最終章 オリジナルなカラーで
ぼくは病室でひとりバストトップとアンダーのアルバムを聴きながら、さまざまな事件関係資料を前にロリコは一体何故こんな事件を引き起こしてしまったのか考えていた。
それはロリコの誕生日が1986年11月29日であったこと、そしてあの日起こった日本犯罪史上はじめてのカスケード犯罪であった新宿アルタ前に並んだ裸の女たちが皆車にひき殺された事件、さらには女たちの中にはひとりだけ妊婦がおり、報道はされなかったが双子の赤ん坊のうちのひとりが奇跡的に助かっていたこと、ロリコに母親はいなかったことから、ある程度は想像がついた。
その赤ん坊こそがロリコであり、そしてロリコはカスケード使いであったために、母親と姉か妹の命にかえても自分を守らせて死を免れたのだろう。妻と死に別れた父は内倉学の母と再婚し、そしてロリコと学は兄弟になった。
だが、所詮は他人だ。
それなりに兄妹愛はあったのだろう、学のバンドに参加したものの、バンドメンバーたちのけしてプロにはなれそうもない才能(片羽真吾はまごうことなき天才だが)に落胆したロリコはある日カスケード能力に気づき、あるいはとっくに気づいていて、彼らを利用して少女ギロチン連続殺人事件を行うことを思い立ったのだろう。
彼女が学たちに首を切らせ続けたのは、彼女の母が頭部をタイヤに踏みつぶされて、死体は首から上がなかったということが関係しているのだろう。
動機については、バストトップとアンダーの楽曲の中に一曲だけあるロリコの作詞から推測できる。
―――アジテーションに繋がらないカスケードに一体何の意味があるの
カスケード使いにはカスケード使いなりのぼくたちにはわからない悩みがあるのだ。
カスケードは本来、誰にも悟られず集団の心理を思い通りに操る力だ。しかしそれは限られた範囲においてのみであり、国家規模どころかひとつの街規模でさえ行うことは不可能だとされている。たかだか学校の教室程度の数十人の心理を動かしたところで、カスケードもカスケード使いもアジテーションやアジテーターつまり扇動、扇動者には繋がらないということなのだろう。
ロリコはカスケード使いとして生まれてしまった自分に12歳で絶望していたのだ。
自分は無意味な力を持って生まれたと感じるロリコにとって、世界中にカスケードの対象となった人間が溢れてしまっていることが許せなかったのだろう。彼女たちほど無意味な存在は彼女の世界にはなかったのだ。
ロリコもまたカスケードに翻弄されて生きていただけなのかもしれない。
ロリコは今どこにいるのだろう。
ぼくは窓の外に広がる街を見た。
CRTの班長が見舞いに来てくれた。
バスアンのメンバーの前歯に差し込まれていたり、ロリコの部屋から大量に見つかった差し歯が一体何の骨で作られたものなのかいまだにまったくわからないのだそうだ。
性染色体の数がひとつかふたつ多い。
ヒトよりはダウン症のヒトかオリバーくんに近いのだという。未確認の類人猿かあるいは伝説上の神の骨かもしれません、と彼は言った。彼は便宜上「カスケドリアの骨」と名付けたのだという。
しかしその骨について研究することはカスケードやカスケード障害を研究することにもなり、数年後のCRTの活躍やカスケード医療の発展が楽しみだと彼は言って、そして帰っていった。
マユがぼくの母親のように毎日見舞いに来てくれている。それはとてもうれしい。
展望台での安田刑事とマユの感動の場面を目の当たりにしてしまったこともあって、遠慮してしまいがちなぼくにマユは今まで通り接してくれる。看護師がしてくれるような下の介護までマユはしてくれるのだ。
マユに見られながらする小便はなんだか変な気持ちだった。小便が終わった後もマユはなかなかぼくのものをぼくに返してくれない。
恥垢がたまらないように濡れティッシュで拭いてくれているのだ。
マユの手のなかでぼくのものは大きくなり、ぼくはたまらなくイッてしまいそうになる。
「マユね、ゲロくんのおちんちんは大好きだったよ」
そんなことをマユはぼくに言う。
「ぼくのことは?」
「別に。だってマユはゲロくんのママなんでしょ」
マユはときどき残酷だ。
ぼくとマユはバスアンのアルバムを聴きながら手を繋いで寝た。
いつかはぼくたちはおとなになってしまって会うことさえできなくなってしまうのだろう。
ロリコももういない。涙が溢れてきた。
夢にマユとロリコが現れた。
ふたりとも物憂げな表情でぼくに何かを言っていたが、夢の世界は風が強く聞き取ることはできなかった。
目を覚ますと、マユはもう病室にはいなかった。
安田刑事が連れ帰ったのだろう。
名古屋と東京で100人近い犠牲者を出させた上に、たかが12歳の少女ひとり捕まえられなかった、とマスコミが連日警察の無能ぶりを騒ぎ立てている。
マユが古本屋で1冊百円で買ってきた表紙が妙にべたべたしているコミックの単行本をぼくは読みながらテレビのワイドショーを聞いていた。大長編ドラえもん「のびたと鉄人兵団」だった。よりによって86年の映画作品の原作だ。ぼくが母と最後に観た映画だった。
「よりによって何でドラえもんなんだよ」
「マユが読みたかったからだよ」
コメンテーターの中には少女ギロチン連続殺人から始まった一連の事件はカスケード犯罪だったというのは警察が無能ぶりを誤魔化すためにでっちあげた嘘だ、と言い出す者もいた。カスケードはプラズマによるものだと力説する大学教授もいた。
ワイドショーのコメンテーターたちはカスケード否定派と肯定派に分かれているようだった。世界が終わらなかったことでノストラダムス研究家たちの顔を二度と見ることもないだろうと思っていたが、どうやら皆今度はカスケドリア研究家になったらしい。
CRTの班長が名付けた例の差し歯「カスケドリアの歯」は何故か間違ってテレビ局に伝わってしまったらしく、「カスケドリアの葉」となっていた。
さまざまな宗教の神話の時代は超古代文明カスケドリアを指しており、カスケドリアの葉とは人類の歴史とすべての人類の人生が刻まれた葉なのだという。
そういう古文書と葉っぱが死海とかインドの方にあったよなぁとぼくはドラえもんを読んで目頭を熱くしながら笑った。
ノストラダムスの研究家であった頃から彼らの想像力の貧困さはあまりにもひどく、少しは藤子不二夫先生を見習えよとぼくは思う。
マユは「パラレル西遊記」のアニメコミックを読んでいた。この作品だけは映画オリジナルで原作コミックがないのだ。
「すみません、たった今カスケドリアのハは葉っぱの葉ではなく、ティース、歯であったことが判明しました。どうもスタッフに手違いがあったようです。テレビの前の皆様、申し訳ありませんでした」
「え? ていうことはカスケドリアの葉っぱなんてのはないってことですか?」
「そうですね、そういうことになりますね」
「じゃぁ、肯定派の皆さんが仰ってたのは出鱈目だってことですか?」
「どうなんですか? 肯定派の皆さん」
肯定派は誰も何も言えなかった。どうも否定派にしてやられてしまったらしい。
おそらく前もって嘘の情報を流していたのだ。
「やっぱりね、この人たちはノストラダムスの頃からいい加減なこと言って世の中を混乱させることが目的なんですよ。もう誰もだまされませんよ。いいですか、カスケードなんてものが存在するわけないじゃないですか」
「ねぇゲロくん、窓の下に何か落ちてるよ」
花瓶の水を換えながらマユが病室の窓のはるか下の地面に、きれいな青い色の箱が落ちているのを見つけた。病室は四階にあり、もちろん降りていかなければいけない。
「拾ってきてもいい?」
ぼくはいいよと笑った。
「ひょっとしたら神様とか天使からの贈り物かもしれないね」
マユはうれしそうに病室を出て行った。
天使がいるとするなら、それはマユであり、堕天使がロリコなのだろう。
彼女が病室にいないだけで、ぼくはとてもさびしい。
きれいな青い箱を拾いに行ったマユは、両手いっぱいに七色の箱を抱えて帰ってきた。
「そんなに落ちてたのか」
マユは首を横に振った。ううん、おじさんがくれたの。
「おじさん?」
「箱をくれるおじさんが病院のお庭にいたの。青い箱を落としちゃった探してたんだって。箱を返してあげたら、拾ってくれたお礼だよっていっぱいくれたの」
箱をくれるおじさんがいるなんて聞いたこともなかった。別の棟には安田フミカが入院していた精神科病棟があったはずだ。そこの患者なのかもしれない。
箱には蓋があり、箱によって面の形はさまざまで正方形もあれば長方形もあり、平行四辺形もあればひし形や台形、円もあった。
「これね、どれもすっごく重いの。なにが入ってるのかなぁ」
マユは箱を窓の前に並べながらそう言った。
「開けてみたらいいじゃんか」
マユは頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「ゲロくん、バカ?」
ぼくも同じ顔をした。
「マユね、この箱は神様か天使の贈り物で、箱をくれたおじさんはその使いだと思うの」
「だから?」
「開けたらマユもゲロくんもお年寄りになっちゃうかもしれないよ」
それは玉手箱で、それをくれたのは竜宮城の乙姫さまだ、とぼくは思ったけれど言わなかった。
「開けたらだめだと言われたの?」
「ううん、言われてない。でもマユは開けたくないの。こういうのはプレゼントといっしょで、開けるまでが楽しいの。中身がわかったらつまらないじゃない」
だから、マユはもう帰らないといけないけど、ゲロくん勝手に開けちゃだめだよ。開けたらもうお見舞いにも来てあげないし、口も聞いてあげないからね。マユはぼくの頬にキスをした。
開けようにも、ぼくはベッドから起きあがることもできない。
それほどの重傷で、よくロリコや安田刑事を探し回ったものだ、とぼくは思う。
主治医も、この出血で死なないなんて人間じゃないですよ、と失礼な驚き方をしてくれた。
動かないはずの体を動かしてしまうほどの必死さがぼくの中にもあったのだとぼくは動かない体で関心していた。あの必死さは悪くない感じだった。生きているという感じがした。男はやはり死に直面しなければ生き甲斐を感じられないのだろうか。
箱。
あの中には玩具か人形でも入っているのだろうか。
ぼくは手を伸ばした。
手は箱には届かなかった。
警視総監の娘がぼくの見舞いにやってきたとき、ぼくはマユが構えた溲瓶に小便をしている真っ最中だった。
それまでは母のようだったマユは彼女の顔を見た瞬間、いじわるそうな笑みを見せて、いつも以上に甘えた口調でぼくにしゃべりかけながら、小便を終えたぼくのそれをいつものように拭いた。
「ナツ夫さん」
と警視総監の娘はぼくの名前を呼んだ。
「看護婦さんじゃないみたいだけど、その子妹さん?」
マユを指さしてそう言った。
「ナツ夫、あの人誰?」
マユはよりによってこんなときにぼくをゲロとは呼んでくれない。とっくに拭き終わったはずのぼくのそれを握ったまま、指先で弄びぼくを感じさせようとする。
そしてぼくの体は敏感に反応してしまう。
「警視総監の娘だよ」
とぼくはマユに言った。
「ナツ夫さん、この子誰なのよ」
「マユはナツ夫のカノジョだよ」
「ばっかじゃない。あなたみたいなこどもをナツ夫さんが相手にするわけないじゃない」
「あなた知らないの? ナツ夫がロリコンだって」
ねー? とマユはぼくに笑いかけた。マユの手の中でぼくのそれはちぎれてしまいそうなほど強く握られていて、ぼくは何度も首を縦にふった。
「この人でしょ? 例の頭の悪い帰国子女で」
「なっ」
「不感症のかわいそうな婚約者って」
「何言ってるの、こどものくせに」
警視総監の娘がマユに手をあげようとした。
「うるさいよ、おばさん。今頃見舞いにきて婚約者面するなよ。帰れよ」
だからぼくはそう言った。
ふたりとも驚いた顔をして、すぐにマユはうれしそうに笑った。
「マユ、はやくパジャマをはかせてくれよ」
「はーい」
警視総監の娘は手ぶらで、手持ち無沙汰に立っていたが、やがて何も言わずに出て行った。見舞いの花ひとつ持ってきてはいなかった。
「ねぇ、マユちょっといやな女の子だったかな」
マユはりんごを剥きながらそう言った。
「そんなことないよ」
ぼくはすべて演技だとわかっていたけれど、マユがぼくのものになってくれた気がして嬉しかった。
「ゲロくんもう出世できないんじゃない?」
「出世なんてできなくてもいいよ」
マユさえいてくれたら、とは続けなかった。
マユは今日も箱をもらってきた。
七色から始まった箱たちはいつの間にか増え、16色、32色、64色と色鉛筆の数になり、もうすぐ100個になろうとしている。
箱はマユが「箱をくれるおじさん」からもらってくるだけではなく、ぼくが眠っている真夜中にその男が運んでいるとしか思えなかった。
病室の窓際は箱で埋め尽くされてしまっていた。
箱の色や形はすべて他のどれかに似てはいたが、どれひとつとして同じではなかった。
マユはプレゼントをもらうこどもに過ぎないが、一体その男は何のためにマユに箱を届けているのだろう。箱はどれも重いのだという。
箱には何が入っているのだろうか。
マユがまた箱をくれるおじさんから箱をもらってぼくを見舞いにやってきた。
いつもは両手いっぱいに抱えているはずの箱は、今日は車椅子のシートの上に載せられていた。箱は10個以上あった。
マユは泣いていた。
「おじさんがね、今日でマユに箱をくれるのは最後だって」
だからマユは泣いているのだろうか。
ぼくに会えなくなってもマユは泣いてくれるのだろうか。
「最後だからってたくさん箱をくれて、それから乗っていた車椅子もマユにくれたの」
「乗っていた車椅子って、そのおじさんは足が悪かったのかい?」
「うん、そうだと思ってたんだけど、車椅子から降りてどこかに歩いて行っちゃった。それからね、これをくれたんだ」
箱を窓際に積み終えたマユがぼくに差し出したものは、差し歯だった。
裏側には、パラドックスと彫られていた。
カスケドリアの歯だった。
少女ギロチン連続殺人事件はまだ終わってはいなかったのだ。
「おじさんがね、まだ箱の中を見てないんだったら、一番綺麗な青い箱だけは最後に開けなさいって。マユが拾ったその箱にいっちばん大事なものが入っているんだって」
まだ起き上がれないはずのぼくの体に、もう一度力がみなぎってくる。ぼくはベッドから転げ落ちるように降り、箱のうちのひとつを手にとった。
確かに重い。血のように赤い箱だった。
蓋を開けるとそこには、鋭利な刃物で切断された、とてもきれいな小さな手首が、ドライアイスといっしょに詰め込まれていた。
ぼくとマユは青い箱だけを最後に残して、ぼくが眠っていたベッドの上に箱の中身であったバラバラ遺体の部品を並べた。
青い箱を除けば箱は全部で107つあり、そのすべてに部品は詰め込まれていた。小さな箱には小さな部品、大きな箱には大きな部品。それはちょっとしたパズルのようなものだった。
部品はちょうど人ひとりを構成した。
二次性徴の途中の少女の体だった。
青い箱には生首が入っているのだろう。
ぼくには青い箱を開けなくともその少女の体が一体誰のものであるのかということくらいわかった。
ロリコだ。
ロリコはパラドックスではなかったのだ。
「警察、呼ばなくていいの?」
と、マユが青い箱をぼくに差し出しながら聞いた。刑事ならここにいるじゃないか、とぼくは言った。あ、そうか、とマユは笑おうとしたけれど、うまく笑顔が作れないでいた。マユはもう何度も洗面台で吐いていた。
青い箱を受け取ることがぼくにはできなかった。
ロリコの生首を見たくなかった。なぜぼくはロリコを助けられなかったのか、その過ちを永遠に悔い続けてしまうだろうから。
「マユが開けよっか?」
マユは箱の蓋に手をかけた。
やめてくれとぼくはマユに懇願した。
だけどマユは青い箱を開けてしまった。
ぼくはそれをやめさせようとしてマユの体にすがり、そのせいで傾いてしまった青い箱から生首がごとりと床に落ちた。
やっぱりロリコだった。
ロリコは死んだ魚と同じ目で、ぼくを見つめた。
叫び声を上げたかったけれど、涙を流したかったけれど、ぼくには出来なかった。
ぼくはしばらく、ロリコを見つめていた。
こんな姿になってもやっぱりロリコはかわいいな、とぼくは思った。
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