ボーナストラック.忘れずにいるために【後編】
「じゃ、買い物が終わったらまた来るから」
プラッツから顔を出しながら、姉は、30分ぐらいはかかるかも、と付け足した。
姉がおろしてくれたのは街中から外れたところにある、道東線沿いの更地。
――かつて、釧路クリスタルセンターがあった場所だ。一回パチンコ屋が出来て、またつぶれて何もなくなっている。立っている看板には、『売地』という大きな文字と、不動産業者の電話番号が書かれていた。スケートセンター近くにはコンビニや目立った施設はなく、民家がぽつぽつと立っているぐらいだ。雑草がところどころ整地されることなく生えているのが余計に目立って見える。
つぶれた直後はリンクがむき出しだったから、溶け始めた氷が巨大な水たまりを作っていた。湿原と間違えたタンチョウが羽を休め、氷を啄んで再び空へと飛び去って行く。
雑草だらけの地面に腰を下ろし、目をつぶる。
目の前の更地が銀色になる。
――意識が過去に、一気に引き戻された。
*
だめな大人が誘ってくれたからという理由ではなく、純粋に興味があったので、小学校2年生に上がると同時に、スピードと並行してフィギュアの教室に通い出した。釧路クリスタルセンターは通年のリンクで、夏でも自由に滑ることが出来た。
俺の肉まんを強奪しただめな大人は、釧路クリスタルセンターのスケート教室の教師になった。しょっちゅうふらっといなくなり、そういう時は国内外のアイスショーに出演しているらしかった。忘れがちだが、プロスケーターという肩書も持っていたのだ。
あの奇妙な出会い以来、だめな大人は何かと俺に絡んでくるようになった。
確かに氷上で動くときは、だめな大人のだめ成分が薄れて、そこそこちゃんとした人間にも見える。ただ、一歩氷から出ると、だめな大人のだめ成分が強調されているように思えて、教師として尊敬する気にはなれなかった。
少しずつ動けるようになった頃。だめな大人はこう言ってきた。
「今から君に、魔法を教えてあげよう」
夏休みに入っていたと覚えている。その日、この場には俺と堤昌まさ親ちかという名前のだめな大人以外、誰もいなかった。その日の午前中はだめな大人の貸切練習日で、つまりこの時間は、だめな大人はこの広いリンクを一人で目いっぱい練習できるということだ。
ちなみに俺がいたのは、昨日の夜持ち帰るはずだったシャツを忘れてしまったからだ。目的だけ果たして帰ろうとしたところを、練習中のだめな大人に捕まったのだった。
……思い出してみると、本当に、頭を抱えるほど馬鹿馬鹿しい言葉だ。だが、実際にだめな大人の口から出てきたのだから仕方がない。
「魔法って何だよ。そんなものあるわけないじゃん」
だめな大人は、それがあるんだよなーと俺の冷めたひと言を笑って流した。
「今から4分半で見せてあげるから。いいから黙ってみてな」
その時だめな大人が着ていたのは、練習用の動きやすいものではない。光沢のある白いシャツに黒のスラックス。……本番用の衣装だろうか。だめな大人はこれ着るの久しぶりだなぁと呟きながら、エッジカバーを外して氷上に降りた。自分でラジカセをいじって位置につき、僅かに経った時、曲が始まった。曲名は分からない。ただ、俺が知っている限りのだめな大人のイメージとは程遠い、影のある、美しいピアノの曲だった。そういえばちゃんとした演技は初めて見ると、改めて思い至った。
60×30のリンク。滑るのはただ一人。そして、見物客もただ一人。
銀色の氷が鍵盤になり、エッジは駆け巡る指先に。
影のある美しい硬質な音は、滑り手そのものになった。
最高の弾き手が、銀色の世界を支配していた。
――半ば呆然と、乾いた拍手を送る。体力的な絶頂期にある20代の男性でも、4分半休みなく滑るのは、相当に疲労を蓄積させるものらしい。
「どうよ、凄かったっしょ?」
額に汗。何度も息を吐きながら、ゆっくりと戻ってくる。いつものだめな大人の声に戻っている。だが表情には、通常ならば見られない充足感があった。
上手く言葉が見つからない。最初に見た時の滑りは、実力の半分も出していなかったのだ。
こんなもの、初めて見た。
「多分今君は、俺が滑ったみたいになるにはどうすればいいかを必死で考えている。そしてこうも思っている。今の自分では無理だと。簡単だよ。9割の努力と、残りの1割は魔法だ」
フィギュアに興味を持ったのは1985年の世界選手権の優勝者から。ビデオ越しに、彼のもつ華やかなスピードと技術にあこがれた。
それを見たときとは、またべつの衝撃だった。
俺はあのだめな大人を知っている。子供に金を貸してくれと頼んだり、子供の弁当を勝手に食ったり、挙句の果てには「リンク近くに酒売ってる自販機あるから、ちょっとビール買ってきて」と本当に子供に買わせて人前で一気に飲み干すような人間だ。
……動いていたあれは、俺が知っているだめな大人なのだろうか。あの時のだめな大人のだめ人間ぶりは実は嘘で、さっきまで、氷の向こう側にいたのが本物の姿なのではないのだろうか。
どちらが現実なのかわからなくなった。
疲労が蓄積された体をなだめるために、だめな大人はリンクの壁の上に置いたペットボトルに口を付けると、一気にそれを飲み干した。
「俺だって最初から出来たわけじゃない。初めて滑った時は盛大に頭を打ったなぁ。君なんてうますぎてびっくりしたよ。まぁそれでフィギュアをやり始めて、長野五輪に出て、そこそこいいとこいってたけどジャンプだけだとか言われていた頃もあって……この辺はどうでもいいわな。要するに、魔法ってのはアレだ」
だめな大人はアレ、を指さす。指した先には自分でセットしていたラジカセ。否。
「……音楽?」
だめな大人は少し笑った。その反応で、俺は自分の言った答えが少し当たっていたことが分かった。
「氷上でかかる音ってのは偉大なもんでさ。そこで音がなってる間は、別の生き物になれるんだよ。その仮面をつけて、ある場合はストーリーを作って誰かになりきる。またある場合は、感情を音でもって表わそうとする。そしてある場合は、音との究極の一致を目指して踊りまくる。……ここまでで魔法は半分だ。ある程度の人間なら、誰でも扱える。じゃ、残りの半分ってのは、一体何だと思う?」
魔法を教えてあげよう、と言う割に、簡単にその正体を暴かせない。分かったのは、目の前のだめな大人は残りの魔法を持っている、ということだ。確かに、全てのスケーターが、まるで自分自身の動きから音が出ているかのような、もしくは全ての音を従えているような錯覚を生み出す滑りなんて出来ないだろう。
だめな大人が聞いているのは、それを扱う為に必要なもの。
……沈黙しか返せなかった。言葉が出てこない俺の頭に、だめな大人は手のひらを乗せた。いつもだったら、ガキ扱いするな、とでも突っぱねていただろう。
「残りの半分は、君自身の中にある。それを見つけられるかどうかは、見つけた上で扱えるかどうかは、これからの君次第だ。俺は、君がそれを扱える気はするけど……余計なお世話だったね」
エッジカバーを付けて、リンクから上がる。そして颯爽と去っていった。
*
今だったら、あの時に滑った曲が何かわかる。F.ショパン作曲。バラード1番ト短調作品番号23。先生がドルトムントでの04年世界選手権で銀メダルを獲った時のフリーだ。
あれを見てから、自分の中で明確な変化が二つ起こった。
まずスピードスケートをすっぱりとやめた。氷に乗るきっかけはスピードだったけれど、やめると決めた時に未練を感じなかった。
もう一つの変化は、堤昌親――先生を、多少は尊敬する気持ちが生れたことだ。少なくとも、心の中でだめな大人と呼ぶのをやめた。
あの時に、あれを見てから。
スケーターとしての俺の人生が始まったのだ。習い事、趣味としてのスポーツから、一線を引き、明確に「こうなりたい」という目標が生まれた。すべての音を携えて、氷の上で自由になりたい。
氷の上で、スケーターとして生きていきたいと。
その後、リンクがなくなるまで釧路クリスタルセンターで練習を重ねた。
……氷がなくなった時のことも少しだけ思い出す。
*
少子化。不景気。過疎化。経営不振。昨今のフィギュアスケートブームとアイスリンクの運営は違った事情なのだ。氷の維持には設備も金もかかる。アイスリンクを維持するには、通常営業の時間に客が入らなければならない。
様々な負の要素が重なって、釧路クリスタルセンターの閉鎖はあっけなく決まり、俺が小学校5年生の6月に取り壊しが始まった。それに伴い、フィギュアスケートの教室も終わりを告げた。
6月から8月までの2か月間、俺自身どうしていたかはあまり覚えていない。学校に行って家に帰って。時間があってはスケートリンクが壊されていくところを見に行った。それだけの生活だったような気がする。無機質な鉄の塊が侵食していくのを見る度に、自分の中で、核となる部分が少しずつ砕かれていく音を聞いた。
その間、一度も氷の上に立たなかった。堤先生にも一度も会わなかった。最後の日、誰かの親御さんが先生の今後を聞いていたが、立ち聞きは嫌だったのでその場を静かに去った。
釧路の他のリンクには、フィギュアスケートの教室は存在しない。
滑らなくなるうちに、いつかああなりたいと思った自分を忘れてしまう時が来るのかもしれない。泣きながらやめたくない、と言っていた練習仲間も、スケートのない生活に慣れるのは早かった。
8月の蒼天の下。むき出しの氷にタンチョウが群がり始める。
これはもう戻らない。これはもう、氷にはならない。……だからもう、自分は自分がなりたいようなスケーターにはなれないのかもしれない。
壊れていくのはあっという間で、忘れるのもあっという間だ。
飛び去って行くタンチョウの羽音。もう無理だろう。あきらめた心地で顔をあげると――一人の少女と目があった。
――泣かないから。そんな顔をしていても泣かないから。
なくなった氷を未練がましく眺めている時、星崎雅と再会した。横浜のリンクで一回だけ出会った女の子は、俺と目が合うと途端に泣き出した。彼女は傷ついた人の顔をしていた。困惑してしまう。彼女が泣く必要はないのに、何に傷ついていたんだろう。雅はぼろぼろと涙を流しながら、それでも、大丈夫だよ、絶対に大丈夫だよと言ってくれた。思い返しても、何が大丈夫なのかよくわからない。全部なくなったのに。俺には何もないのに。だけど、その時の俺が一番言ってほしかった言葉だったような気がする。
全部なくなっても、何があっても絶対に大丈夫だと。
そこで俺は、氷がなくなって自分がひどく傷ついていたことに気が付いた。
幼い雅は、泣けない俺の代わりに涙を流してくれていた。たった一回しか会ったことのない女の子が、どうしてここまで泣いてくれていのだろう。少し不思議で、少し嬉しかった。同時に、この子をこんなに泣かせている自分が、どうしようもなく情けなかった。
その時俺は決めたのだ。
もし次に氷が与えられたら、絶対に手放さない。掴み取って滑りこんで、頂点にまで手が届くスケーターになるのだと。
*
……瞼を上げると氷はなかった。バラード1番の流麗な音楽も、超絶的な演技を見せてくれた堤先生もいない。群がっていたタンチョウの姿もなく、幼い雅の泣き顔もない。
今は2016年の4月。ただ、何もない平地が広がっている。
――もし、君が氷を忘れられないというなら、俺のところにおいで。君の氷に対する情熱に、俺が培ってきた全てをあげる。
――もっと滑って。もっと見ていたい。私はてっちゃんの滑りが好きだ。
冷たい春の風が、再び過去の声を連れてくる。
大きく息を吸って、吐き出す。
スケーターとしての俺が生まれるきっかけを作ってくれた堤先生。
すべてを失った時に泣いて助けてくれた雅。
……俺が今こうして滑っていられるのは、家族が横浜行きを認めてくれただけじゃない。二人がいたからだ。
それを確認するために。忘れずにいるために、帰郷の度にここにきてしまう。本人たちには絶対に口には出したくないから。
あなたたちがいたから、俺は今、氷と共に生きていけるのだと。
……コートのポケットの中のiPhoneが鳴った。いつの間にかここに座って、30分以上たっていたらしい。姉の運転するプラッツが、道路わきに停車している。顔を上げた俺に反応して、姉がクラクションを鳴らす。結局姉にも家族にも、世話をかけっぱなしだ。
振り向かずに、俺はかつて氷があった場所を後にした。車までの短い道のなか、次のシーズンの事を少しだけ考えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます