第3話
──それから3年、彼女は〈ウィスプ〉を追い続けた。
あのあと、彼女は、自分のねぐらで目を覚ました。
「どういうことだ?」
目覚めたとき、彼女は思わず叫んでしまった。一時は死を確信したから、それを思えば全く幸運としか言いようがなかったが、それにしたってわけがわからなかった。状況を考えれば、彼女をねぐらに戻したのは〈ウィスプ〉と見て間違いなかったが、〈ウィスプ〉がそんなことをする理由が、彼女にはまったく思いつかなかった。
そして、それよりさらに奇妙だったのは、彼女がまったくの無傷であることだった。
「そんなばかな!」
彼女は、確かに、身体中に銃弾が食い込んだのを知覚した。駆け出しの頃、銃撃を食らって死にかけたことがあるから、あの感覚は忘れようがない。間違いなく、自分は全身を撃ちまくられた。だというのに、彼女の身体のどこにも、銃弾が穿った傷は見つけられなかったのである。ただし、無様にぶっ倒れたときにしたたか身体を打ちつけたらしく、身体のいくつかの部分にアザができていたが……そんなものは傷のうちにも入らない。
何がなんだか、さっぱりわからないが、とにかく彼女は死なずに済んだ。しかし、彼女の誇りと名誉は、まったく完全に傷つけられてしまった。
もちろん、彼女が公言しなければ、誰も知ることのない不名誉である。しかし、彼女自身が、己の無様さをよくよく知っていた。時分に嘘はつけなかった。10年間、文字通り命がけで築き上げてきた、
「ちくしょう!」彼女は、食いしばった歯のすきまから、押し出すように、しぼりだすように言った。そんなのはごめんだった。何がなんでもいやだった。そんなぶざまな最期を迎えるなど、冗談じゃない。父親の声が脳裡に響いた。いいか、ハニー、泣くんじゃねえよ。泣いたらおめえ、おしめえよ。涙の代わりに、ツバを吐くんだ……。
彼女は、だから、ペッとツバを吐いた。
「あの野郎」彼女は言った。「必ず見つけだして、殺してやる」
彼女にとって、それが当面の目標になった。
彼女は懸命に〈ウィスプ〉を追った。
いったい奴は何者なのか──時代錯誤も甚だしい、100年も前の
──いわく、〈ウィスプ〉は、腕利きの殺し屋やガンマンのもとに時ならず現れる、いわば殺し屋殺しである。
──いわく、〈ウィスプ〉は、誰にも雇われず、ただ自分の興味関心の赴くままに、殺し屋たちのもとを訪れ、そして試す。〈ウィスプ〉のお眼鏡にかなわなかった殺し屋は、無惨に死ぬ。
──いわく、〈ウィスプ〉の活動範囲は、全世界に及ぶ。世界中のあらゆる地域で、〈ウィスプ〉を見た、〈ウィスプ〉に出会った、という話が、犯罪プロフェッショナルや傭兵、テロリストなどのあいだで密かにささやかれている。
──いわく、〈ウィスプ〉は、シナロア・カルテルきっての腕利き
──いわく、〈ウィスプ〉は、そのときどきに応じ、姿かたちをまったく変えてしまうという。性別、年齢、人種、思うがままに変身できるらしい。
──調べれば調べるほど、〈ウィスプ〉の正体はわからなくなった。これじゃまるで、コミックスのスーパーヴィランだ。しかし、それはそうとして、そのいずれの噂についても、〈ウィスプ〉が古めかしいルーガー拳銃を持っている、ということだけは共通していた。そして、そのルーガーは、ときに青白い炎をまとうのだと……そして、過去半世紀のあいだに、謎めいた状況で殺害された世界中のトップクラスの殺し屋や傭兵の多くから、同一のルーガー拳銃から発射された9㎜弾が摘出された、という、各国警察や情報機関のあいだでささやかれる奇妙な噂にも、彼女は触れることができた。
こういう情報に触れ続けるうち、うっすらとした予感が彼女の脳裡に兆していた。たぶん、わたしは、触れてはいけないものに触れている。調べてはいけない領域に首を突っ込んでいる。この先何がどうなろうと、わたしは穏やかな最期を迎えるわけにはいくまい。深淵を覗き込む者は何とやらというやつだ。だが、それがどうした? わたしは、必ず、奴を殺ってやるのだ。それが果たせたら……そのあとのことは、そのとき考えるさ。
もちろん、それと並行して、彼女は自身の鍛錬を欠かさなかった。奴が、
そうやって日々を過ごしているうち、いつの間にか、あの夜ごと訪れていた不安な夢は、すっかり消え去ってしまっていた。
──そうして、3年の月日が経ったある日、彼女のもとに、かつて共に仕事にあたった男から、〈ウィスプ〉らしき人物が彼の今いる街の外れにいるらしい、という知らせがもたらされたのだった……。
〈ウィスプ〉は、そうした彼女のこれまでの軌跡を、全て承知しているという顔でうなずいた。
もう、ここまできたら、言葉は必要なかった。
向かい合う。銃を持つ手を、だらりと下げる。全身の力を抜いて、リラックス。だが、見る者が見れば、いつでもバネ仕掛けのように全身が躍動できるように準備万端整っているのは一目瞭然であろう。
まるで鏡で映したように、二人はまったく同じポーズで静止した。
時間が引き延ばされていく。
1秒が永遠になる。
風の音さえも途絶えた。
十字架にかけられたキリスト像だけが、この活人画めいた光景を静かに見下ろしていた。
──かさり、と何かが動く音がした。
何も知らないネズミか、はたまた小さな虫が、のこのことこの現場に踏み込んできたのだろうか。いずれにせよ、それが引き金となった。
ふたつの影は、ほぼ同時に動いた。
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