無垢

雨宮吾子

無垢

 日が落ちかける頃の雨も人々が帰宅する頃には降り止んで、その無念を人々の胸に刻んだものだが、病み衰えた少女はいつまでも雨音の中に包まれていたいと願っていた。日がな一日を庭付きの二階のふかふかとしたベッドの上で過ごす少女の、ちょっとした欲望を詰る者がいるだろうか。汗水を流しながら家の前の通りを行く男性の、あるいは冷房の効いた営業車に乗った女性の、その想像の埒内に少女はいない。だから少女は無垢でいられた。いかにも透き通った手の甲は世間からの隔絶を表しているが、また同時にそこにある一点の黒子は、何か不吉な予兆を感じさせもする。しかしその予兆こそ少女の世界の埒内にはなく、というのは人は自分の身体の小さな小さな黒子にわざわざ目を留めることはなくて、だから少女は無垢でいられた。

 その夜の食事を終えた少女は、いつもなら読書でもして過ごす。例えば独国帰りの文豪の娘の物した小説でも読んだりするのを、その日ばかりは気が向かずに枕元に放り投げた。そうして窓外の雨の名残を探すことにした。窓硝子に残った水滴、夜空の雲の様子、開けてはならないと言われている窓の向こうに流れる空気の音。空調のよく効いた明かりの下にいては分からない何かを、少女は想像することしかできない。その文明の中で生き長らえることを少女は疑うことすらしないし、その必要もないのだが、しかし何かを変えてみたいという欲望もある。そうして彼女が生まれるずっと以前から当たり前になっている電気を、眠るわけでもないのに消してみた。

 夜というものは想像していたよりもずっと明るいのだな、というのが少女の第一の印象だった。都会の夜はそういうものだと気付くはずもない。目を転じれば、街路灯の下に集った雨粒の集合体としての水たまりがある。少女の目が特別に働いているわけではなくて、何か光を追いかけた先に偶然目に留まったものだった。それは何の変哲もない、ただの水たまりである。街路灯を浴びながら、それでいてその光を拒みながら、ただ夜空に向かって凛と存在している水たまり。その水たまりの先に何があるか、少女は確かめたいと思った。少女は待った。家の者が明らかに寝静まってから、少女は窓を開けた。恐る恐る開けたものだから甲高い風の音がして、少女は戦慄した。冷気が逃げ、代わりに温い風が入り込んでくる。その風を浴びると、温かさのせいなのか汚いためであるのか、少女の肺が静かに動揺した。靴が欲しいなと咄嗟に思ったものだったが、しかし夜の道を歩くことも叶わない。その代わりに窓硝子越しに見えていたのとはまた違うような、どうしようもなく新しい感覚が少女の胸に煌めいた。世界は生きているのだな、と少女は思った。そしていずれはこの世界から消えていく宿命にあることを、少女は初めて恨んだ。

 あの水たまりに視線を移す。夕暮れ時に黄色い傘を指してその上を飛び越えた小学生がいたことを、少女は知らない。その少し先の電柱のところに手向けられた花束のあることもまた知らない。ただ、今は、今だけは少女が水たまりを独占している。もしこの瞬間に人や車が通ったなら、きっと許さないとさえ思えた。その何でもない水たまりの上に煌めいた星屑を、少女は見もしないうちに感じ取った。

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無垢 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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