第39話 それはまるで春のような
頭の中をアブダッドの言葉がぐるぐる廻る。
カフワでの仕事と絵の仕事を天秤にかける。カフワでの仕事の方が安定はしている。絵の方は物珍しさが消えてしまったら、無くなるような不安定な仕事だ。
客を案内しながら微笑み、メニュー表を渡す。別の客から呼ばれる中ぼんやりと考える。
カフワの仕事もやりがいがあり、何より思い出がある。
安定が一番良いのは何時の時代、どの場所でも変わらない。
それでも頭の片隅にあるのはいつも絵の事ばかり。今度はどんな手法を試してみようか、どうしたらもっと美しく描けるか。より良く、よりリアルに、常に頭の中にある気持ちはそれだった。
帰り際、アブダッドに話をしたいと申し出た。
そして私は選んだ。
今まで心の底にしまい込み見ない振りをしていた子供のころの夢。
「絵の仕事をしたいです___」
音にした瞬間、胸の奥から突き上げるような歓喜が溢れる。
とめどなく湧き出る水のようなその気持ちはやがて自分の中を満たしていった。
まっすぐにアブダッドの瞳を見据え、微笑む。
アブダッドの瞳に映る自分の姿は生き生きとして見えた。
「リツが選んだ道だ、俺らは応援する。お前さんの仕事の依頼や何かは俺を頼れば良い、変な客は突っぱねてやるぞ」
茶目っ気のある笑みを浮かべ、アブダッドは続ける。
「たまには客としても来いよ。歓迎してやる」
「店長、ありがとうございます」
差し出された大きな手を握る。強く交わされた握手は今後も続く関係を物語っていた。
涙ぐむジャマールと、寂し気な後輩兄弟たち。卒業式のような気持ちになる。
これは別れではなく、いつでもまた会える関係なのだけれど。それでも寂しい気持ちは変わらない。カフワの皆に頭を深く下げる。
「皆さん本当にありがとうございました」
暗くなった外、店の入り口にサージェの姿が見える。あれからずっと迎えに来てくれるようになった彼の負担も減るだろう。何度申し訳ないからと断っても、迎えに来たいからと言って彼は来てくれていた。
イデアから聞いた話だと、どんなに忙しくても凄い勢いで仕事を終わらせ帰っていくのだとか。
それを聞いて更に申し訳なく思った。
「サージェ、いつもありがとうございます」
「お帰り、今日は顔色がそこまで悪くないな」
彼に仕事を一本に絞ることを伝えると、安心したような表情を浮かべた。
「良かった。カフワも続けたかったのだろうが、君の体が持たないからな」
星の瞬く空の下、絵の仕事について話しながら帰路に就く。
家に入る前に、サージェから厚みのあるカードを渡される。
「リツ、今度私の屋敷にパルマ殿とアラムと共に招待したい」
「いつでしょう?」
「3日後は二人とも用事がないと聞いた。リツの都合はどうだ?」
いつの間にやり取りをしていたのだろうか。いや、元々三人は知り合いだったのだ、おかしな話でもないのだろう。
特に予定は無い事を伝えるとサージェは満足げに微笑み去って行った。
家に入ってからパルマとアラムにも、絵の仕事だけにする事を伝えた。
二人とも私の体を心配してくれていただけあって、片方に絞った事に安心したようだ。
「良かった、毎日顔色悪いからいつ倒れるか怖くって」
アラムに両頬をぐにんと伸ばされた。
「心配かけてごめんね」
サージェからの招待状を二人に見せる。
「ふふ、楽しみにしているわ。皆着飾らないとね」
シャヌにも心配をかけたことについて詫びの手紙を送る。手紙の端に小さく絵も添えた。
サージェに招待された当日の朝、三人で身支度をしている。
正午に迎えが来ると書かれていたので、それまでに準備をすれば良い。
昨日の晩にパルマにとろみのある不思議な甘い香りの液体で髪を洗われた。
そのお陰か、朝は眩い程髪が艶々としており、指通り抜群だ。
「試してみたかったのよね」
パルマは満足げに私の髪を撫でた。何でも最新のトリートメントだったらしい。
彼女もアラムも艶々の髪になっている。
私は淡い空色の被服を着ている。首飾りの紫に合うかと思ったのだ。
パルマは鮮やかなオレンジ色、アラムは深い緑色の被服を選んだ。
薄っすらと丁寧に化粧を施し、パルマに髪をハーフアップに結って貰った。
アラムは腰に小さな剣を差している。男が腰に剣を差すのはマナーらしい。
この三人が招待されるなんて何があるのだろうか。そわそわと落ち着かず、髪を撫でた。
私の落ち着かない様子にパルマが含み笑いを向ける。
アラムが紅茶を入れてくれている。ほわりと良い香りが部屋を覆い、少し気持ちが落ち着く。
正午まで三人で紅茶を飲んでゆっくりとした。
太陽が真上に昇った頃ちょうど扉がノックされる。
扉を開けると以前サージェの屋敷で見た、使用人の一人が立っていた。
「スライマーン家の皆様、お迎えに上がりました」
彼の背後には馬車が用意されている。その扉に描かれている文様に見覚えがあった。神殿に入る際にサージェの手の甲に現れたものと同じものである。
使用人が扉を開け手を差し伸べる。まずパルマが、次にアラム、そして私が乗り込んだ。
乗り降りする際に手を取られるのは初めての事で、まるでお嬢様にでもなったような気がしてしまう。
まぁ根っからなの庶民なのでそうはなれないが。
カタカタと揺られ西の道を広場方向へ進む。
広場へ近づくにつれ道が整備され揺れは軽減され、東の貴族住宅地へ入ると揺れは全く感じなくなった。
暫くして見覚えのある屋敷の前で止まった。
鉄製の門がゆっくりと開かれる。ブルーのドーム状の屋根の縁が緑色と金色で彩られている。
真っ白な建物に向かって使用人が先頭に立ち歩いていく。翡翠色と白のマーブル状の石の地面を進んだ先、建物の入り口でサージェが待っていた。
いつぞやに見た長い紫紺色の被服を纏っており、の上に同じ丈の杜若色の、袖口の広い上着を着ていた。貴族男性が良く着ている形の被服である。緻密な金糸の刺繍で装飾が施されている。腰に巻かれた藤色の布にはイルハーム家に伝わる剣が差してある。さらりと綺麗な黒髪が揺れる。
「本日はお越し頂きありがとうございます」
「お招きいただき光栄でございます」
サージェの言葉にパルマが答える。
キリリと背筋を伸ばしたパルマは高貴な血筋を思わせる。
うっかり二人に見惚れていた私はお辞儀をするアラムを見て、慌てて頭を深く下げた。
代表者が挨拶し、残りは頭を下げるだけ。
出発前にアラムの真似をするように言われていた。
前回私一人の時には特に何もしなかったのだが、どうやらこれが正式な訪問時のマナーらしい。
入り口から建物に入り、目を見開く。
使用人は三人だけしか見た事がなかったのだが、今日はずらりと並んでいる。
サージェをちらりと窺う。三人しかいないと聞いていた気がするのだが。
回廊にいた使用人たちが一斉に頭を下げる。思わず一歩引いた私は悪くない。
奥にあるイーワーンを無言で目指す。
サージェが先頭に立ち、その次にパルマ、アラム、私、そして最後に使用人の順で進む。
誰も喋らないが、これが正式な訪問なのだろうか。後で聞いてみよう。
広間の右の扉を開く。確かここは以前も通された、食事の間だったはずだ。
爽やかな印象のコバルトブルーを基調とした部屋へ使用人以外が入る。
壁には三弁半円型アーチが並び、記憶通りの壺などが並んでいるのが見えた。
「あと二人来ますので、お茶を飲んで待ちましょうか」
ポットと食器が用意され、四人でそれを囲む。暫くたわいもない話に花を咲かせているとふと思い出した事がある。
「今日はどういった、集まりなのですか?」
気になっていた点を確認するためサージェに問いかける。あと二人来ると聞いたが何なのだろうか。
他の三人の動きがピタリと止まる。私以外は今日集まった理由を知っている様子だ。
「そうだな、残りの二人が到着してから説明しよう」
サージェが不自然なほど満面な笑みを浮かべた。
10分程経ったであろうか、扉の向こうで音がした。
扉をノック音に続き使用人の声が扉越しに響く。
「イデア・アリ=トゥルキスターニー様、シャヌ=ラムール様をお連れ致しました」
意外な組合せに目を丸くする。
本格的にこの集まりの目的が分からなくなってきた。
「リツ久しぶり!」
「久しぶり、元気だった?」
シャヌの元気そうな声に笑いかける。彼女は何か知っているのであろうか。
イデアは引きつった笑みを浮かべサージェを見ている。イデアの恰好は貴族男性によく見る被服であったが、全体的に白い布地で、更に教皇が被る様な五角形の帽子を頭に乗せていた。何やら宗教じみた格好である。
「全員揃ったようなので、部屋を変えよう。こちらへどうぞ」
サージェに誘導され、広間から見て左の扉へ向かう。
中央の扉が横目にちらと見え、ベッド事件を思い出し一人赤面した。
左側の扉を開くと、そこは神殿を思わせる真白な部屋であった。
部屋の奥にルフの女神像が設置してある。深紅の絨毯が敷かれ、礼拝堂のようものだろうか。
女神像の前に自分の胸辺りの高さの台があり、そこに書類らしきものが乗せられていた。
少し離れているので読めないが、金の縁取りがされた高級そうな紙である。
イデアが台の向こう側に立ち、こちらを向いた。
パルマ、アラム、シャヌは一列に横に並び、私とサージェだけが向かい合って立っている、何とも妙な立ち位置に首を傾げる。サージェの視線に縫い留められたかのように足が動かない。
シンとした空間に何だか緊張する。
イデアが咳ばらいをし、声高に言葉を並べ始めた。
「ルフ神の御前で、サージェ・アル=イルハームによる"ザワジェン"を行う。見届け人はイデア・アリ=トゥルキスターニー、パルマ=スライマーン、アラム=スライマーン、シャヌ=ラムールとする」
何が始まったのだろうか、謎の儀式に頭が追い付かない。"ザワジェン"とは一体何なのだろうか。
サージェがスッと膝を折り、私の前に跪き、アメジスト色の瞳が見上げた。
自然と見下ろす形となり、彼の瞳は真剣な色を浮かべ私は落ち着かずそわそわする。
「私サージェ・アル=イルハームはリツ=スライマーンに婚姻を申し込む」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。言われたことを必死に理解しようとしているのに、脳の処理が追い付かない。無言で目を瞬かせる私に彼は再度口を開く。
「君の事が好きだ。受け入れてくれないだろうか?」
真っすぐな瞳に気圧される。
真白な部屋にただサージェの声が響く。何か言わなくてはと、頭では分かっているのだが驚きすぎて声が出ない。
「あ…あの?」
どうにか言葉を絞り出そうとする私を、サージェは黙って見つめている。
他の皆の様子を窺う。イデアは目を瞑り、パルマは頬を紅潮させ目を潤ませている。
アラムは幸せそうな笑みを浮かべ、シャヌは目を輝かせた。
「イデア、暫く二人きりになりたい」
サージェがイデアに向かって声を掛ける。
「ふぅ、だから何も知らない子に"ザワジェン"何て仕掛けちゃ駄目って言ったんですよ。ちゃんと話し合って下さいね!」
イデアは他の三人に目配せし、部屋を出て行った。
ぽつんと二人きりで部屋に残され戸惑う。
「あの、サージェこれは一体?」
「驚かせて済まなかった。リツは"ザワジェン"を知らないのだったな」
ぽりぽりと頬をかきサージェは苦笑した。
「"ザワジェン"とは好いた異性に神の前で求婚する儀式だ。先に相手の親に許可を得てから行う」
「えっと許可と言いますと…私の場合はパルマですか?」
頷くサージェに私は頭を抱えた。何やら知らない内に話が進んでいたようだ。
「リツ、気持ちを聞かせて欲しい」
両肩に手を乗せられ、アメジスト色が近づく。
「私は…」
歓喜と迷いが同時に襲う。好いた相手と両想いだったという事実が嬉しく、じわじわと顏に熱が集まり始める。けれどいつか日本に突然戻ってしまうかもしれないのに。
交際をすっ飛ばして、いきなり結婚と言われた事にも動揺している。
それに私の知っているのは彼の一部分だけのような気がしてならない。恋人というならまだしも、結婚となると相手の事をきちんと知っておきたいと思うのはおかしいだろうか。
「私はサージェの事を、知っているつもりでも、知らない事の方が多いです」
文官と言いながら、たくさんの武官を引きつれ指示をする彼の姿。かつての婚約者の父親を投獄した事だって本人ではなくイデアから聞いた情報だ。
「そうだな、部下にも言われた。きちんと自分の事を話せとな」
一度目を伏せそっと微笑み、続ける。
「元婚約者の父親を投獄した話はイデアから聞いているな。それも私の口から言うべきだったと反省している。…あとは仕事についてだな、きっとただの文官が戦っているのを不審に感じただろう」
「そう、ですね。普通の文官は書類仕事だと、アラムから聞いたので」
「文官というのは嘘ではない。表向きは、だが。監察官という役職に就いている。内部の不正や外部からの密偵等を探っている。危険人物を捕縛する権限も持っている独立機関だ」
公安警察のような部署だろうか。
サージェがにやりと笑う。その瞳の奥に獰猛な獣を見た。
「内部の不正を摘発する事から、妻以外は部署を教えてはいけない事になっている」
「ん…?えっと…つまり…」
「ちなみにその首飾りは婚約の証としてリツに贈った。君は受け取ってくれたな」
私は引きつった笑みを浮かべる。
保護者の許可もあり、聞いてはいけない仕事内容を聞き、婚約の首飾り、そして立会人の居る今回の儀式。好きだから良いのだが、いや…良いんだけれども、釈然としない!
もう一度言う、どうにも釈然としない!
「ううぅ、策士!!」
うっとりと笑みを浮かべるサージェの瞳の奥に黒いものが蠢いていた。
「君を逃がすつもりは毛頭ない。こんな卑怯な私だが、どうか受け入れてくれないか」
完全に外堀を埋められた私は、あっけなく白旗を掲げた。
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