ネージュの娘

KuKi

ネージュの娘


 その少女は1人だった。


 いや、厳密には1人じゃなかった。少女の住む大きなお屋敷には、黒い服を着た大人たちが何人も何人も出入りしていて、少女の身の回りの世話をしていた。

勝手に出てくるご飯、勝手に湧くお風呂、勝手に綺麗になるベッドシーツ。少女の毎日ではそれが当たり前で、少女もそれに疑問を持っていなかった。


 それでも少女は1人だった。大人たちは少女に話しかけない。触れない。ただただ機械みたいに少女の周りを忙しく動き回る。


それに少女は、お屋敷から出たことがなかった。いつも大人たちは外から来てるようだったけれど、少女はずっと自分の部屋の窓から外にいる大人たちを眺めているだけだった。外に出ようとも、外のことを知りたいとも、思わなかった。



 いつだったか、少女は部屋を訪れた黒い服の女性に話しかけたことがあった。「一緒に遊びましょう」と。言葉遣いにも気をつけたし、昔パパのもとに訪れていた女の人がやっていたみたいにスカートの裾をつまんで、頭を下げて見せた。うまくご挨拶ができたことを喜びながら顔を上げると、彼女は顔を引きつらせていた。震える手で彼女は同じようにスカートの裾をつまんで、少女よりも低く頭を下げた。


「…申し訳ございません」


少女が初めて、他の人からもらった言葉だった。




 ある寒い朝、少女が起きると空は暗く、大人たちの気配もしなかった。窓の外に目を凝らすと、雪がちらついていた。少女は肌寒さに少し震え、以前大人たちの1人が物置から毛布を出していたのを思い出した。



 自室をそっと抜け出して、物置へ忍び込む。物置は少女の部屋の2つ隣の部屋で、音も立てないように気をつけたので、大人達からは気づかれなかったはずだ。物置を見渡すと、奥の棚の少し高い段から毛布の端っこがはみ出している。背伸びをして毛布を掴み、引っ張り出すと、一緒に何かが棚から転げ落ちた。幸い、毛布に巻き込まれるように落ちたので大きな音は出なかった。毛布に包まるようにして床に転がるそれは、一冊の本だった。物置に置かれている本はどれもパパの残した難しそうな本ばかりだったので、大きな絵ばかりが描かれた本に少女は自然と惹かれた。


 少女は本というものに手をつけたことがほとんどなく、文字は簡単なものか読めなかった。昔教えてくれた人はいたが、何故かパタリと訪れなくなった。複雑な言葉だって大人達の会話を盗み聞きして少しだけ覚えた程度だ。



 毛布と一緒に本を抱えて自室に戻る。少女はロッキングチェアに腰掛けると、抱き込むようにして本を開いた。そこには少女が初めて見る世界が広がっていた。火を吹く岩山やこの世界を包む大きな水溜り。夜空にかかる色とりどりのカーテンや、砂の雪原。少女は夢中になってページをめくった。


 時間を忘れて黙々とページをめくっていた少女の手はあるページでピタリと止まった。


 子供達と母親の絵。母親は大きな腕を広げて、子供達はその胸元で眠っている。その次のページも、その次にも、人の姿が描かれていた。手を繋いで、嬉しそうに笑う人の姿。時には、泣いている人、怒っている人。


 絵本が全部終わると、また最初のページに戻って読み直した。肩にかけていた毛布が落ちても、少女はそれに気づかなかった。ただ本を夢中で読み続けていた。


 その日から少女は絵の中の人を真似始めた。大人達が自室からいなくなった隙に、鏡に向かって絵本の通りに笑ってみたり怒ってみたり。色あせた日常が一変して、少女は絵本を片時も離す事なく眺めては真似をし続けた。


 人と手を繋いでみたい。人に触れて、その温もりを知りたい。そう少女が思い至るのに、時間はかからなかった。最初は大人達に頼もうか、と考えた。だが、話しかけようとするたび、少女はあの時のことを思い出してしまう。


 「申し訳ございません」と震える声で頭を下げたあの女性を。


 違うのだ。絵本とは全然違う。あの女性は、私を「嫌い」なのだろう。そして「恐れて」いる。本で見たままだ。本の通り、あの時女性は「恐怖」の顔をしていた。



 ダメ。このおうちの人たちじゃダメ。


 少女はまた、ある寒い朝に自室で1人目を覚ました。体をベッドから起こして、窓をすうっと触ってみる。曇った窓から、一面の雪景色がのぞいた。少女が身を乗り出すと、窓がキイっと音を立ててゆっくりと開いた。冷たい風が少女の肌を包む。


 少女はびっくりして身を引っ込めた。こんなにも簡単に窓が開くなんて。いきなり外の世界への扉が開いて、少女は不安と共に胸が高鳴るのを感じた。そこからは恐れより好奇心が勝った。窓の淵によじ登り、足を外へ放り出す。冷たい外気にさらされて、少女は毛穴がピリピリするのを感じた。


ここから出れる?


 ふっとよぎった考えに迷わず少女は飛びついた。外がどうなっているのか、知りたくてたまらなくなった。


 ゆっくりと窓から体を滑らせて下に降りようとする。少女の自室は二階だったが、そこまでの高さはなかった。思い切って窓の淵から手を離し、地面に降り立つ。


「きゃっ」


 冷たい雪が足の裏に触れ、驚いて声が出る。少女は初めての雪の感覚にうれしくなって怖々歩いてみる。ぺたぺたと足跡をつけて、たまに雪を蹴り上げて。自然と顔がほころんでくる。

 


はっと気づいて、自分の両頬に手を添えた。

 笑えている。私、今笑えているんだわ!


うれしくて仕方なかった。雪のうえに体を放り出した瞬間、


「誰?」


雪の軋む音と共に、冷たい声が聞こえた。


 少女がそちらに目を向けると、あの女性が立っていた。ネグリジェの上にふわふわしたコートを羽織って、こちらを凝視している。


 少女が声を弾ませてご挨拶する前に、少女の顔を見た女性の顔が見る見るうちに歪んでいく。


あ、いけない。また、あのかおだ。



 気づくと少女は駆け出していた。なぜかは分からない。反射的に「嫌だ」と感じた。「逃げたい」とも。


 後ろから女性の悲鳴が聞こえてくる。


「誰か来て!!!!捕まえて!!!!」


 あの女性の金切り声が、少女の背中に突き刺さる。

 少女は無我夢中で走った。走るのだって初めてだった。絵本で見たから大丈夫。絵本の通りにできているわ。きっと。きっと。


 あんなに柔らかくて素敵だった雪が、少女の足に絡みついてくる。重くて、冷たくて。少女の足はじんじんと痛み、体力も雪に吸われていく。


 もうダメだ、と思った瞬間、暗い森の中に暖かい灯りが見えた。その灯りに向かって足を動かす。必死に走って近づくと一軒の小屋だった。小屋まで走ってドアを開けると、足が雪にとられて中に倒れ込んでしまった。


 胸がどくどくとうるさくて、耳のそばでキーンと音が聞こえた。足の感覚はなくて、まるで雪に食べられてしまったようだった。


 必死に息を整えて顔を上げると、1人の少年が怯えた目をしてへたり込んでいた。

少年は目をまん丸にして、少女を見る。少年は開けっ放しになっていた口をゆっくりと動かした。


「だいじょうぶ…?」


 少年の声を聞いた途端、少女は喉の奥がぐうっと苦しくなるのを感じた。どんどん上にせり上がってくる「それ」は少女の目からこぼれ落ちた。少女は驚いて「それ」を手で拭った。だが「それ」は拭っても拭っても止まらず、少年の家の床を濡らした。顔を上げると少年も「それ」に驚き、ぎょっとした顔で固まった。怯えないで、怖がらないで、いなくならないで、「嫌い」にならないで。


 少女が「それ」を止めようと拭い続けていると、少年はぎこちない手つきで少女の頬を拭い始めた。また、喉の、胸の奥の方からせり上がってくる、少女の「それ」は溢れ、少年の手を濡らし続けた。






少女は目を覚ました。


「起きた?」


優しい声がして、そばにいた老婆が少女の顔を覗き込んだ。


「おはよう、先生」


老婆は笑っておはようと返した。老婆の手元には一冊の本が開かれていた。古くて、絵がたくさん書かれたその本を、老婆は片時も手放さずに持っていた。


老婆が開いたページを少女は覗き込んだ。人と人が手をつないで笑っている絵の隣に、若い女性と若い男性が同じように手をつないで笑っている写真があった。


「写真だ!それ誰?もしかして先生?」

老婆は微笑むと「そうよ」と言った。「やっぱり!」と目を輝かせた少女は「じゃあこれは誰?」と隣の青年を指差した。


老婆は少し寂しげに写真の青年を指でなぞった。

「私の先生よ」

少女は目を丸くした。

「先生にも先生がいたの?」

老婆が頷くと、少女は目を輝かせた。「ねえ!どんな人?どんな人?」老婆の肩にしがみつく少女を膝の上に乗せると、老婆はその小さな手を取って笑った。

「春のお日様みたいな人!」

「なにそれ、どうゆうこと?」

老婆の笑顔は、キラキラと輝いていた。老婆が窓の外に目を向けて眩しそうに目を細める。

少女がそれにならって窓の外を見ると、春が雪を溶かし始めていた。

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