マスコミにとっては最高のカモだろう。
実際、ネット上では『尻穴王子』なんて不名誉な二つ名まで付けられて、一時はお祭り騒ぎになっていたそうだ。
僕は一生、一般人としては生活できないだろうと覚悟していたのだが、僕が思うよりも世間の関心は移ろいやすいものだった。
中東で紛争が激化する、日本人メジャーリーガーが次々と記録を塗り替える、総理大臣が辞意を表明する、どこかの知事が不信任を決議される……。
僕の父親と弁護士が連名で、誹謗中傷に対しては断固たる措置を講じると表明したことに加え、世間を騒がせる新たなニュースに流されて、僕の存在は世間から忘れ去られていった。
「こんな事なら、顔にまで傷を付けるんじゃなかったな……」
高校の授業はオンラインで行われているが、それ以外の時間に家から出歩いても、僕に注意を払う人なんて殆ど居ない。
視線を向けて来る人は、僕が顔の傷を隠すように帽子を目深に被っているのを不審に思う人ぐらいのものだ。
もし、僕の顔に傷が無く、普通に歩いていたら誰も注目なんかしないだろう。
僕が自作自演で傷を作ったのは、ただのナイフではなくてペーパーナイフだった。
一応、ナイフの形はしているけれど、刃が付いていなかった。
そんなナイフで、無理やり肉を裂いて傷を作った上に、治療方法は怪しげな血止めの軟膏と包帯だけだったのだ。
そのため、どの傷も漫画に出て来る荒くれ者の傷みたいな跡になってしまっている。
日本で治療していたら、たぶんもっと目立たない傷で済んでいただろう。
頭の悪い羽田君だったら、アニメキャラみたいで格好良いとか言うのだろうが、勉学に勤しむ僕にとっては、あまり歓迎できない傷跡になっている。
こんな傷があれば、どうしたのかと聞いてくるデリカシーの無い人間に遭遇するだろうし、傷跡が原因で僕の素性が知られてしまう恐れがある。
羽田君を殺して気が動転していたけれど、顔まで傷つけたのは失敗だった。
日本に戻って来た直後は、ただの散歩さえも両親から禁じられていた。
母親は、また異世界に連れ去られたら大変だと、本気で心配しているようだが、そうそう何度も召喚されてたまるものか。
最初は、買い物にも散歩にも母親が付いて来ていたが、さすがに鬱陶しくなって、いい加減にしてくれとガチ切れしたら、ようやく一人での外出も認められるようになった。
ショッピングモール、図書館、コンビニ、公園……ごく普通の生活をしていると、異世界で過ごした時間が悪い夢だったのではないかと思えてくる。
女子は全員、異世界での出来事なんて無かったように振舞っているし、後から帰国した田沼君と斉木君は異世界での記憶を失っているようだ。
後から帰国した男子二人については、おそらく黒井君が何らかの処置をしたのだろうが、日本に戻ってからは殆ど接触していないので、彼が何をしたのか分からない。
黒井君は表立って行動する気は無いようで、日本に戻って来てからも、何も尋ねて来ないし、何も語ろうとしない。
そんな黒井君の姿勢が田沼君は気に入らないようだが、僕は好ましいとさえ思っている。
僕も黒井君を真似て、本当に必要と感じる場合を除いて、異世界については話さないと心に決めた。
おかげで田沼君にウザ絡みされずに済むようになった。
結局、どんな突飛な出来事でさえも、時の流れが風化させていくのだと悟ったつもりでいた。
その日、オンライン授業を終えた後、僕は図書館へ行こうと家を出た。
もう顔バレ、身バレの心配もせず、帽子は被っているが普通の被り方だ。
それでも、何事も起こらないと思っていたら、家を出てから五百メートルほどの裏通りで不意に名前を呼ばれた。
「那珂川博士!」
叩き付けてくるような憎悪の籠った声に驚いて振り返ると、ナイフを手にした中年女性が立っていた。
小心者が感情をコントロール出来ずにヒステリーを起こしている姿が、僕が殺したクラスメイトに良く似ている気がした。
「尚人ちゃんの仇、覚悟しろ!」
ナイフを腰だめにして突っ込んで来ようとしている羽田君の母親に対して、僕は帽子を脱いで両手を大きく広げてみせた。
「どうぞ、貴女にはその権利がある……」
大きな傷跡が残る僕の顔を見て、羽田君の母親はハッと息をのんだ。
「貴方、その顔の傷は……?」
「尚人君と揉み合いになっていた時に負った傷です。すみません、僕に武術の心得があれば、命を奪わずに済んだかもしれないのに……」
僕の言葉を聞いて、ナイフの切っ先が少し下がったように見えた。
狂気で満たされていた羽田君の母親の瞳にも、理性の光が混じったように感じる。
「なんで、なんで殺したのよ!」
「斬り付けられて、揉み合いになって、気付いたら刺していました」
「本当に、殺す気は無かったの?」
「羽田君は、同じ悲惨な境遇を強いられた仲間ですから」
話をしている間に、僕に向けられていたナイフの切っ先が、地面に向けられていた。
「でも、なんで尚人ちゃんは貴方に斬りかかったりしたの?」
「それは、僕にもわかりません。ただ、あんな状況ではまともな精神を保っているのは本当に大変で、何かのきっかけで、お互いの立場が入れ替わっていたかもしれません」
話をしながら、僕は失敗したと思っていた。
羽田君の母親は、不意に手にしたナイフを地面に放り出した。
「貴方は尚人ちゃんを殺して生き残ったんだから、恥ずかしくない生き方をしなさい」
そう告げると、羽田君の母親は背中を向けて歩き出した。
やっぱり失敗だ、もっとゲスい煽り文句を口にしていれば、刺されていたのに。
ナイフで内臓を抉られ、死を覚悟するほどの激烈な痛みならば、僕を物足りない日々から救い出し、強烈な快感を味わえていたかもしれない。
ただし、道端で自慰行為に耽る訳にはいかない。
命に関わる怪我を負いながら、人目につかない場所を目指す。
考えただけでも勃起しそうだったが、そんな時間は訪れない。
「はぁ……もっと色々想定しておかないと駄目だな……」
僕は大きな溜息を残して、図書館へ向けて歩き始めた。
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