ソファラムの論過

白沢悠

ふたりきりの朝

 今のルピスがどれだけ幸せか、それは他人には絶対に分からない。

 宵の空の深い青色をした少女の眼は今、彼女の「親友」の姿をいっぱいに映している。この寒い冬の朝に毛布を跳ねのけ、寝台のすぐそばに立つルピスに無防備な寝顔をさらしているもう一人の少女は、名前をピアニーといった。

 ルピスは左腕を寝台について体を支えながら、身をかがめてピアニーの顔を覗きこむ。長い髪が相手の顔にかからないようよけることも忘れない。顔を近づけたせいか甘い匂いがするような気がして、誘われるかのように空いた右手でピアニーの髪をく。赤みの強い薄茶色の髪は真っすぐで柔らかい。甘い匂いがいっそう強くなり、頭の奥の方が熱を帯びてふわりと軽くなる。白い光が白い石壁や寝台に反射して、ただ白いばかりの世界に、二人の息遣いだけが重なりあう。

 ふいに、その片方が止んだ。

 息を止めたルピスがその唇で、そっとピアニーの唇に触れる。熱い。ピアニーの体温が高いのかルピス自身の高揚か、理性をとろかすほどの熱さにすぐ唇を離す。二、三歩後ずさり、自分の唇を指でなぞる。やってしまった、という思考に反して顔はり、指先に感じた形はどうしようもないほどに笑みのそれだった。

 頭を冷やそうとお茶をれる。水を汲んできて発火の魔術で湯を沸かし、二人分の茶葉を計る。手を動かしているうちに変なたかぶりは消えてくれた。花のような甘い香りに鼻腔をくすぐられてか、ピアニーのぶたがぴくりと動く。近くに行っても口づけをしても目を覚ます気配すらないのに、こうしてお茶を淹れると起きてくれるのだ。

「おはよう、ピアニー」

 眠そうな目をこすりながら起き上がるピアニー。何事もなかったふうを装ってルピスが笑いかけると、丸くした目を何度か瞬く。

「ルゥちゃん、ここどこ? 寮じゃないよね……?」

 転がすような発音で愛称を呼んでくる。いつもながらのかわいらしさと発言のおかしさにルピスが思わず笑うと、なんで笑うの、と質問を忘れて頬を膨らませる。

「だって、クエロ先生の助手になったから部屋をもらって引っ越してきたんじゃない。昨晩『明日は導入講義のお手伝いだ』って騒いでなかなか寝つかなかったのは誰だったかなぁ」

 二人の助手に与えられた部屋は、もはや早朝とはいえない陽射しに照らされていた。大切なことを忘れていたことで驚き赤面したピアニーが、導入講義という言葉に青ざめる。

「時間、大丈夫かな……どうしよう、最初のお仕事なのに」

「大丈夫だよ、ピアニーの準備は私が手伝うから」

 ルピスは微笑みながらお茶の入ったカップを渡した。彼女自身の身支度はほとんど終わっている。ありがとう、とうつむいて素直にカップに口をつけるピアニー。彼女がお茶を飲んでいる間に、ルピスはピアニーの着替えを持ってきた。

 顔を洗わせてから、でていたい気持ちをこらえつつ髪を二つ結びにしてやる。寝間着を脱いでもらって長衣にそでを通させ、革の胴当てをつけて、飾り紐のついた細い帯で腰の辺りを縛った。この上から袖のない外套を羽織るのが正式な服装だが、その外套は私室で着てはならないことになっている。ルピスは半歩下がってピアニーの姿を満足げに眺め、ふとまた近づいてえりを直した。

「ほらピアニーここ、襟が曲がってるよ」

「うん……ありがとう。……えっと」

 ピアニーは少し恥ずかしそうにルピスを見て、それから彼女の襟に触れる。ルピスの襟はきちんと整っていたが、何かお返しをしてくれようとする優しさが嬉しくて、ルピスはまた微笑んだ。

「ありがとう。ほら、あんまり時間ないから急ごうか」

 壁際に置いてあった教本と杖を取って渡す。ピアニーはこくりとうなずくと、ルピスに続いて部屋を出た。ここは普通の学校ではなく、魔術を教えるための学院なのだ。

 二人は外套を羽織ると、白っぽい石壁のところどころに灯された魔術の明かりを数えながら歩いていく。途中で深緑の外套を着た生徒たちとすれ違った。会釈をされ、ルピスは落ちついて、ピアニーは慌てて返す。深緑の外套は一般生徒の、青紫は助手をはじめとした上級生の証である。

 すれ違う人々が青紫の外套ばかりになった頃、ルピスは一つの扉の前で立ち止まってそれを叩いた。入っていいわと声がする。二人は部屋に入ると、並んで目の前の人物に一礼した。

「おはようございます、クエロ先生」

 クエロと呼ばれたその女性は、綺麗に片づけられた部屋で革張りの本を閉じ、どちらかといえば厳しそうな顔に笑みを浮かべる。見た目は若い彼女だが、生きてきた年数はそろそろ二百に届くとルピスは聞いていた。頭のねじれた角が示す通り、彼女は書物の民ベルディア、魔術にぞうけいの深い長命種族なのだ。

「おはよう二人とも。昨晩はよく眠れた?」

 しかし、りゅうちょうな人族語で新人助手たちの体調を気遣う彼女は、この学院では外見年齢の割に実力のある変わった教師といったほどでしかない。ルピスたち人族の中には魔族を嫌う者もいるが、そうした者が魔族の技術である魔術を習おうとするはずがないのだ。二人がはい、と返事をすると、クエロは教師を表すえん色の外套を手に立ち上がる。

「それじゃあ行きましょうか。新入生が待っているわ」

 ルピスたちはクエロと一緒に来た道を戻り、大きな両開きの扉の前に着く。そこが導入講義の教室だった。それぞれ片方ずつの扉を押し開けた二人が教壇の脇に立ったことを目で確かめて、クエロは新入生を見渡し、素早く拡声の魔術を使って話しはじめる。

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