後ろの正面だあれ

@yuzu-moon

第1話

 終業のチャイムが鳴ってから一時間も経てば、誰もいない教室の完成だ。大体の生徒は帰ったり自習室に行ったり、とりあえず教室には残らない。飛鳥は人のいる空間というものが、どうにも苦手だった。他人に何を言われたとしても行動は変えないけれど、どう思われているかは興味がある。それとは別に、世間体を全く気にしないで生きていけるわけじゃないから、周りのことを気にせざるを得ない。大変面倒だ。そして今日は周囲からの意見という点で飛鳥にとっては面白い出来事があった。

「ちょっと聞いてよ、私たち付き合ってるんだって」

 前から三列目、廊下側から三列目、教室のど真ん中に置かれた席の主、黒瀬凛に呼びかける。凛はノートから顔を上げてこちらを見た。僅かに眉を寄せて、瞬きを一回。再びノートに目線を落とした。そして心底くだらないというように吐き捨てる。

「もう五年もつるんでるが、その手の誤解は初めてだな」

「あっはっはっは! こんな愉快な話がある? 面白すぎて報告に来ちゃったよ」

 飛鳥は腹を抱えて笑った。目にはうっすらと涙も浮かんでいる。ひとしきり笑ってから続ける。

「で? あんたそれ以上の感想はないわけ?」

 凛は手を止めることなく答えた。

「ない」

 つまんないやつ、と飛鳥が呟く。このくらいの反応なら凛は慣れっこで、飛鳥のことなんて見向きもしない。五年間も話していると色んなことに慣れて、相手への対応が雑になるのも仕方ない。飛鳥だって今は少しばかりふてくされているが、凛の言葉に落ち込んだわけではない。ただ単に、そういうポーズを取っているだけのこと。人間は思っていることの半分だって上手く他人に伝えられないのだから、このくらい大げさでちょうどいい。ちゃんと伝えられなくて苦しむくらいなら、過剰に表現する方がよっぽどいい。なにより、凛は飛鳥のことが面倒になったら文句を言うこともなく切り捨てる。飛鳥は凛のそういうところを信頼していた。

「つまらないっていうけど、そのつまらないやつと五年もつるんでるのは誰だっけ?」

 パタン。凛は広げていた教科書とノートを閉じた。口角だけを吊り上げてニヤリと笑う。そんなちょっとした仕草が妙に魅力的に感じるのが凛の恐ろしいところだ。もっと他人と会話するようにしたらきっと人気が出る。素材がもったいないといつも思う。美人は三日で飽きるというが、凛の顔は五年以上見ているが未だに飽きない。造形とは違うところに魅力がある。表情が向日葵が咲き誇るように晴れやかになるとき、声色は雲ひとつない青空のように澄んだものになる。表情と口調とがお互いを引き立てるように変化するおかげで、本人が意識するよりずっと感情が伝わってくるし、変化が大きく見えるのだ。

「あんたより興味が湧く人間がいないからね」

 みんな普通になろうとする、と飛鳥が付け足した。飛鳥は凛以外の人間に興味を持てない。きっとそれぞれ個性と言えるものは持っているのだろう。でもそれは、『普通』の枠から外れないように気をつけている範囲内だ。誰が決めたわけでもなくルールがあることをそっと確かめあって、罰則だって決められていないのにルール違反にならないように気をつける。そいつらの発揮する個性は言わばチキンレースで、真に価値のあるものではない。そんなの面白くない、というのが飛鳥の持論だった。

 対して、凛はある種の異端だ。誰が話しかけても頷きか首を振ることでしか意思表示しなかった。先生が話しかけたときだけ返事をして、それだって必要最低限だ。はいといいえで答えられる質問以外も会話の中では必要と分かっていながら答えようとしない。そんな頑固で意地っ張りでまっすぐな人がいるとは思わなかった。だから凛には興味を持った。何より驚いたのは、放課後の誰もいないときに話しかけたらごく普通に会話が成立したことだ。あの瞬間は一生忘れないと思う。余程会話が下手なんだろうと見当をつけていた当時の自分に言ってやりたい。そいつ、喋るよ。

「誰だって、普通なところも持ってんだろ」

 凛は肺を空に溶かすように息を吐いた。少しばかり目を細めて、両手を組んでぐっと背を逸らす。ゆっくり首を回してから飛鳥の方へ向き直った。

「普通か普通じゃないかは大した問題じゃない。結局、同じ人間の枠組みから逃れられないんだから。お前は、普通って言葉に囚われすぎてる」

 凛からすれば、飛鳥は随分と苦しそうだった。普通を嫌い、集団を嫌い、特異性を重視し、ひとりを好む。そんな在り方は、狙って普通から離れようとしているとしか思えなかった。普通から離れるために普通を意識し憎むなんて、不器用だ。残念ながら、自分ひとりでは自身を認識することは叶わない。自分を美しいと思うこと、自分を賢いと思うこと、自分を恵まれていると思うこと。いずれにせよ、他人なくして自己を決定づけることなんてできやしない。

 ただ面倒だからという一点で口を閉ざしていた凛が飛鳥との会話に応じたのは、そんな不器用さを愛おしいと思ったからだ。願わくば、自分のことで悩んでくれるようになればいい。愛おしいと言ってもそれはセックスじゃない。脚の欠けた犬が義足をつけて歩くのを応援するようなものだ。普通という檻に囚われてもなお動かされ続ける羽を捥いでみたくなる衝動と、檻の外で飛翔する姿を見たいという願望がとろとろと煮詰められて、端的に説明するのに一番近い言葉が愛になっていた。愛よりも人を傷つけてきたものは存在せず、愛よりも人を癒してきたものは存在しない。だからこれは愛だ。でもきっと自分はどちらも選べない。その確信が凛にはあった。ただ、檻の鍵は開けておきたい。あくまで、飛鳥に決定権を委ねたい。羽ばたこうとしてもがき続ける飛鳥のことが、凛は何よりも素敵だと思えた。

「普通に囚われてるって何よ。私は普通じゃないでしょう?」

 籠の中から鳥の囀る声が聴こえた。何かを訴えているんだろうけど、外側にいる凛には届かない。

「その前提の捉え方をしている時点で普通に囚われてる。普通が何かなんて考えたって、そんなものは存在しない」

「ややこしいこと言わないで! 私は私で好きなようにやってる。あんたに言わせれば普通に囚われてるのかもしれないけどね」

 飛鳥の顔はすっかり赤く染まっていた。あー、とため息を吐く。

 凛と飛鳥の会話ではままあることだった。飛鳥が話しかけて、凛が話の前提を否定する。お互いにとっては会話でも、他人にとっては議論や言い争い。ともかく、仲の良い友人同士だとは思われない。そしてその会話は往々にして凛が飛鳥を言いくるめて幕を閉じる。お決まりの流れのようなものだった。

「はいはい、こっちが悪かったよ。少なくともこんな勢いで言葉を交わしてくれる友人のことを普通と言い切ることはできないね」

 凛は悪びれもせずに言った。凛の自覚する以上に言葉と声音に感情が乗っている。気分がいいときはいつもよりも色濃く影響が出る。気が緩んでいるとどうにもコントロールが効かない。

「今日はもういい時間だけど、ラーメンでもどう?」

 飛鳥の後ろに回ってわざとらしく肩に手を置いた。無理やりにでも話題を変える赦しを乞う。こうするときは、この話は終わりにしようという意思表示だ。同じことを繰り返すので、合図として定着した。というよりは凛が定着させた。

「都合のいいやつめ! 乗っかってやろうじゃん。駅前にできた醤油ラーメンの店でどうよ。私まだあそこ行ったことないんだよね」

「えー、まぁいいけど。俺は神社の方にある豚骨ラーメン狙ってた」

「そこはまた今度ね」

 先行くぞー、と飛鳥は荷物を持って教室のドアをくぐり抜ける。鼻歌まじりの後ろ姿を見て、内心凛はほくそ笑んでいた。

 飛鳥の入っている檻の鍵は開けた。外に見える空は凛が描いた。飛び出しても、閉じこもっても、凛の望んだ未来には違いない。

 飛鳥、ずーっと飛んでるところを見せてね。俺にだけだよ。

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