6.今日のさいたまは曇り模様 ①
学校の授業は特別なことがない限り、できるだけ普通に受けてきた。
中学の成績は、上の中から中の上までを行ったり来たり。目立ってよくはないけど、人並みに良いぐらいをキープしてきた。高校では海外遠征や練習が重なって、義務教育の時ほど単純には行かなくなったけど、今のところ問題は起こしていない。
なので音楽の授業も普通に受けてきた。五線譜は人並みに読めるし、西洋音楽の主要な作曲家の名前は知っている。
それでも足りないなと思う時はある。
「水の変態」の曲を渡された時、系譜の読み方がわからなかった時とか。
振付や技術面だけではなく、表現を深めるために何をしたらいいのか先生に相談したところ、「アナリーゼ」と即答された時とか。
即答されて、紙袋一つ分ほどの曲に関する資料をわたされた時とか。
「うん、うん。ご飯はそんな感じ。とにかくスタミナをつけないとやっていけないから」
横浜の堤先生の自宅。自室でiPhoneをハンズフリーにして、学習机にオケのスコアと楽典、音楽資料等を広げる。学習机は横浜に来た時に父から買ってもらったものだ。小学生用ではなく、高校生が使っても遜色ない立派なもの。釧路の実家のものは、そのまま実家に残っている。そんなに立派なものじゃなくていい、これからスケートに金がかかるからと当時父に言ったのだが、机だけは父が譲らなかった。
「これからお前が、何もなくスケートが続けられるかどうかはわからない。その時に自分を支えるものの一つは学力だ。選択肢が多いことは、悪いことじゃない」
机を買うということは、父からの「どこに行っても、何をしても最低限の勉強は続けなさい」というメッセージが込められていた。堤先生も父に了承し、こうして当時小学生だった俺に不釣り合いなものが部屋に入った。
そして今現在。学業の方も問題がなく、こうしてスコアや楽典を広げても十分な広さがあるので、父の言葉は正しかったと思い知った。
『あんた何か、アレルギーとかあったっけ? それから、体質的に太りやすいとか、筋肉がつきにくいとか』
「アレルギーはない。でも、意識的に肉食べてないと、すぐに痩せて筋肉が落ちる」
『その辺女子とは違うわよね』
「節制は大事だけど、女子だって食べた方がいいんだよ。食べた上で、ジャンプが跳べる体にならないと」
過度な節制は摂食障害につながりかねない。体型変化が避けられないなら、節制以外でも「続けるための工夫」を重ねる必要がある。そのやり方は人それぞれだ。例えば、安川杏奈。彼女はシーズンインしたら甘いものを極力控える代わりに、シーズンオフの時はコメダ珈琲のシロノワールを食べまくる。メリハリを重視するタイプで、今のところ不調は聞いていない。
『うん、でも助かったわ。色々ありがとう』
「どういたしまして、姉さん」
電話の相手は、四つ年上の姉だ。鮎川美咲。元スピードスケーター。現在は管理栄養士課程の大学に在籍している。
『今度は女子スケーターの話とか聞いてみたいかもね。あんたの彼女とかに』
指の力が抜けて、シャープペンがスコアの上に落ちる。気にせずに、俺はこめかみを揉んだ。……またか。
「だから雅はそういう関係じゃないって。リンクメイトで、スケート仲間。何度言ったらわかるんだよ」
『私はあんたの彼女って言っただけで、あの子のことを言ったわけじゃないわ』
……このやり取りも、電話のたび、そして顔を合わせるたびに交わしている気がする。
「そういう姉さんはどうなんだよ」
別に姉に懇ろな関係になる人について、興味があるわけではない。売り言葉に買い言葉だから、ついでに聞いているだけだ。再び楽譜に向き合う。
「あ、私彼氏できたわ」
どれがどの音なのか。どれがどのフレーズなのか、譜面を見ただけだと頭の中で音が想像できなくなる時がある。対象の音を探している時に、姉の報告を聞く。彼氏ができた。彼氏ができた。ホルンのパートはどこだ。見るところが多いから、ちょっちゅう迷子になる。
「へぇ、それはおめでとう」
自分でも思ったほど感想がなかった。それよりも、ホルンのパートが再びわかったことに感動する。
「……あんた、もっと何かないの?」
「何が。姉さんは昔からしっかりしていたし、顔も綺麗だし、頭も悪くないし、人並みに優しいし、粘着質じゃないし、肝も座っているし。普通に考えて一緒にいたいって思うやつがいてもおかしくないだろ」
『嬉しいこと言ってくれるわね』
これでもこの人の弟を16年やっている。決める時は決める人だ。だから高校でスケートもやめたし、新しい道にまっしぐらに進んでいる。おめでとうというのが正しいし、それ以上の感想は思い浮かばない。姉だからだろうか。それとも、長らく離れて暮らしているからだろうか。
姉の彼氏は同級生で、同じ管理栄養士過程の学生のようだ。スポーツは見る専門で、スケートファン。そういえば4月に、姉は友人から弟のサインくれと頼まれたようで、俺は4月に帰省した時に一筆書いた覚えがある。その時の人かと聞いたら、そうだよとさらっと答えてくれた。
彼女云々はさておき。
「もし雅に話を聞いてみたいなら、俺からまず姉さんのこと話してみるけど」
「本当? ありがとう」
でもあんまり期待はしないで欲しい、とも伝えた。
『で、そうだ。次のジャパンオープンのチケット、余ってない?』
「なんでまた」
『翔一が生でフィギュアを見たいって言ってて。私もあんたの演技を久し振りに生で見たいし。ついでに東京観光したいし、授業もまだ本格化しないし。何より出場者が結構豪華じゃない』
「……そういう話はもっと早くいってくれ」
チケットの関係者分は両親に送ってしまった。姉と両親は離れて暮らしているので、その中には入らなかったのだ。チケットサイトに早急に問い合わせ、ダメだったらもう一度連絡をくれと伝える。電話はそこで切れた。
椅子の背もたれに身を預けながら、手と首を伸ばす。今日は氷上練習を午前中で切り上げた。代わりに、午後は3時まで筋力トレーニングをする。
そして今。居候先である堤先生の家の自室で、フリーのオケスコアを広げている。iPhoneで時間を確かめると、夜の6時半。帰ってきてから2時間ぐらい、楽典とスコアと格闘していたことになる。マグカップの中のカフェオレは半分以上残っていて、経過時間の長さを如実に表していた。
電話が終わるのを待っていたかのように、扉がノックされる。
「哲也ー、入るよ」
いつのまにか帰ってきていたらしい先生が、黒いエプロンをつけて部屋に入ってきた。ロングのシャツとジーンズという私服だ。今日は先生も、仕事は終わりらしい。
「どう、アナリーゼは進んだ?」
「あまり……。慣れてなさすぎて、頭がぐらぐらします。姉さんからも電話ありましたし」
「あらま。美咲ちゃん元気?」
「元気ですよ。相変わらず勉強熱心ですし、彼氏出来たって言ってました」
「へぇー、そりゃめでたい。……どの辺が難しい」
姉の話題をさっくりと切り上げて、先生が本題に入る。切り替えの早さに苦笑を返した。
「難しいっていうよりも、基礎的な知識が足りなさすぎて事典と楽典から意味を引く事から始めてます。あと音の意味合いとか読み取りたいんですけど、その前に音がどれだかわからなくなって混乱します」
フリーの曲はクラシック。それも、オーケストラががっつり奏でる交響曲だ。独奏曲とは違う。さまざまな楽器の音が重なり合い、複雑に展開していく。
アナリーゼ。楽曲を分析し、どう作られているか知る音楽特有の学問のことだ。曲の構造を知るためには欠かせない。また、作曲家の意思を問う学問なのではないかと思っている。どうしてこうやって転調させたのか、とか。この音はどう言った役割を持っているか、また、持たせたのか、とか。
ここまでやる人が多いかどうかはわからないけど、と前置きをした上で、先生は次の言葉を吐いた。
「振付とは十分向き合ってくれているから、今度は曲と正面から向き合ってみるといい。ただ聞くだけじゃなくてね。向き合った上で曲の意味がわかってくれば、動きにも絶対に影響が出てくる筈だから」
そう言って、スコアと資料等々を持ってきてくれた。
フリーの振付は堤先生だ。フランツ・リストの思い出のために。そう言葉を残して、サン=サーンスが心血を注いだ最高傑作。
今月に入ってから少しずつ進めていたアナリーゼだが、まだ自分の地肉になっているとは言い難い。
「ま、焦らずやることだね。とりあえず一旦置いて、飯にしよう。面のいい鶏があったから、今日は東南アジア風のトリメシだよ。パクチー大丈夫だっけ?」
「少しなら。……手伝います」
机の上の楽典や資料を片付けて、自室の電気を消す。トリメシと何にするんですか? 大豆入りのミネストローネと、豆腐のサラダだよ。和洋東南入り混じっているが、見事なほど高タンパク低カロリーだ。
この家での料理は9割先生が作っている。アスリートに配慮した栄養バランスを重視しているから、変わったものが出てくるわけではない。それでも先生が作る料理は、控えめに言っても美味しかった。
「それからさっき作り過ぎたからお裾分けでもらったんだけど、涼子先生お手製の」
「それはお断りいたします」
秒速で俺は答えた。
涼子先生。正体は、星崎雅の母、星崎涼子。フィギュアインストラクター兼振付師兼、管理栄養士。
夫の星崎先生と同じく、堤先生の現役時代の指導者でもあり、振付師だった彼女は、アイスパレス横浜に在籍するスケーターの栄養相談も行なっている。体質的にこういうものを食べたらいい、とか、こういうレシピをお勧めする、とか。選手に合わせた事細かな指導が評判がいい。また彼女は、指導者になった後の堤先生に、「内弟子を持つなら、弟子の飯の管理や栄養計算ぐらい出来るようになりなさい」と言って栄養学と調理技術を叩き込んだ。今俺が、先生の元に居候して大変美味しいものが食べられるのは、涼子先生の力が強い。
そんな涼子先生だが、時折頭のネジが取れた、いや、とてつもなく個性的な代物を作ってくる。作っては雅を実験台にし、作っては堤先生に試作品だと言ってタッパーに入れて渡してくる。どうやったら「生ニラとバターナッツカボチャのミルクスープ」なんて思いつくんだ。
「最後まで言ってないでしょ。もしかすると君の好物かもしれないよ?」
「……何をいただいたんですか?」
「デザートだよ。抹茶のパンナコッタ。あ、それに別タッパーにアサリで出汁を取ったジュレが入ってたよ。パンナコッタにかけて食べてねって言われた」
「……別で食べましょう」
賛成、と言わんばかりに先生が両手をあげた。なお、堤先生は頭のネジが取れた料理を面白がることはあっても、自分で作ろうとはしない。
もしかしたら雅は、アサリのジュレがかかった状態でパンナコッタを食べたかもしれない。
心の中で手を合わせてすまんと謝りつつ、夕食後のコーヒーと一緒にパンナコッタはパンナコッタだけで美味しく頂いた。
今は9月下旬。今期の緒戦はプロアマ混合戦。10月第1週にさいたま市で開催されるジャパンオープンだ。その2週間後にはグランプリシリーズが始まる。エントリーは、第1戦のアメリカ大会と、第5戦のロシア大会。
アメリカ大会では雅や杏奈と出場し……、ロシア大会では宇宙人とぶち当たる。
技術はもちろんだが、表現面でもあの宇宙人に対抗しなければならない。そのためには別の牙も磨かなくては。
「もう少しやってきます」
だから正面から、使用する楽曲と向き合うしかない。
夕食後、先生はソファの上であぐらをかいて、iPadで撮影された演技動画を見ていた。ワイヤレスイヤホンを外して、iPadから顔をあげる。見ていたのはジョアンナの演技だった。先日行われたイタリアの大会で優勝した時のもののようで、先生はその時の演技の振付をチェックしている。レベルが取れているか、振付が甘くなっていないか。確認をしたらメールを送るようだ。
「明日は休みの日だけど、休みだからって無理しないで切り上げるんだよ。あー、洗濯は、風呂入った後に回しといてね」
「はい」
「それからあと、コーヒーもう一杯」
自分のカフェオレ用のコーヒーと先生のブラックコーヒーを淹れ直す。ブラックは好きだけど、勉強中に飲むと逆に集中力が散漫になる気がする。今の俺にはこのぐらいが丁度いい。
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