第15話
撮影会が終わって、メイから生理が終わるまでの5日間だけ休みがもらえた。
生理でお休みだなんて、まるで体育の授業みたいだと思った。
アタシはカナヅチで、中学のときは夏になるとプールの授業があるたびに生理だと嘘をついてプールサイドで見学していた。
先生はアタシが泳げないことを知っていて、いつも仕方ないやつだなと言った。
見学者はいつもアタシとちょっと太った男の子のふたりだけだった。
その男の子にはプールサイドで告白をされたこともあったのに、アタシは彼の名前をもう忘れてしまっていた。
まだたった一年前のことなのに、なんだか遠い昔のことのような気がした。
アタシはプールサイドから、みんなが楽しそうにはしゃぐプールを、指をくわえて羨ましそうにいつも見ていた。
夏の大きな雲の下で跳ねる水しぶきがとてもきれいだったことだけは、今でも鮮明に覚えていた。
緑南高校にはプールがない。
だからアタシは緑南を受験したんだけれど、あの水しぶきをもう見れないのは少しだけ残念な気がした。
アタシはあの男の子にまた会いたいな、と思った。
プールサイドでアタシに告白をした男の子じゃなくて、この間会ったばかりの、アタシが満足に顔もつけられない水という字が苗字に入ってた、十和という名前のあの男の子に会いたいと思った。
この間のように駅前のマクドナルドで待ってたら会えるかな、と思った。
だからメイと駅で別れたアタシは、マクドナルドであの男の子がやってくるのを待っていた。
今日はちゃんとガムシロップがふたつもらえたから、頭がとろけちゃいそうに甘いアイスティーを飲みながら。
あの男の子はなかなかやってこなかった。
駅前には小さな映画館があって、マクドナルドから映画館に並ぶ人たちの列が見えた。
そっか、今日からだっけ、とアタシは思った。
夏が始まる前からすごい評判の流行りの映画だった。
なんていうタイトルだったか、誰が主演だったか、アタシは覚えていなかった。
映画館に最後に行ったのは、一学期の中間試験が終わってすぐのことだった。
映画を観終わったあと四人でこのマクドナルドに入って、禁煙席の一番奥のテーブルで、映画の内容じゃなくて、誰がどのシーンで寝ちゃったとか、誰が最後まで起きていられたかとか、そんな話で盛り上がった。
楽しかった。
アタシたちはもう、あのときのようにいっしょに映画を観るなんてことは二度とないんだろう。
少しだけ寂しかった。
アタシたちは四人で写した写真さえ一枚もなかった。
持ってないからほしかったと思うだけなのかもしれない。
持っていたら今頃破ってゴミ箱に捨てていたかもしれない。
いい加減、アタシは理解しなくちゃいけないと思った。
アタシたちははじめから友達なんかじゃなかったんだ。
このまま夜になってもあの男の子がやってこなかったらひとりでレイトショーを観るのも悪くないかなと思った。
そんなことを考えながら、暇をもてあましていたアタシは、アイスティーを載せたトレイの上に敷かれていた紙を見ていた。
マクドナルドのミートパティが、どうやってオーストラリアの牧場からアタシの口に届くのかがイラストつきで書かれている紙だ。
もう何度も読んだはずなのに、何度読んでもはじめて読む気がした。
「今日は客待ちって顔してないね」
頭の上からそんな声が聞こえて、アタシは顔を上げた。
「ぼくを待ってたって顔、してる」
そう言って、十和は笑った。
「だって、そうだもん」
とアタシは言った。
十和もアタシにもう一度会いたいと思ってたっていう顔をしていた。
だけど客待ちの顔をしていた。
いつの間にかアタシにもそういうのがわかるようになっていた。
それが少し悲しかった。
「君の名前を聞いてなかったからね」
と、十和は笑った。
「ここに来たらまた会えるかなって」
アタシたちはお互い同じことを考えてた。
「教えてよ、君の名前。ぼくは水島十和」
「アタシは、加藤麻衣だよ。
ねぇ十和、映画を観に行かない?」
アタシはその日はじめて男の子を映画に誘った。
アタシは十和を映画に誘いながら、映画館に長い行列を作る映画がどんな映画だったか少しだけ思い出した。
確か製作費が10万ほどという、アタシが何回かウリをすれば手に入ってしまうお金でその映画は作られていた。
まだ若い日本人が監督で、その人は作家としても活躍していて……。
そこまで思い出して、その映画の監督の名前が確か、花房ルリヲという名前の小説家だったと思いだした。
アタシといっしょに「美嘉の部屋」の惨劇を眺めた、あの人だ。
「アタシ、あの映画の監督に買われたことがあるんだ」
映画館に出来ていた長い行列を興味なさそうに見ている十和に興味をもってほしくて、アタシは思わずそんなことを話してしまっていた。
「ぼくはいいや」
苦笑しながら十和は言った。
「ぼくは同じ映画ばかり繰り返し観てばかりで、他の映画は観ないから」
と十和は言った。
「それ、なんていう映画なの?」
十和のその言葉にアタシはとても興味を持った。
「古い映画だから知らないと思うけど」
グラン・ブルー、と彼は言った。
「1988年に公開されたフランスとイタリアの合作映画なんだ。監督はリュック・ベッソン。
名前を聞いたことくらいあるだろ?」
フリーダイビングの世界記録に挑むふたりのダイバーの友情と軋轢、そして海に生きる男を愛してしまった女性の心の葛藤を描く海洋ロマン。
グラン・ブルーはそんな映画だという。
十和の説明を聞いているうちに、気付いたらあの人の映画を観に行きたいなんていう気持ちはどこかへ行ってしまっていた。
きっと十和がアタシのもとからどこかへ連れ去ってしまったのだ、と思った。
好きな映画について語る彼の話をもっと聞きたいとアタシは思った。
そして十和は映画にも出てくるというイルカの生態について、いろんな話をしてくれた。
十和はすごく大人びた男の子なのに、ひとつのことに夢中になって熱く語ってしまうところが、まるでこどもみたいで、なんだかとてもかわいかった。
「ぼくは海に行ったことがないんだ」
十和の話は、映画の話から、イルカの話になり、そして思わぬところに着地した。
「麻衣はあるの?」
と聞かれて、アタシはあるよと答えた。
十和は目を輝かせて、
「どうなの? 海ってどんな感じ?」
こどもみたいに聞いてくるからアタシは笑ってしまった。
「海は海だよ。砂浜があって、みんなの足跡が波ですぐに消されちゃって、海は途中に島が見えたりするけど、水平線の向こうまでずっと続いてるの」
「やっぱり、しょっぱい?」
と聞かれて、アタシは海に行ったことはあるんだけど泳いだことないんだと言った。
「泳げないんだ、アタシ。カナヅチだから」
アタシがそう言うと、
「俺、水泳やってたんだ」
と彼は言った。
一人称が「ぼく」から「俺」に変わって、アタシは少しだけ驚いた。
アタシね、十和のことだから、すぐにわかったんだ。
十和はたぶん無意識だったと思うんだけど、家族の話をするときだけ、「ぼく」じゃなくって「俺」になるんだって。
このとき気付いたんだけど、アタシはずっと十和に言わなかったことがあるんだ。
「ぼく」から「俺」に変わるときだけ、十和はなんだか男の子として見られたがってる気がしたんだ。
だからアタシ、十和がアタシのことでアタシの前で、「ぼく」じゃなくて「俺」って言ってくれるのを、たった5日の間だけだけど、ずっとずっと待ってたんだ。
「こどもの頃、喘息もちだったんだ。それで体質改善のために習わさせられてたんだ。
俺の家、なんていうのかな、別に金持ちってわけじゃないんだけど、父親が一応官僚で、年の離れた兄貴は東大行ってるんだ。
だから俺も小さい頃からいろいろと習い事させられてて、喘息が治ったらすぐに水泳はやめさせられちゃったんだけど。
水泳だけは好きだった。
俺、人付き合いが下手だから、地上の方が息苦しいっていうか、水の中にいる方が楽だった。
水の中にいるときだけ、自分らしくいられるような気がするんだ。
水の外はどこにいても息苦しくてしかたなかった。
俺、すごいこどもが好きなんだ。
だから水泳の先生になりたいなって思ってた」
水のことを話すときの十和は水を得た魚のように自由だった。
そこまで話してくれた後で、
「何しゃべってんだろ、俺」
顔を真っ赤にして十和は言った。
「初対面の相手に何熱く語っちゃってるんだろ。ちょっとイタイよね」
と言った。
アタシは首を横に振った。
「初対面じゃないよ」
だってアタシたちが会うのは今日が二度目だったから、アタシはそう答えた。
だけど十和は、顔いっぱいに汗をかいて恥ずかしそうにして、
「ちょっと喋りすぎちゃったな。ぼく、もう行くよ」
そう言って、席を立とうとした。
アタシはその、有名私立の制服の袖をつかんだ。
「今日も男の人に体を売るの?」
アタシは聞いた。
十和は答えなかった。
「アタシ、もっと十和とお話してたい。十和のこともっと知りたい」
十和といっしょにいたい。
そんな言葉がアタシの口からこぼれおちて、アタシが一番驚いた。
十和も驚いた顔をしていた。
「場所、変えよっか」
そう言った。
「ここにいたら、客がぼくを迎えにきちゃうから」
お金ないから、寝るとことか借りてあげられないけどいい?
と、十和は言った。
アタシはいいよと言って、アタシたちは手を繋いでマクドナルドを出た。
「家に帰りたくないんだ」
駅からそう遠く離れていない公園で、空はカラッカラに乾いた夜空だったけれど、雨風を防げそうなふたりで寝転べるような遊具を選んで、アタシたちは並んで寝た。
「父さんは出来のいい兄貴ばっかりかわいがって俺を見てくれないんだ。
俺は父さんの言う通りに兄貴の背中を追って一生懸命やってきたけど、父さんは一度だって俺を誉めてくれたり優しく頭を撫でてくれたりしなかった」
「だから、お父さんの代わりに、誰か男の人に愛されたくて体を売ってるの?」
アタシは聞いた。
そうだよ、と十和は答えた。
「だから家に帰りたくなくて、知らない男に抱かれて夜を明かすんだ。
客にはね、ホテルの宿泊代を出してもらう約束で、客をとるんだ。
客は俺を抱いた後でひとりで帰って、俺はひとりで朝までホテルで過ごすんだ」
朝になったら夜まで適当に時間を過ごす、そしてまた客をとるのだと十和は言った。
十和はほとんど学校に行っていないみたいだった。
高校二年だけど、留年していて、年はアタシよりふたつ上だった。
十和が通っている学校は、私立の中高一貫の男子校で、アタシみたいな成績が中の中の女の子から見たらすごいと言うしかないくらいの、お坊ちゃま学校だった。
「中学受験までは親の言うことをちゃんと聞くいい子だったから入れたんだ。
高校生になってからはほとんど家に帰らなくなって、学校にもあんまりいかなくなってダブっちゃった」
そう言って十和は笑った。
「一回ダブっちゃうとさ、クラスメイトがみんな年下になっちゃうだろ。変な気遣われてるのもわかるし、ますます行きづらくなった」
今ではもうほとんど学校に行ってないみたいだった。
「オメガSEAマスターっていう時計があるんだ」
と、彼はぽつりと言った。
「さっき話した映画の主人公の、ジャック・マイヨールモデルの時計があるんだ」
そう続けた。
「家に帰りたくないから体を売ってるだけだけど、何か目標みたいなのがあるといいなと思ってさ、お金貯めてさ、それ買おうと思ってるんだ」
と十和は言った。
「いくらするの?」
とアタシは尋ねた。
44万千円、と彼は答えた。
十和はあと何回男の人に体の人を売れば、それを手にいれることができるんだろう、とアタシは思った。
アタシも、十和も、いつまでも続けていけるわけじゃなかった。
いつか終わりにしなくちゃいけないことをふたりともしていた。
そのいつかが、今日か明日だったらいいのに、とアタシは思った。
「麻衣さ、泳げないんだったよね」
十和にそう言われて、アタシは「うん」と答えた。
「いつかさ、ふたりで海に行こうよ。教えてあげるよ。コツさえ掴めたら泳ぐのなんて簡単だから」
ぼくのバタフライ見せてあげるよ、と十和は言った。
アタシはもう一度、うんと言った。
「海のきれいな砂浜で、ふたりで海の家やろうよ。
麻衣が店番で、ぼくはこどもたちに水泳教えて。
きっと楽しいと思うんだ」
あたしはもう一度、うんと言った。
不思議と、なぜだかわからないけれど、アタシは涙がこぼれて止まってくれなかった。
「ぼくなんかでいいの?」
と十和は聞いた。
「男に体売ってるような男だけどいいの?」
アタシは返事をする代わりに、彼の唇にキスをした。
アタシと十和は、公園の遊具の中で明け方までいろんなことを話した。
家に今日は帰らないと連絡をいれようとして、自分で電話なんかしたら電話口でパパにこっぴどく叱られると思ったアタシは、ハーちゃんにメールを入れて、今日はハーちゃんの家に泊まっているということにしてもらった。
ハーちゃんは、年頃の女の子だもん、いろいろあるよね、まかせておいて、と絵文字つきのかわいいメールを返してくれた。
明け方にしとしとと降り始めた雨が、アタシたちの体を冷やし、夏の終わりが近付いてきていることをアタシは肌で感じた。
喋り疲れたアタシたちは手を繋いで身を寄せあって泥のように眠った。
十和の手はとてもあたたかくて、とても心地がよかった。
そしてアタシは悪い夢を見た。
「オナニーして見せてよ」
紺のハイソックスだけを履かせたアタシの裸の写真を撮り終えると、メイが言った。
「もう一回だけ体操服着て、ブルマはいてもらって、それでオナニーしてるとこ見せてもらってもいい?」
動画、録るからさ、写真とか動画とか、多ければ多いほど、その体操服とかブルマとかをオークションにかけたときに、男はいろんな妄想をして高値をつけてくれるようになるの、とメイは続けた。
アタシは産まれてから一度もひとりでしたことがなかった。
あそこが濡れるってことを知ったのだって、yoshiと付き合い始めてからだった。
はじめて舌をからめてキスをしたときに、脳がとろけそうなくらいに気持ちよくなって、アタシははじめてする大人のキスに体の震えがとまらなくて、それでもはしたない女の子だなと思いながら何度もキスをおねだりした。
アタシはあのとき、はじめて濡れるってことを知った。
「まさか、したことないわけじゃないよね?」
メイに言われて、
「うん……、実は……」
アタシがそう言うと、
「呆れた」
とメイは言った。
「じゃあ、ろくに濡れるってのも知らないでyoshiとエッチしたんだ?
yoshiかわいそう。
自分もはじめてなのに、相手が全然濡れてくれなかったら入るものも入らないじゃない」
そう言った。
その通りだった。
はじめてyoshiとしたとき、胸を触られたりあそこを触られたりしても、気持ちいいって思えるほどじゃなくてなんだかくすぐったいくらいにしか感じなくて、アタシはちっとも濡れなくかった。
制服のズボンが破れてしまいそうなくらい大きく膨れあがっていたyoshiのペニスは、なかなかあたしのあそこに入らなかった。
yoshiが汗だくになりながらようやくアタシの中に入ってきたとき、アタシはあまりの痛さに声をいっぱい出した。
yoshiはその声をアタシが気持ちよくなってると勘違いして、何度も何度も腰を振り続けて果てた。
アタシのあそこからはたくさん血が出た。
そんなのは最初のうちの何回かだけだったけれど。
「yoshiの話はもういいよ」
と、彼との思い出を振り払いたくてアタシは言った。
「じゃあ、してみせてよ。
やりかたがわかんないんだったから、あたしが教えてあげるからさ」
「でも今生理中だし……」
「別に指を中にいれろなんて言ってないじゃない。
あんたみたいに長い爪してる子が指なんか中にいれたら傷がついてまた炎症起こしちゃうよ」
そう言うメイの指は、痛々しいくらいの深爪をしていて、アタシはきっとあの指をメイはあそこの中にいれたりしてるんだと思った。
「生理中でもオナニーしようと思えばいくらでもできるんだよ?」
アタシはメイに言われるまま、ひとりでした。
自分でしてもあまり気持ちいいものじゃなかった。
だけどそのときアタシは、メイに見られながら、ケータイのカメラの前でそうしていると、何故だかひどく興奮した。
先に目を覚ましたのはアタシだった。
雨足は少しだけ強くなっていて、アタシはふたりとも傘を持っていないことに気付いて、どうしようかなと思った。
このまま十和といっしょにここで雨が止むまでずっといるのもいいな、と思った。
起き上がると遊具の外に、黄色い長靴を履いた女の子の脚が見えた。
傘をさしているのか女の子の足元だけ雨が止んでいた。
きっと赤い傘だとアタシは思った。
女の子がしゃがんで、遊具の中にいるアタシたちを覗き込んだ。
やっぱり赤い傘だった。
「もう新しい男が出来たんだ?」
赤い傘を持ったメイがアタシの隣で寝息を立てていた十和を見て、そう言った。
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