茜色の空
山本菜美
第1話
あれは一目惚れだったのかもしれない。
まだ蒸し暑さが残る高校一年生の夏、まだクラスメイトの名前も曖昧で、やっと女子の大半を覚えてきたくらいだった。元々積極的に友達を作りに行くタイプでは無いので、いつも一緒にいる子以外とはあまり話したことが無かった。おそらく一度も話してない子も何人かいる。女子でそうなのだ。男子と話す訳が無い。高校に入って話した男子なんて、以前私が消しゴムを落としてしまった際に拾ってくれた、隣の席の眼鏡の男子くらいである。会話と言えるのかも微妙だが、これを会話とカウントしなければ私はクラスの男子と一度も話していない事になるので、この出来事を『男子との初会話』として記憶しておくことにした。
そして気付いた時には、私は彼を目で追うようになっていた。
消しゴムを拾ってくれただけで気になるなんて、自分でも引いてしまうくらい単純な奴だと思う。でも、目で追うようになった理由はそれだけではない。
彼の横顔が、とんでもなく美しかったのだ。
猫の毛並みのように柔く、黒猫の毛色のように艶やかで真っ直ぐな黒髪、儚げな瞳、病的なほど日に焼けていない肌、絵に描いたような端麗な鼻筋、薄いが血色のいい唇、言ってしまえば、彼の容姿が好みだったのだ。好み、と言うよりは、あまりに美麗なものを見てしまって目が離せなくなってしまった、と言うべきかもしれない。小さい頃に旅行先で見た、あまりにも星が多すぎて落ちて来るのではと不安になったあの壮大な夜空を見た時の感覚に似ている。吸い込まれるような、あの感覚に。
結局その夏は一度も話さないまま席替えをしてしまい、私の高校最初の一年は彼と殆ど喋らないまま終わった。そして名前を覚えて貰えたかも分からないまま、クラス替えまでも迎えてしまった。
幾重もの桜の花弁が宙を舞い、暖かい春の和風が私の髪を揺らす。新学期への不安と緊張を胸に抱きながら、私は足早に校門を通り過ぎた。昇降口まで辿り着くと、新クラス発表と大きく書かれた紙を見つけた。なんとなく最後のクラスから自分の名前を探していると、すぐに見つけることが出来た。
「え、」
慌てて口を塞ぐ。あまりに驚きすぎて、思わず喉から飛び出してしまった。何度も確認するが、もちろん書かれている文字に変化はない。
今年も、彼と同じクラスになれたのだ。
十クラスもある学年で同じクラスになれるなんて、奇跡か、運命か、ああ、神様ありがとう。なんて心の中で何度も架空の存在に頭を下げた。もしかしたら一生分の運を使い果たしてしまったかもしれない。この後事故にでも遭うのだろうか。ここで死んでしまったら同じクラスになった意味が無いじゃないか。
勝手な想像に文句を付けながら靴を履き替えていると、後ろから自分の名前を呼ぶ低い声が聞こえた。仲のいい男友達など居ない私は、聞き間違えかと思いそのままその場を去ろうとした。しかし、再び同じ声がはっきりと聞こえた。不思議に思いながらも、その声の方を振り向く。その声の主に、私は目を見張った。
彼が、居たのだ。
新学期から少しイメージチェンジをしたようだ。眼鏡をかけておらず髪も少しだけ短くなっていたが、紛れもなくあの彼だった。
想定外過ぎる声の主に動揺を隠せず、その場で石のように固まってしまった。明らかに心拍数上がっている。なんで、なんで、
硬直している私に、彼は少し困惑したような表情を浮かべながらも口を動かし始めた。
「去年も同じクラスだったよね?よろしく」
「え、?あ、う、うん!よろしく!」
じゃ、と軽く手を振り、彼は友達数人と教室の方へ向かっていった。何秒か固まったあと、私も思い出したかのようにその場をあとにした。
血色の良くなった両頬を抑えながら、早足で教室に向かう。顔が熱い。心臓の音が外まで聞こえてきそうなほど爆音で鳴っている。前髪大丈夫だったかな。ちゃんと返事出来てたかな。声とか裏返ってなかったかな。教室に着くまでの間、先程の一瞬の夢を思い出しながらも一人反省会を行っていた。あまりにも急すぎて、自分でも何を言ったのか覚えていない。なんだったんだあれは。本当に今日死んじゃうんじゃないか。いや、今日なら死んでもいいかも。今が幸せのピークな気がする。
そんな不謹慎な事ばかりを考えていたら教室に着いてしまった。最初の席は出席番号順になっているため彼とは離れてしまったが、私の方が後ろの席なので授業中彼の後ろ姿を眺める事ができる。心の中で小さくガッツポーズをした。こんなにも新学期からいいスタートを切れると、これからの学校生活に少し期待をしてしまう。
その期待がいけなかったのだろうか。
結局、その日から彼と話すこと無く半年の月日が流れてしまった。
机の半分程開いた窓からふわりと心地よい秋風が吹いてくる。常に執拗い睡魔が襲ってくる古典の授業が終わり、次の生物の授業までの僅かな時間をどう過ごすか考えていた。一瞬だけ行われた脳内会議の結果、特にする事が無いのでそのままぼーっと外を眺めていることにした。せっかく窓際になれたのだから、今のうちにこの景色をじっくりと目に焼き付けておこう。
脳内会議の結果通りぼーっと外を眺めていると、机上に見覚えのある華奢な手が置かれた。
「何見てんのー?」
その手の正体は、陽夏ちゃんだった。陽夏ちゃんはこのクラスになってから仲良くなった子で、いつも一緒に行動してる。少し茶色がかった肩につく位の長さのハーフアップの髪、ぱっちりしていてタレ目がちの二重の目、折れてしまわないかと不安になるほど細い手足、小さめの口から覗く八重歯、いつも笑顔で可愛らしくて、少し我儘だけど、まるで子犬のように小柄で愛おしい、私とは真っ反対の子だ。
「いや別に。ぼーっとしてただけだよ」
「あー、この席いい感じに風来るもんね。いいなぁ、私もこの席がよかった」
「そう?陽夏ちゃんの席の方がいいじゃん」
だって、彼の後ろなんだもん。
「えー!どこが!あの席割と当たるんだよ?さっきの古典も当てられたし!」
「いやー、でもあれは日付で当ててたじゃん?席関係ないよ」
「んー、まあさっきはそうなんだけどさぁ。でも当てられやすいのは本当だから!」
はいはい、と窘めるように返事をすると、気に入らなかったのかムスッと顔を顰めた。その顔ですら可愛らしいのだから、陽夏ちゃんは狡い。
「ていうか、この席がいい理由なんて山ほどあるから!まず石井くんの隣の時点で神席だし!」
「それは陽夏ちゃんが石井くんの事が好…」
「わー!しっ!おっきな声で言わないでよ!聞こえたらどうすんの!」
二人で反射的に横を向く。幸い石井くんは廊下側の席で友達と話していた。あの感じだと此方の会話は聞こえていないだろう。多分。
「聞こえてなかったよね?大丈夫だよね?」
「大丈夫じゃない?話に夢中っぽいし」
「よかったぁ。はー、改めて見てもやっぱかっこいいなぁ。石井くん」
「えー、そう?好みが分かれる顔だよね」
「失礼な!誰がどう見てもかっこいいよ!」
ほら、と陽夏ちゃんが石井くんを指差す。もう一度見るのを催促され、彼女の想い人の顔を今度はじっくりと眺める。
ふんわりとした少し長めの黒髪、キリッとした三白眼気味の瞳、少し厚めの唇、健康的に焼けた肌、がっちりとした腕、かなり高めの身長。確かにかっこいいと言う部類には入るのかもしれない。でもやっぱり、彼の方がかっこいいな。うん。
「まあ、陽夏ちゃんがかっこいいと思うならそれでいいんじゃない?」
「はあ…彼の魅力が分からないなんて可哀想な人ね。惚れられても困るけど」
やれやれ、と陽夏ちゃんは海外映画のように首を傾げジェスチャーをした。なんでそこまで言われなくちゃいけないんだ。陽夏ちゃんにだって彼の魅力なんか分からないでしょ。なんて勿論言葉にはしなかったが、心の中でぼそっと皮肉げに呟いた。
私は彼女に好きな人がいることを伝えていない。というか、そもそも誰にも教えていない。どうせ言ったところで釣り合わないだの面食いだの言われて笑い話にされるのがオチだ。陽夏ちゃんがそんな人では無いと心の内では分かっていながらも、そういったネガティブな思考が私の脳内をぐるぐると支配している。好きになった理由を聞かれても、消しゴムを拾ってくれたからなんてのは理由にならないし、横顔が美しかったと言えば本当にただの面食いになっしまう。そうだがそうでは無いのだ。彼の容姿の中の、何が大きな、言葉では言い表せないような壮大な何かが私を引き付けた。それを面食いと言うのなら、言い返す術などないのだが。
誰も聞いているはずのない言い訳をだらだらと並べていると、授業開始のチャイムが鳴った。陽夏ちゃんはいつの間にか自席に戻っていたようだ。
生物、何処まで進んでいたっけ。新都市みたいな名前のものが出てきたような。違う、シトシンだ。
開いている窓を半分ほど閉め、気だるそうな号令の声に合わせゆっくりと腰を上げた。先程よりほんの少しだけ弱い風がワイシャツをすり抜けて私の肌にそっと触れる。その風は冷たかった。
「今日放課後残らない?」
リュックが変形するほど大量の教科書を無理矢理詰め終え、グレーのマフラーを首に巻こうと動いている手を止めた。
「んー、いいよ。何処にする?」
期末試験まであと三日だ。陽夏ちゃんは残って何をするかまでは言わなかったが、さすがに試験三日前だ。自習をする為に残るのだろう。そう勝手に解釈し、彼女に返事をした。
「教室でいい?ていうかその前に、ウチら以外にも居るんだけど大丈夫?」
陽夏ちゃんが心配そうな目で私の顔を伺う。
「全然大丈夫だよ。でも誰?」
「それがね…」
陽夏ちゃんの目の色が変わる。気の所為だろうか、頬もほんのり赤く染まっている気がする。
「い、石井くんと!勉強会をする事になりました!」
照れながらも嬉しそうなその表情は、彼女の両手によって隠されてしまった。
「え、え!?本当?やったじゃん!でもそれ、私お邪魔なんじゃ…」
「いやいや、全然邪魔じゃないから!むしろ居て!だって、」
陽夏ちゃんが、その勉強会に参加するもう一人の存在を口にした。その名前に、私は思わず耳を疑った。
彼の名前が、はっきりと聞こえたのだ。
冷静に考えれば、何ら不思議なことは無い。彼と石井くんは大変仲が良く、親友と言えるほどの間柄だ。彼をいつも見ていたら分かる。彼の石井くんにだけ見せる笑顔は、本当に心を許した人にしか見せない無邪気な笑顔だった。私はその笑顔を見る度になんとも微笑ましい気持ちなる。私に向けられている訳でもないのに。
それに、彼らが放課後この教室で勉強をしているのを何度か見かけた事がある。その二人の勉強会に私たち二人が加わる、ただそれだけの事だ。それだけの事、なのだ。
「さすがに男子二人と女子一人じゃ気まずいからさー、ね、お願い!」
「わ、分かった。うん。いいよ。全然。うん」
明らかに動揺が隠せていない。声が震えている。というか、この子は好きな人と勉強会を開けるほど仲良くなっていたのか。そんなの全然知らなかった。いつの間にそこまで進んでいたんだ。やはり彼女のように、行動に移さなければ何も変わらないのだろうか。きっとこの距離も、このまま縮まることは無い。縮ませる勇気なんて、何処にもない。
これは現実なのか。夢なんじゃないか。いや、寧ろ夢であるべきだ。何度目の夢だ、これは。
今私の目の前には、一年半想いを寄せてきた黒髪の彼がいる。遠くから眺めていた時はその端麗な顔をじっくりと観察する事が出来たのに、いざその顔が目の前にあると緊張と恥ずかしさで顔を向ける事が出来ない。かといって、このチャンスを逃すのは実に勿体無い。どうにかして拝まなければ。もうこんな事は、一生無いのかもしれないのだから。
ついに覚悟を決め、バレないように目線だけを彼の顔の方へと動かす。そこには、いつになく真剣に世界史のノートを眺める彼が居た。私はすぐに目線を英単語帳へと戻す。彼の顔を眺めた時間は一秒にも満たなかったが、臆病で非力な私には十分だった。この距離で見た彼の端正な顔は、まるで作り物のように可憐で、儚い。伏せがちなその瞳の上には、長く美しい睫毛が揃っていた。
またもや心臓が激しく鼓動を鳴らし始める。ああ、煩いなぁ。皆に聞こえたらどうするんだ。有り得ない妄想を危惧し、バレないよう控えめに深呼吸をした。目の前に広がる赤い単語達が、意味を持たない文字の羅列として通り過ぎてゆく。駄目だ、全部がいっぱいいっぱいだ。開始から一度も集中出来ていない勉強会は、気づけば三十分が経過していた。
「ねー、誰か自販機行かない?」
カリカリとシャープペンシルの音のみが走る空間を破ったのは陽夏ちゃんだった。
「俺行こうかな」
ギギ、と音を立て、石井くんがゆっくりとが椅子から立ち上がる。
「んー、俺さっき行ったしいいや」
彼が、英文の和訳をノートに写しながら答える。
ん?これはもしや…
「わ、私もいいやー」
ぎこちない笑顔で答える。そう、これでいい。これで、陽夏ちゃんと石井くんは二人で自販機に行くことが出来る。二人っきりの空間を作れるのだ。初めて彼女の恋に協力出来たことに胸が躍る。がんばれ、の意を込めて陽夏ちゃんの目をしっかりと見つめた。彼女はその意を受け取ったのか、少し頷いて照れたように微笑んだ。
「じゃーいってくるね。石井くん、行こ」
「うん」
「行ってらー」
ピシャリと教室のドアが閉まる。そのドアが閉まってから、ようやく私は気がついたのだ。
今、彼と二人きりではないか。
一時的に治まった緊張が再び私を支配し、鼓動が密かに加速し始めた。夢にまで見たこの状況だが、いざ目の当たりにすると嬉しさよりも緊張が上回る。ああ、もっと脳内でシュミレーションしておくべきだった。何か話さないと、好きな食べ物?いや、それは以前の自己紹介でラーメンだと言っていた。どうしよう、どうしよう。あ、そうだ。もういっそ想いを伝えてしまおうか。いやいや、何言ってるんだ私。パニックになるな。落ち着け。落ち着くんだ。私、
「今回の現文難しそうだよね」
頭の中で、私以外の声が響いた。いや、頭の中ではない。耳だ。聞き覚えのある低い声が、私の鼓膜に響いたのだ。ということは、声の主なんて一人しかいない。
はっと顔を上げると、美美しいその墨色の瞳と目が合った。
「そ、うだね。文章が難しすぎて何言ってるか分からないもん」
すぐにその回らない頭で答える。まさか彼の方から来るなんて想定外だ。そういえば、春にもこんな事があったな。今度こそは私が行くべきだった。このままでは変われない。変わることが出来ない。
「んね。なんでわざわざ難しく書くんだろう。分かりやすくして欲しいよね」
「本当にね。主人公の気持ちなんて分かる訳ないのに」
人の気持ちなんて分かる訳ない。彼の心が読めたら、どれだけ楽だろうか。小説の主人公の心でさえ分からないのだ。私に分かるはずがない。
好きな人は居るのか、あの時なんで話しかけてくれたのか、私の事をどう思っているのか、聞きたいことは沢山あるのに、このなんでもないような会話が心地よくて仕方ない。ああ、早く聞かないと。彼女たちが帰ってきてしまう。なんて、元から聞く勇気なんて私には無いのに。
「話変わるんだけどさ」
そう口に出したのは、私ではない。彼だった。驚いた、彼も私に何か聞きたいことがあったのか。有り得ないとは思うが、私と同じ質問だったらどうしよう。彼の真剣な眼差しに、思わず身構える。もしかして、本当に。
「うん。どうしたの?」
「いや、あのさ」
彼の口がゆっくりと動く。まるでスローモーションのように。あれ?何故だろう。可笑しいな。何も聞こえない。彼の声が、じわじわと遠ざかる。顔が熱い。聞こえない、そんなの、聞こえないよ。
陽夏って、好きな人とか居んのかなぁ
二人だけの教室が、一瞬で静寂に包まれる。あれ、この教室ってこんなに広かったっけ。嫌な耳鳴りがする。ごわんごわん。心臓の音がする。どくんどくん。痛い、痛いなぁ。心臓がぎゅって押し潰されてて、このままじゃ潰されちゃうよ。
彼のことは、ずっと見てた筈なのに。なんで、なんで気付かなかったんだろう。彼の目は、私と同じ目をしていたのに。その目に映るのは、私ではなかった。
震える唇で、なんとか会話を続けようとした。
「え、な、なんで?」
「いや、ちょっと気になっただけ。深い意味は無いから」
彼がはにかみながら答えた。なんだよ、その下手くそな嘘は。私よりも下手だぞ。目が泳ぎまくってるぞ。あーあ。そっかぁ。そうだったんだ。全然知らなかった。気付けなかった。彼は、陽夏ちゃんの事が好きだったんだ。最近よく目が合うと思ったのは、私じゃなくて陽夏ちゃんを見てたからなんだ。そりゃそうだよね。私が一人でいる時は目なんて合わなかったもんね。私なんかを見てるわけないよね。
どんどん視界がぼやける。少しでも期待をしたせいだ。最初からわかってたはずなのに。馬鹿だな。本っ当に馬鹿だな。
「んー、と。どうなんだろ。私も知らないなぁ」
必死に彼から目を逸らし、嘘をついた。こんなこと、言える訳無い。あの子は君の親友が好きなんだよ、なんて。だから私にしなよ、なんて。
彼を私と同じ状況にさせる訳にはいかない。この痛みを、彼にだけは知って欲しくない。だから私は、全て知らないふりをした。
「そっか。ごめんね、変な事聞いて」
「ううん」
どうしてそんなこと聞いたの、とは聞かなかった。聞いてしまえば、本当にこの恋が終わってしまう気がした。
開いていた現代文の教科書をそっと閉じ、深く息を吐いた。目を閉じたら、涙が溢れてしまいそうだ。これ以上此処に居れば、本当に泣いてしまうだろう。陽夏ちゃんには悪いが、もう此処には居られない。私は椅子を引いて勢いよく立ち上がった。
「ごめん、この後塾あるから帰るね。二人にも伝えておいてくれる?」
「うん。分かった。塾頑張ってね」
「ありがとう」
教科書と筆箱を乱暴にリュックに詰め、逃げるように教室から飛び出した。今日一日で幾つの嘘を吐いただろう。今の私には数えることすら出来ない。
このまま家に帰るのも何となく億劫で、いつも陽夏ちゃんと昼休みを過ごす外階段の踊り場へと向かった。乾いた口を抑えるその右手は、微かに震えていた。
踊り場から見える校庭に設置されている時計を見ると、針は四時半を指していた。焼けるように紅く染まった茜色の冬空は、暗闇に迷い込もうとする私を止めようとしてくれているようだった。冬の冷えきった風が私の頬を優しく撫でる。その冷たさが、私の冷めない体温には酷く心地よく感じた。特に赤く腫れた目の縁は、どんなに寒風に晒しても冷めることは無い。むしろ、ますます熱を帯びていっている気がする。頬を伝い流れ落ちてゆく大粒の涙は、きっと終わる事を知らない。
『どうせ失恋するんだったら、告白しちゃえばよかったのに。一年半も想い続けて終わりがこれじゃ、納得いかないよ』
脳内会議での出席率ナンバーワンの私が抗議をする。
『いやいや、失恋なんて傷が浅い方がいいに決まってる。最悪の結果になる事を知っているのに、告白なんてしない方がいいよ』
出席率ナンバーツーとナンバースリーが口を揃えて反論する。
私はどうすればよかったのか。きっと、答えなんて何処にもない。
いつ、彼は全てを知ってしまうのだろう。この後すぐに知ってしまうかもしれないし、ずっと知らないままかもしれない。それを知った時、彼は私のように泣くのだろうか。それとも、直ぐに切り替えるのだろうか。いずれにせよ傷付くのは確かだ。彼にだけは、もう少しだけ夢を見ていて欲しい。夢から覚めた私には気付かないで欲しい。
今、何故私は泣いているのだろう。失恋したからか、一年半の恋が終わってしまうからか、淡い期待をしてしまったからか、彼の好きな人が私の親友だったからか、その事に気付けなかったからか、彼の想いが叶わないことを知ってしまっているからか。
全部だ全部。
あー、もう嫌だ。痛い、苦しい。もうテストどころじゃないよ。赤点取ったら彼のせいにしてやる。いや、陽夏ちゃんも石井くんも悪い。みんな悪い。みんなのせいだ。なんて、何だか可哀想になってきたな。
私はまだ夢を見ていたかった。無知は哀れで卑怯だけど、その分幸せでいられる。全てを知ってしまった私は、もう戻れない。全知は不幸だ。
酷く腫れた目を雑に拭い、大きく息を吸う。痛いほど冷たい。肺も、血管も、心臓も、全部凍ってしまいそうだ。先程まで優しく心地よかった冬風も、冷えた肌へと乱暴に突き刺さる。瞬きをする度に、氷の膜で覆われた眼球が酷く痛む。それでも、今の心の痛みには敵わない。この痛みは越えられない。そんな私に応えるように、さらに荒々しい寒風が私の顔へと吹きつける。それでも、こんな痛みは大したことない。
すっかり乾いてしまった涙の跡を、一粒の温かい涙が再度辿って落ちてゆく。そんな私を慰めるようかのように、乱暴に吹き荒れていた冬風は態度を変えて私を優しく抱き締めてくれた。
私は再び目を拭った。その瞳は、茜色だけを映していた。
茜色の空 山本菜美 @nemui_naaa
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