イブだけが、あの実を食べた世界
鷹月のり子
第1話 神話、誕生、自死
蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを、神は知っている」
「……」
女が樹の実を見ると、いかにも美味しそうで賢くなるように感じた。
シャリ…
それで女は実を食べ、笑顔になった。
「美味しい!」
「だろ」
そう言って、ほくそ笑んだ蛇は用心深く退散した。そこに男が来たからだ。
「イブ、何を食べてるの?」
「ああ、アダン。この樹の実を食べてみたの。とても美味しかったわ。あなたも食べてみて」
「っ?! その実は神によって戒められた樹の実じゃないか! 食べると死ぬ、触れてもいけないと言われたのを忘れたのか!」
「大丈夫よ、私は生きているし、とても美味しかったから。蛇さんが教えてくれたの。ね? あら、もう居ないの……」
「……イブ……」
「さあ、アダン、あなたも食べてみて。とっても美味しいの。ほら」
イブが実をアダンに差し出した。
「………」
「ほら、食べて」
「……やめておくよ」
「………そう、美味しいのに。気が変わったら、食べてみてね」
「神よ………」
アダンが悩み祈ると、イブはだんだん恥ずかしくなってきた。
「……」
「……」
「こ…こっちを見ないで」
イブは自分が裸であることに気づくようになっていた。手で身体を隠し、アダンのそばを離れると、いちじくの葉をつづり合わせて自分のために腰覆いを作った。
「イブ、どうして、そんな葉を腰に巻いているの?」
「恥ずかしいからよ!」
「……恥ずかしい? なにが?」
「ぅ~………だから、あの実を食べてみてよ! それでわかるから!」
イブは頬を赤くして、アダンの身体から目をそらしつつ言った。アダンも裸なのに、彼は自分が裸でいることに気づくようになっていないからだった。
「う~ん……イブ、やっぱり君の様子はおかしいよ。あの実のせいじゃないか?」
「ぅーっ……ぅーっ……とにかく、こっちを見ないでよ。もっと、しっかりした服を作るまで!」
「……服? ……ふく……ああ、神が着ている、ああいうものか……」
アダンはせっせと服を作り始めたイブを不思議そうに眺めていたけれど、そよ風とともに神の声が聞こえ、イブはアダンの背中に隠れようとした。神が問う。
「なぜ、あなたは隠れるのか?」
「……裸なので………怖くて……」
「あなたが裸であると、誰があなたに告げたのか。食べてはいけないと私が命じた樹から、あなたは食べたのか」
「…………。蛇です。私は欺されました!」
「あなたは呪われてしまった。聴け、お前には何度も終わりが訪れる。また、お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」
神はアダンへも言う。
「あなたは女の声に従わず、食べるなと命じた樹から食べなかった。お前ゆえに土は祝福され、お前は顔に汗を流してパンを求めることはない。だが、選べ。天の園に残るか、女とともに地を這うか」
「……私は彼女とともにありたいのです」
「ならば、そうせよ」
それから数千年が過ぎた。
富士の樹海で、新しい男が産まれた。男は地から起き上がると周囲を見る。木々が茂り、昼間なのに暗い。しばらく歩いた男は沢の水を飲み、栃の樹から実を食べた。
「……一人は淋しいな……誰かいないのかな……」
つぶやいた男は再び歩き回り、人を見つけた。人は女で17歳くらい。服を着ている。服は高校の制服で淡い紺色のスカートと白いブラウスが樹海の中で目を引くし、少女は不法投棄されたブラウン管テレビを足場にして高い位置にいる。その足場を蹴って、首にかけたロープで首吊り自殺しようとしている最中だった。けれど、うまく死ねない。足場にしたテレビが重くて蹴りきれない上、いよいよロープで首が絞まってくると、苦しいのと怖いので死にたくなくて両手でロープをつかみ、生きようとあがいている。
「ぅぅっ…ぅぅっ…」
右目から涙を流し、潰れた左目からは血を流している。
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