4th CASCADE

愛する人を叩くということがどんなに気持ちよいかをぼくは知った。

もう痲依を叩かずにはいられない。

目を瞑り、彼女を叩く自分を想像する。それだけで勃起して、尿道の横にある精液の流れる管がどくどくと脈打ち、射精してしまいそうになった。

痲依は今はまだ叩かれることに抵抗があるだろうけれど、やがては愛されているがゆえに叩かれるのだと彼女も気づくだろう。そして叩かれるたびに彼女はぼくを愛し、ぼくもますます彼女を愛する。

やがて彼女を叩かなくてもよくなったとき、彼女は「彼女」となり、ぼくたちは世界中で一番愛し合う男女になるだろう。

ぼくは今日も彼女の頬を何度も平手打ちした。

ぼくがよく知る「彼女」の一人称はわたしではなく、麻衣という「彼女」の名前であったし、甘えたしゃべり方をするがそれは自然なものであって男に媚びを売るようなものではなかったからだ。標準語の中に北海道の訛りが少しだけ混じる話し方も教えたがなかなかできるようにならない。

なぜぼくが教えた通りにできないのか。

痲依はまだ「彼女」になり切れてはいない。

何度目かの平手打ちを彼女が避けようとしたため、ぼくは平手を彼女の鼻にぶつけてしまった。

きれいな鼻血が垂れて、床にぽとりぽとりと落ちた。

ぼくはまたとても良い気持ちになって興奮した。

床に垂れた血を舐め、彼女を押さえつけて鼻から流れる血をぼくは舐め続けた。




ぼくがはじめて【カスケード】を使ったのは、小学四年の春だ。

各学年二クラスずつしかない田舎の小さな小学校で、児童は四年生になると必ずいずれかの部活動に所属する決まりがあった。妹も姪も私立の小学校に入学したが、ぼくはお受験に失敗した負け組のこどもだった。受かったのはなぜか滑り止めに受験した公立の小学校よりもレベルの低い学校だけで、そんなところに六年間も通うのは馬鹿げていたからぼくは公立の小学校に通っていた。

ぼくにはどうしても入りたい部活動があった。私立の小学校に通う妹が、彼女が医者から運動を制限されていたからだと思うが、ぼくがバスケットボールをする姿を見てみたいと言ったからだった。

とはいえ、ぼくの通う学校にはバスケ部の他にはサッカー部と体操部、鼓笛部しかなかった。野球部やソフトボール部がなかったのは、グラウンドが狭かったということもあるだろうし、そんなに野球がしたければリトルリーグに入ればいい、ということだったのだろう。陸上部は体力測定の結果から大会一ヶ月前に集められるという形をとっていた。

毎年男子児童の希望はバスケかサッカーのどちらかに集中する。

担任の教師が児童たちの挙手で希望を取ると、その年の四年生の人気はバスケ部に集中していた。まだスラムダンクの連載すら始まっていない時代の話だ。

サッカー部の当初の希望者はわずか三人で、彼らは早々と入部を決めた。




誰も譲る気などなかった。

友達同士でいっしょに入ろうと決めていた者たちですからバスケ部に入部するためなら友達さえも蹴落とさんばかりの勢いだった。負け組ゆえに同級生といっしょにされるのがいやだったぼくには友達などいなかったから、すぐにやり玉にあげられた。

このままではサッカー部に入部させられてしまう。

妹にぼくがスリーポイントシュートを決めるところを見せてあげると約束したのに。サッカーじゃどんな遠くからシュートを決めても一点しか入らないじゃないか。

バスケ部に入りたい、バスケ部に入りたい、バスケ部に入りたい、みんなサッカー部に入ればいいじゃないか、サッカー部、サッカー部、サッカー部……

ぼくはただそう考えていただけだった。

しかし気がつくといつの間にかバスケ部の希望者たちがサッカー部の入部を取り合っていた。

ぼくは困惑している教師に、

「先生、ぼくのバスケ部の入部は決まりということでいいですか?」

と訊ねた。

教師は、首を縦に何度も振った。

これがぼくの、覚えているかぎり、最初のカスケードだ。

自分の奇妙な力に気づき、自在に使いこなせるようになってはじめて、この奇妙な出来事がぼくの力によるものだと気づいたのはもう何年か先のことになる。




痲依は順調に「彼女」に近づいている。

まだ幼いせいだろうか、わずか数日で醜い名古屋訛りの標準語は美しい北海道訛りに変わりつつある。大人ではこうはいかない。

一人称の「わたし」はすっかり「麻衣」に変わり、ぼくにあまりに自然な甘えた口調で話しかけるようになった。

「ねぇもっと、棗さんのことを麻衣に教えて。麻衣はもっと棗さんのことが知りたいの」

食事のあとで、テーブルの上に置いたぼくの手をとり、撫でながらそう言った。昨日から彼女に与えていた食事は、残飯やペットフードで、まだぼくと同じ食事を与えてはいない。点滴はもうしていない。

「料理の味はどう?」

「すごくおいしいよ、麻衣おかわりしたいな」

この二週間あまりで痩せはしたが、顔は変わらないというのに、もう痲依から彼女を感じることは少なくなった。

以前の彼女を知る者は、短期間でここまで人は変わってしまうものだろうか、と自分の目や耳を疑うだろう。

しかしまだだ。

まだ痲依の中に「彼女」が生まれ、育ち始めたに過ぎない。

痲依を「彼女」が支配し、彼女から痲依を感じなくなるまではぼくと同じ食事を与えるわけにはいかない。

ぼくが煙草に火をつけると、

「麻衣は棗さんのこどもがほしいから、麻衣の前で煙草は吸っちゃだめだよ」

と、頬を膨らませて怒る。

「女の子だといいね、棗さんと麻衣のこどもだからきっとすごくかわいいと麻衣は思うよ」




ぼくの二度目のカスケードは、中学に上がってすぐのことになる。

ぼくはまたも受験に失敗し、自分の頭のあまりの出来の悪さにほとほといや気がさしていた。まだカスケードに気づく前であったから、受験会場でカスケードを使い不正解に導くなどという悪知恵は働くことはなかった。実はその悪知恵は高校受験と大学受験で使い、本来なら合格できるかできないかは神のみぞ知るというボーダライン上の成績でありながらも一流の高校や大学に主席合格した。そういえば教員採用試験でも使った。

二度目のカスケードに話を戻そう。

プライドの高さが邪魔をして同級生たちになかなかなじめなかったぼくは、入学から一ヶ月もしない頃からいじめを受けるようになっていた。

ぼくの机から物がなくなることが目立ち、最初は忘れたか落としたかしたのだろうと気にもとめていなかったが、やがて同級生の女子たちがぼくを奇妙なあだ名(何と呼ばれていたかはもう忘れてしまった)で呼んでいることに気づき、そしてぼくの机に卑猥な落書きをある朝見つけたとき、ぼくはこれがいじめというものかと確信した。

いじめは別に気にならなかったが、パスケースの中に入れていた妹の写真が体育の授業の後着替え終わると見あたらず、教室の後ろの黒板に磁石で張り付けられ、妹を罵倒する言葉がいくつも書かれているのを見たとき、ぼくの中でカスケードが発現した。

ひゃひゃひゃと汚物を喉に這わせているかのような笑い方をする、背が低くずるがしこく強いものの後を常に追う金魚の糞をいじめろ。

深呼吸してそう思った次の瞬間から、カスケードが同級生たちを支配した。

やがて「糞」が登校拒否をはじめ、いじめの存在は教師の知るところとなったが、不思議なことにリーダー格が誰なのかわからない。そしてぼくのいじめの扇動者だった「金魚」が遺書を残して自殺した。

遺書には、なぜ小学時代からずっとかわいがっていた糞をいじめなければならないのか自分がわからない、すまない、と書かれていたそうだ。

ぼくは自分の能力に気づき、カスケードと名付け、興奮で震えがとまらなかった。

三度目のカスケードについては、ぼくはあまり語りたくない。




もう三週間家の外に出てはいなかったから、ぼくは買い置きしていたたばこを切らしてしまった。痲依の中の「彼女」はぼくにたばこをやめろと言った。「彼女」の言う通り、やめてもいいかもしれない。ここのところ痲依に付きっきりで、ぼくは一日の終わりに思い出したように何本か吸う程度だったからだ。仕事ももう三週間無断欠席しているからストレスなど溜まりようもなかった。

たばこをやめるかどうかは別として、食料も切れかけていた。飲み物ももうない。

「麻衣、ぼくはこれから買い物に行こうと思うんだけど、麻衣はひとりで大人しく留守番できるかな?」

ぼくはもう、「彼女」の名で痲依を呼んでいた。もし連れていくなら、「彼女」はトランクの中に押し込めるしかない。買い物をいっしょにはできるはずもなかった。もしショッピングモールで痲依が逃げだそうとしたら終わりだ。

「やだ、麻衣もついてく」

「彼女」はそう言って、こどものように手足を振り回した。その腕がテーブルの上に置かれたグラスに当たり、床に落ちて割れた。

ぼくは一番に「彼女」がガラスの破片で怪我をしていないか確かめる。すると「彼女」の方がぼくの足に突き刺さった破片を見つけてしまった。

「棗さん、ごめんなさい」

泣きながら謝られてしまった。

「彼女」には怪我はなかった。ほっと胸をなでおろしたときには、ぼくは彼女を叩くタイミングを失ってしまっていた。

「麻衣はお留守番していなさい。わかったね」

怒ったふりをしてぼくはそう言って何重にもかけられた鍵をひとつずつ外して、家を出た。

これで「彼女」は内側から簡単にはずすことのできる鍵がひとつだけかけられた家にひとり残されることになる。

そのことに気づいたぼくはあわてて引き返し、「彼女」を姪のベッドに手錠で縛り付けた。

そして家を出た。




買い物に出かけている間、「彼女」のことが気になってしかたがなかった。だってぼくたちが離ればなれになるのは、あの日以来二度目のことだったから。あの日学校の時計台にまだ「彼女」ではなかった痲依を閉じこめた数時間ほど、長く感じた時間はなかった。

家に戻り、玄関ドアに鍵を差し込むと、鍵を回さずともドアは開いた。

鍵は開けられていた。

すべてが終わってしまったとぼくは絶望した。

手錠がゆるかったに違いない。きつく締めるのはかわいそうだとあのときぼくは思ってしまった。

今頃痲依は交番で保護されているに違いない。

勢いよく交番に飛び込んだ彼女が息を整え、誘拐された事実を警官に話したなら、すぐにでもパトカーはこの家を包囲するだろう。

逃げようとは思わなかった。

こうなることはわかっていたことじゃないか。

結局買ってしまった煙草に火をつけ、ぼくはドアを開けた。

しかし、「彼女」は靴箱にもたれて座り、泣いていた。

顔を上げて、ぼくを見つめる。

「棗さん?」

勢いよくぼくの胸に「彼女」は飛び込んできた。

「ごめんなさい、棗さん、麻衣ね、ううん、わたしね、逃げようって思ったの。だから手錠からがんばって腕を抜いて、そのドアの鍵を開けたの。でもドアを開けようとしたら、どうして逃げなくちゃいけないのか、麻衣にはわからなくて、こわくて、」

もういいよ、麻衣。

ぼくはきみさえいてくれたら、もう他には何もいらない。

ぼくはくわえていたたばこを、手のひらでもみ消して、箱の入った袋ごと、ごみ箱に放り込んだ。

明日は燃えるゴミの日だ。

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