第2話 渚沙
十四歳になる河本渚沙が、いつのまにかその女性に見惚れていたのも、今いるこの席だった。
場所はなんの変哲もない、ハンバーガー店の一角である。
塾の帰り、家族の迎えを待つ間、彼女はその店に入って待つのを好んだ。母親はあまりいい顔をしなかったが、地方都市の駅前で夜間、中学生が安全に時間を過ごせて、互いを見つけるにも容易な場所は意外にない。
ちなみに、斜め向かいは派出所で、母は知人に娘との待ち合わせを語る際には、「警察の前で待たせている」などと説明したりしていた。警官の見当たらないことも多いが、まあいいやと渚沙は思っている。
話を戻すと、最初に渚の目を引いたのは、その二十代と思われる女性の食べっぷりだった。彼女は決して大食ではなかったが、実に丁寧に、揚げられたポテトをつまんでは口に運んだ。
飲み物を飲む場合もそうだ。彼女は、どんな食べ物が目の前にあろうと、決してスマートフォンの画面を見ながら不機嫌につまんだりはしない。その有様は、まるで食べ物に無限の感謝を捧げるかのように思えた。
ファストフードの好きな渚沙だったが、彼女自身は食事をとても大切にし、準備に手間を惜しまない家庭で育ったし、食べるという行為を軽んじたり、手早く済ませたいとする気持ちはさらさらない。
だから最初は、単純に共感と称賛の気持ちからその女性に着目した。
だが、幾度か店で顔を合わせるうち、渚沙の気持ちの中で、彼女自身の美しさに対する憧れが膨らんでいった。穏やかな、しかし聡明そうな顔つきに、口元は優しくいつも笑みをたたえている。
若い渚沙の熱っぽい視線は相手にも気づかれていたようだ。
ある日、店に入ってきた女性は渚と視線があうと穏やかに微笑み、「今日は早いね」と言ったのだった。渚沙も笑って、「いつもより早く終わったから、速攻できました」と返した。
そのあと、二人が顔を合わせるたびに会話を交わすようになるのに、時間はかからなかった。
加賀美玲子と名乗ったその女性と渚は、適度な距離を保った上で互いの身の上を語り合った。かすかに懸念していた、子供と侮ったなれなれしさやしつこさとは、玲子は無縁だった。
テニスに加え、大勢の弟子を抱える親の仕事のせいもあり、渚沙は家族以外の大人と接する機会が少なくない。だが、外で会う大人たちのだれよりも、玲子は思いやりある態度で渚沙に触れてくれた。
そのうち、玲子が郊外にあるマンションの一階を利用して、「アイリス」というコーヒーショップを開いているのを教えられた。駅前を頻繁に訪れるのも、コーヒー豆の仕入れ先が付近にあり、「頼めば送ってくれるんだけど、ついついきちゃうの」とのことだった。
「アイリス」は、店主の収集によるユニークな展示がなされていることで最近、一部で話題の店だった。玲子は控えめに、機会があればご家族とでも来て欲しいと言い、渚は礼儀正しく、ぜひ行きたいと言った。結局、最初は一人で訪問した。
「ねっ。けっこう運命的な出会い。そう思わない?きっとそうよ」
渚沙はよく日焼けした顔をほころばせて、続いて大きく伸びをした。十四歳という年相応に顔立ちはまだあどけないが、テニスで鍛えた身体はのびやかにしなる。身長もすでにたいていの大人より高かった。
「それ、もう二百七十回は聞いた」と、向かい側の席から友人の松浦由実がつっこんだ。
由実はあまり日に焼けてはいない。しかし彼女もまた陰りがなく、健康そのものの印象を受ける。鼻筋の通った顔立ちは友人より大人びた印象を与え、見る人に将来はさらに美しくなるだろうことを想像させた。ただ、由実のしゃべる調子は、見た目ほどすましていない。
「玲子さんがすてきだってのはその通りだし、お店だってめちゃ面白いけど、あんたがまるで自分の手柄みたいにいうのは変」
「変かなあ、そうかなあ」渚沙は幸せそうに笑った。「なにかに見つけ出されたっての、あるじゃない」
「能天気って、最強だよね」由実は苦笑した。
夕刻のハンバーガーショップは混雑していた。飲み物はそろってLサイズを注文したが歩き回った後であり、すぐ飲み干してしまった。あらかじめもらった水をコップに入れてジャカジャカとかき回し、氷水にして口に含んでから、渚沙と由実は、顔を見合わせて笑った。
玲子の店は近く1周年を迎える。その祝いを先週から二人がかりで探していたが、今日ようやく、気に入った品を予算内で見つけることができた。
二人が仮の候補として見当をつけていたものより、こっちの品の方がずっとあの人の店に似合うように思えた。おまけに購入先のお姉さんが可愛いリボンをサービスしてくれた。とても気分がよかった。
「じゃあ、明日」
「明日」
二人はそれぞれ、次の予定へと移動することにした。由実は塾へ。渚沙は、今日は塾も稽古ごともない日なので、そのまま自宅へと足を向けた。明日はテニスの早朝練習だが、場所は自宅近くなので、特に緊張感もない。
彼女の家では、夕食はできる限り家族が集まって食べることになっていて、夕方以降の予定のない今夜は、食事までに帰宅し食卓につかねばならない。だが、まだ時間には余裕があった。今日は駅前の商業施設を由実と巡って、遠出したわけではなかったからだ。
夕方から穏やかに吹きはじめた涼しい風を受けながら、渚沙はそのまま家へと歩いた。自宅まで、彼女の足なら歩いて十五分とかからない。三階建ての広壮な家は、一階の多くが祖母と母の主宰する料理教室に割かれていて、人の出入りは絶えなかった。
駅から家までの道は古い街道にあたり、きれいに舗装されている。渚沙は機嫌のいい顔のまま、記念品の入った紙袋を手に下げて歩いた。すでに日は落ちて、あたりが次第に暗くなっていく。日が暮れると人通りが減るが、外灯は自宅まで途切れなく光っている。
慣れた道でもあり、渚沙はさほどの警戒心も抱かずに大きなストライドで自宅へ進んだ。途中までスマホの画面を見たりしたが、ここは家族が長く暮らしてきた土地である。彼女は知らなくても向こうは知っている人間は多く、歩きスマホなど見られると、めぐりめぐって祖母から行儀について小言があるかもしれない。
それを思い出して早々とスマホをカバンにしまおうとした渚沙だったが、着信があったようだ。急いで手に取り直し、彼女はディスプレーに見入った。別れたばかりの松浦由実だった。内容は、移動中に由実の出くわした野良猫の写真だったが、思わずにやにやと見入ってしまった。
そのせいで見知らぬ男女が二人、熱のこもった眼で彼女の長身を眺めていたとは気がつきもなかったし、その二人が人とはやや離れた存在であるとは、知るわけもなかった。
反対車線をゆっくりと流していたSUV車が、Uターンして渚沙と同じ進路をとって彼女を大きく通り越し、街路樹のそばに止まった。車体色が漆黒のうえ、窓には濃色のフィルムが貼ってあった。その窓が開いた。
「へえ、ホンモノは背が高いな。まだ中学生だよね」後部座席にいた女がサングラスを外して言った。柔和な顔つきで、二十代にも三十代にも見える。「でも、もう見失わないでよ。わたしたちは尾行に向かないし、張り込みなどとんでもないのが良くわかった」
「すみません。昨日は焦りすぎました」返事した運転席の男は、色が浅黒くて眼鏡をかけている。先日のバーテンダーをやっていたエプロン男だった。
「家がわかりやすいのは、いいわね」
「ええ、婆さんの代から自宅で料理教室やってるし、簡単に調べがついた」
女は軽く鼻で息をすうと、
「これだけ離れていてもいいにおいがする」と言った。
「たいしたものね、わたしにすら『波』を感じられる。あの人がどうしてこだわるのか、いまひとつわからなかったけど、実物を見たら納得だわ」
「それでどうします、高津さん。戻りますか。家を調べますか」男が言った。
「そうね。無事に日も暮れたし、時間的にはとてもいい。元気がみなぎってくる感じ。豪邸に暴れ込んで家族共々皆殺しにしたら、あの人はどんな顔をするかな」
「それは、ちょっと……」
「冗談よ。梶田って、自分からはよくジョークを言うのに、人のは苦手だよね」
高津と呼ばれた女は車窓から通りを見渡した。
「でも今夜はすごく、貴重な機会かもね。家までの直線上に人影は乏しく、これからあの娘が通りかかるコンビニは改装中。1分あれば作業はすむ」
「やっぱり連れて帰りますか。店長から、当面くれぐれも慎重に行動しろと」
「ああ、例の裏切り者の噂ね。気にはなってるけど、私の見立ては店長とは違うのよね。だいいち、私のマスターは店長じゃない」
「それは、そうですが」
「もちろん持ち帰ったら、まず敬二さんに引き渡す。私たちが利用できるかどうかはあの人に任せる。これが私の希望する方針。梶田はどうしたい?」
「それはもちろん、あなたに従いますよ」
「ええ、ほんとー」高津は冗談めかして言った。
「でも、これだけは確認させてください」梶田は真面目な顔をして言った。「高津さんと敬二さんが急にあの娘にこだわりはじめたのは、玲子さんこそ裏切り者だと疑っているからじゃないんですか。あの人の無関心そうな仮面を、剥がしたいと思ってるんじゃないですか」
「それは、考えすぎよー」と高津はにこやかに言ったが、「じゃ、決まりね」と車を出すように指示した。
改装工事のため閉店中のコンビニの駐車場に、梶田は車を止めた。渚沙はまだ3ブロックほど先の歩道脇のベンチに座り込んでスマホをいじっている。
高津が立ち塞がり、梶田はコンビニの影に隠れ、中学生が逃走しようとするのを挟み撃ちにすることに決まった。だが、肝心の渚沙がなかなか来ない。
「来ないわね」
「いまどきの中学生ですからね。様子を見てきます。追い込んでもいいかな」
音もなく梶田が歩き出そうとしたとき、小さな破裂音がして青白い火花が飛んだ。
「ひっ」梶田が棒立ちになったところに、今度は別の何かが胸に突き立ち、彼は痙攣した。
「チっ」高津が身を翻そうとした途端、肩口になにかが突き立ったのがわかった。麻酔銃のダートだった。だが高津はすぐ、自分の身体に起こり始めた変化に気がついた。
(麻酔じゃない、毒)ダートの刺さった部分から、鈍い痛みが押し寄せてくる。壊死していくようだ。高津はとっさに自らの爪でダートの刺さった肩の肉を引き裂いた
だが、胸に打ち込まれた梶田はダートを除去できないまま地面に膝をついてしまった。攻撃はまだ終わらない。レーザーポインターが光ったとたん破裂音がして、高津と梶田の身体につぎつぎとコードが巻き付いた。「くっ」常人の三倍以上の力が出せる高津が力んでも切れない。
足を巻き取られたら終わりだ。高津は短いジャンプを繰り返し脱出を図ったが、さらに凄まじい「重さ」を感じ、離脱がかなわなかった。毒やコードのせいではない。振り返ると、ダートやコードの発射装置らしきものを抱えた男たちを押しのけ、背広姿の壮漢が前に出てきた。頭がつるつるに剃り上げられている。
(くそ、やられた、呪術だ。待ち伏せに気づかなかったのも、奴のしわざか)
禿頭の男は口で呪文のようなものを唱えながら、一歩一歩近づいてくる。
手にはカールドライヤーのような道具を持っていて、背広のベスト部分にはバッテリーが見えた。おそらく呪力のブースターだ。
梶田を見ると完全に地に伏し、その足元には禿頭よりは小柄な黒い影が立ち、禿頭と同じ装置を片手に持ち、同じようになにかを唱えている。
禿頭が高津に迫った。ベストの腹の部分に、引き金のついたグリップがのぞいている。拳銃ではなさそうだが、どうせ似たような目的の武器だろう。
(あれを撃ちこまれたら終わりだ)
高津は、決死の力を振り絞り、禿頭に体当たりすると見せかけ、横方向に向けて地面を蹴った。コードに両腕をとられたまま、意識はかなり消えかかっていたが、彼女は驚くような距離を一足で飛んで車道へと飛び出し、ちょうど地面をけたててやってきたトラックに飛びつき、影に隠れてそのまま消えた。
倒れた梶田のすぐそばにミニバンが横付けになった。そこから出てきた男とさっきまでダートガンを持っていた男が網を梶田にかけ、さらに細い槍のような道具を突き刺した。梶田の体がびくっと動き、また崩れた。
「一匹逃した」茶髪が言った。「いまのあいつ、中心メンバーじゃないの?」
「だから強かったのか。どうせ長くはもたんよ」禿頭が言い返した。
「やつらの乗ってきた車、Gシリーズね。贅沢。乗って帰ろうかな」
「盗難車だろうけど、やつらの予算がこっちより潤沢なのは事実だな」
渚沙は突如目の前に現れた禿頭と茶髪の二人組に、ぎょっとなって立ち止まった。
目立たない服装をしているが、禿頭は首も胸も異様に太いのが見て取れた。
一方の茶髪は渚と同じぐらいの背丈をして、おまけにどうやらこちらは女性らしい。
「君、気がつかなかった?」茶髪がいきなり尋ねた。
「なんの、ことですか」
「さっき、向こうで大立ち回りがあったんだ」
「オオタチマワリ?」
「いや、いい。それより夜道を一人で歩くのは感心しない」
「はあ、すみません。家が近いから」
「自覚はない?」
「えっ、なんですか」
いぶかしげな渚沙の顔を見ていた茶髪は諦めたように、
「そうか。大きいけどあなた、まだ中学生か」
「はあ」
茶髪は横の禿頭を見上げ、首を横にふった。「なんでこんな子をこんな時間に狙ったんだろ」
「わからん。捕まえた奴が死ななかったら、聞き出せるかもしれない」
「そうね。そうするわ。じゃあお嬢ちゃん、これからは夜道には気をつけること。そしてこれ、持ってなさい」茶髪の女は下げていたポーチからストラップのついたパスケースを取り出した。そこにはさらに金属のネックレスと思しき装身具が入っていた。
「なんですか、これは。困ります」
「いいのよ。お、ま、も、り。変なものじゃなくて、正真正銘、由緒正しいものだよ。身を守りたかったら、こんなのでも持っていなさい。鞄の中にでもいれといたらいいから。でも捨てちゃだめ。あ、盗聴器とかGPSじゃないから、古いものなの。じゃ」
二人は振り返ると、止めてあったミニバンに飛び乗ると、そのまま去ってしまった。
「なんなのよ、変な感じ」
あまり愉快ではないもらいものだが、捨てるに捨てられない。あとでよく見てみようと、渚沙はパスケースをカバンに投げ入れ、家路を急いだ。
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