第12話
お客さんは棗先生みたいな人だとアタシはメイから聞かされていた。
棗先生みたいな人、ってなんだか少し漠然としすぎている気がした。
メイはまだ美嘉からツーショットダイヤルを引き継いだばかりだから仕方がないなとアタシは思った。
引き継ぐといったって美嘉は精神科病棟の病室でずっと薬で眠らされているのだ。
いくら頭のいいメイでもそう何でも簡単に最初からうまくできるわけがないと思った。
そうじゃなかったらフツーの女の子のアタシとメイみたいな頭のいい女の子は、スタート地点がもう違っていて、アタシたちの間にある距離はそこからどんどん離れていくばかりだ。
そんなことを考えながら、アタシはもうとっくにフツーの女の子じゃなくなっていることに気付いて苦笑した。
フツーの女の子はきっと、興味本意で実話を元にしたケータイ小説や、雑誌の付録についてくる女の子のエッチな体験談や、何年か前からどんどん過激な内容になってきている少女マンガを読むくらいしかしなくて、ウリなんてしない。
アタシはもうとっくにフツーの女の子じゃなくなっていた。
アタシはマクドナルドでアイスティーを飲み終えると、さっき会った十和という男の子のことをぼんやりと考えながら、棗先生みたいな人がやってくるのを待った。
スコールのように降った雨はもうやんでいて、先ほどの行列が嘘みたいに店内にお客さんはまばらだった。
あの男の子、背高かったな。
でもyoshiよりはちょっと低いかな。
yoshiのことを思い出してしまって、アタシは頭をぶんぶん横に振って頭の中にうかんだ彼の笑顔をかき消した。
yoshiはメイのパパが高い保釈金を用意して近々釈放されると、メイから聞いた。
あたしんち、美嘉んちと違ってお金持ちだから、とメイは言った。
「今度会うときはyoshiもいっしょかもね」
メイはそう言ったけど、アタシは願い下げだった。
yoshiにはもう会いたくなかった。
気を抜くとすぐに浮かんでくるメイの顔やyoshiの顔をかき消したくて、頭を横に何度も振っていると、
「何してるんだ、加藤」
後ろからそう声をかけられた。
聞き覚えのある声にあたしが振り返ると、そこには棗先生がいて、アタシの肩に大きな手を置いた。
棗先生みたいな人っていうのは、棗先生だった。
アタシは、やっぱりメイは頭がいい、と思った。
「先生のこと、悪い先生だと思うか?」
学校のすぐそばのラブホテルでアタシを抱きながら、棗先生は言った。
アタシはその言葉に返事をかえさなかった。
「お前は悪い生徒だよな」
先生はそう言った。
入学してからずっとアタシは棗先生に憧れてた。
yoshiがもし同じクラスじゃなかったら、スポーツ大会で活躍する彼をアタシが見なかったら、アタシはきっと棗先生に恋をしてたはずだった。
かなわぬ恋をして三年間を過ごしたかもしれなかった。
アタシはまだバージンのままで、美嘉やメイにウリをさせられることもなかったかもしれなかった。
棗先生はアタシにとってそういう存在だった。
大好きだった。
だけどそんな先生に抱かれていても、アタシはちっとも嬉しくなかった。
先生がアタシを好きなわけじゃないことも、アタシは今かわいい教え子でもなくて、ただ体を買われただけの女の子だということも、アタシはわかっていたから。
先生がアタシの中に入って、動けば動いた分だけ、先生を好きだった気持ちが段々とさめていくのがわかった。
最後にはもうアタシは何も感じなくなっていた。
先生がアタシの中で果てると、アタシはすぐに彼の体から離れてベッドを降りて服を着はじめた。
「ムードのないやつだな」
と先生は言った。
ピロートークでもしてくれるつもりだったのだろうか。
アタシはそんなものいらなかった。
服を着るとアタシは先生に手を差し出した。
アタシがほしかったのは、お金だけだった。
凛の中絶費用だけだった。
「そんなに慌てることないだろ」
と、先生は笑った。
「少しくらい話をしてくれたっていいんじゃないか?」
ラブホテルで面談なんて冗談が過ぎるとアタシは思ったけど、先生の隣に座った。
「お前たちはいいよな」
棗先生は煙草を吸いながらアタシに言った。
「教師に怒鳴られたり、殴られたことしたことないだろ」
「犯されたこともなかったよ」
アタシは言った。
先生は、はははと笑った。
「先生が中学生や高校生の頃はな、学校教育が体罰を悪とするほんのすこし前で、まだ体罰が当たり前のようにあった時代だったんだ。
ぼくたちはその最後の世代だった。
遅刻しては殴られて、忘れ物をすれば殴られて、宿題をしていかなかったら殴られて、休み時間に黒板に落書きしただけでも、名前を呼ばれて返事をする、その声が小さいだけでも殴られた。
先生の先生たちはな、それを教育だと言っていた。体罰は暴力なんかじゃなくて教育だってな。愛の鞭だとかいう先生もいた。
だけど愛に溢れているはずの拳をふりかざすその顔は、観音様みたいな慈愛に満ち溢れているわけじゃなかった。
生徒に対する怒りで真っ赤で、唇をふるわせて声を荒げて怒鳴りながら先生はぼくたちを殴るんだよ。
中学のときの同級生に、百音(ももね)っていう名前の女の子がいたんだ。
その子はちょっと虚言癖のある子で、お前の友達の内藤美嘉みたいな子だった。
その頃はちょうど安室とかMAXとかが人気絶頂の頃で、その子はぽっちゃりしてるっていうかはっきり言えば肥満だったんだけど、自称芸能人の卵で、安室とかMAXと同じ事務所に入ってるとよく自慢していた。
だけど誰も百音の話を信じなかった。
だから百音は焦ったんだろうね、安室ちゃんは無理だけどMAXのサインをもらってくるなんて言い出したんだ。
そしてあの子は本当に次の日MAXのサインを学校に持ってきた。
だけどサインってさ、ぼくは直接芸能人が書くのを見たことないんだけど、あ、一回だけあるか、二十歳くらいの頃に、大槻ケンヂの作詞集のサイン会に並んだことがあったな。知ってるか? 大槻ケンヂ。お前たちくらいのこどもは知らないよな。
フツーな、サインってサラサラッて書くもんなんだよ。
だけど百音が持ってきたMAXのサインは一枚の色紙にメンバー四人分のサインが書かれてはいたけれど、たどたどしくていかにも見よう見まねで時間をかけて書きましたって感じなんだよ。
そんなサインをその子はクラスメイト全員分用意して、前の夜に寝ずにがんばって書いたんだろうな、目の下に大きなクマのついた顔でみんなに配ったんだ。
そして、それが教師たちの耳に入って百音は生徒指導室に呼び出された。
教室に戻ってきたその子は両頬を赤く大きくはらして、腕や脚に大きな痣が出来ていた。
学校に必要ないものを持ってきたから、というただそれだけの理由でその子は顔が腫れたり痣ができたりするくらい、数人の教師に何度も何度も殴られたんだよ。
百音は小便をもらしていた。
それきりあの子は学校に来なくなった。
ぼくはそれを見て、これは絶対に愛の鞭じゃないと思った。教育じゃないと思った。
ぼくが高校を卒業する年に、この国は教育における体罰を悪とするようになった。
ぼくはそのとき、今までぼくたちが殴られ続けてきたのは一体なんだったんだろうと思った。
百音が学校に来れなくなってしまったのはなんだったんだろうと思った。
ぼくは推薦が決まっていた私立大学の文学部を蹴って、国立大の教育学部を受験して入学した。
ぼくは教師になろうと思った。
ぼくが何故教師になろうと思ったかわかるか?
ぼくはね、今まで体罰を正しい教育だと信じて疑わなかった連中が、それは間違っていたとお国から言われて、連中にとっての正義が崩壊したと思ったんだ。
だけどお国は誰も罰することはなかった。
正義が崩壊した連中は、それからどう教育に携わっていくのか、ぼくはそれが見たかった。
だからぼくは教師になった。
教師になって五年が過ぎて、ぼくはぼくたちを殴り続けてきた連中のうちの何人かに再会した。
ぼくたちを殴り続けていたときの面影すらないような、くたびれた、疲れ果てた、そういう姿をぼくは想像していた。
けれど再会したあいつらは、まるで体罰なんて一度もしたことがないというような顔をして、何かしらの責任をとることもせず、のうのうと教壇に立っていた。
百音のことなど覚えてもいなかった。
そしてぼくは、何のために教師になったのかわからなくなった」
先生は長い話を終えると、火のついたまま灰皿に置きっぱなしだった煙草に目をやった。
煙草は火がつけられる前の形のまま灰になって、フィルターだけが燃えずに残っていた。
先生の指がそのフィルターに触れると、灰は途端に形を失って崩れて、フィルターに燃え移った火はあまったるいいやなにおいを出して、あたしの鼻孔をくすぐった。
アタシは、たぶん先生は、きっと百音さんのことが好きだったんだろう、と思った。
アタシは百音さんのことを何も知らないけれど。
「百音はね、学校に来なくなってしばらくして自殺してしまったんだ」
百音さんが先生の人生を変えてしまったんだと思った。
だから百音さんを不登校に、死に追いやった人たちが、その後どんな人生を歩むことになるのか、それを見届けることが先生の復讐だったのだ、と思った。
「先生は、お前たちに甘いだろ?」
棗先生はアタシに聞いた。
アタシは棗先生が他の教師たちのように声を荒らげて誰かを叱ったりするところを見たことがなかった。
だからアタシはこくりとうなづいた。
「なぜだかわかるか?」
そう聞かれてアタシは首を横に振った。
「お前たちに興味がないからだよ」
先生は言った。
「お前たちがこれからどんな大学に入学するか、どんな会社で働くことになるのか、どんな恋愛をして、どんな大人になるのか、先生はそんなことに何の興味も持っていないんだよ」
だからアタシたちが先生の授業中に他事を考えていたり、ケータイをいじっていたりしても、先生はアタシたちを怒らないのだと言った。
「ぼくはただ百音の復讐のためだけに教師になった。
勉強は出来たし、外面もいいから、教師になるのはとても簡単だった。
だけどぼくは教師になってはいけない人間だった。
かわいいはずの教え子の体を、何のためらいもなく買うこともできるような人間だった」
先生は笑った。
「ぼくはもう教師であり続ける意味を失ってしまった。
それだけじゃない。つい先日ぼくは、ぼくの受け持つクラスから覚醒剤の中毒者を出してしまった」
yoshiのことだ。
「ぼくはもう終わりだ。
緑南高校の名は、覚醒剤中毒者ばかりのバスケ部を持っていたということが全国に知れわたってしまった。
ぼくはたぶん来年度で他の高校へ行くことになるだろう。
そしてどこの高校へ行っても、あぁあのバスケ部の、と言われ続けることになるだろう。
先生の教え子にもいたんですか、と尋ねられ続けるだろう。
ぼくは笑ってはぐらかしていくことになるんだろう」
先生ならきっとうまくやっていけるだろうとアタシは思った。
ずっとアタシたちを騙し続けてこられた先生なら、これからもきっといい先生であり続けることができるだろうと思った。
「夏目メイ」
先生はメイの名を唐突に口にした。
「あの子だけは、ぼくの本質に気付いていたみたいだった」
先生は言った。
先生の生徒たちは皆、アタシのように先生のことをいい先生だと思いこんで、何でも、どんなことでも先生に相談してきたのだそうだ。
「だけどあの子だけは違っていた」
先生はおびえたような顔で言った。
メイの目を見る度に、先生はあの子にすべて見透かされているような気持ちになったそうだ。
「さっき、ぼくは何のために教師になったのかわからなくなったと言ったね。
もう教師であり続ける意味を失ってしまったと言ったね」
アタシはもう一度うなづいた。
「それはね、ぼくがもう生きる意味を失ってしまったということと同義なんだよ」
と、先生は言った。
「ぼくは生きる意味をもう持っていやしないんだ」
もう一度、そう言った。
「百音の復讐を果たすことのできないぼくは、ただ天寿を全うするその日まで、何の目標も目的も持たずに生きていくんだ。
そんなぼくを生かせるために何百何千という動植物の命が踏みにじられていくんだ。
そんなことを考えていると、ぼくはこの世界にはもういない方がいい気がしてきた」
そんなとき、夏目メイからぼくに電話があった。
「一学期の終業式以来会っていなかったのに、あの子はぼくが考えていることをすべてお見通しだった」
先生にぴったりのいい心中相手がいるよ、とあの子は言った。
明日駅前のマクドナルドでその子を待たせておくから、とあの子は言った。
「そしてあの場所に加藤、お前がいた」
先生は、今までにアタシを買ってきた男の人たちのように、ツーショットダイアルで偶然アタシになりすましたメイに出会ったわけじゃなかった。
メイが先生を選んで電話をしたのだ。
「先生といっしょに死んでくれないか」
いっしょに百音のところへ行こう。
先生はそう言って、アタシのもうひとつの恋がその日終わった。
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